民数記24章

24章 バラムの唱のことば2(3回目、4回目)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。バラムの三度目、四度目の託宣が語られます。それは、イスラエルの祝福を語るものですが、究極的には終末的に成就する預言のことばでした。旧約聖書をただ、その時代のものとして読むのではなく、終末的な視点をもって読むことは、新約聖書を深く理解する助けにもなります。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.バラムの三度目の託宣(23:27-24:13)
バラクはバラムを別の場所へと案内した。三度目の正直と言わんばかりである。ペオルの頂上はどこであったのかは、具体的にわかっていない。しかし、そこは先の二つの場所と違って、イスラエルの宿営全体を見渡せる場所であり、死海の北東岸のどこかと考えられている。バラクは、全体を見れば、のろうことができたと考えたのかもしれない。しかしバラムは、イスラエルの三度目の祝福を語り伝えることになる。それは、イスラエルがカナンに定住しその王国が繁栄すること、そして特定の敵に対する勝利である。たとえばバラムはイスラエルの未来を、川のそばに育つ力強い木々になぞらえている。杉は水辺には育たない。しかし杉には勢いがある。だから「水辺の杉」というのは、さらなる勢いを表現しようとしたものなのだろう。7節「手おけからは水があふれ」というのは、まさに豊かさのイメージであリ、象徴的に人口増加を語っているとされる(箴言5:15-19)。「アガグ」は、イスラエルの最初の王であるサウルが打ち破ったアマレク人の王アガグ(1サムエル15:8)というよりも、アマレクの王一般を象徴している。つまり、バラムはイスラエルのアマレクに対する究極的な勝利を預言的に語っているのである(出エジプト17:14-16)。
 大切なのは、神の祝福は、アブラハムの祝福を基本としていることに注目することだろう。「あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者はのろわれる」(9節)誰であれ、のろわれた、滅びを宣言されたと思わせられるようなことがあったら、このことばを思い起こすべきなのだ。主が私たちの味方となる。主が私たちを支えられる。主が私たちの敵となる者に、立ち向かわれる。神のみこころは祝福の一文字に限られている。それは永遠の昔からの定めであり、私たちの人生に対しても同じである。だからどんなに神の祝福が見えないように思えても、また人にのろわれるようなことがあっても、滅びを宣告されるようなことがあっても、神の約束を信頼し、そのことを実現させようとする神の御手の動きをじっと見ていくことだ。神の御業はなされる。
2.バラムの四度目の託宣(24:14-19)
15節からは、バラムの第四の祝福が語られる。それは第三の託宣の続きであり、イスラエルの未来の王の功績を描いている。「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない」(17節)と、彼の預言は先のことであるとされる。「ヤコブから一つの星が進み出る」とある星は、王を比喩的に表すものとして用いられているが、この王は、隣国のモアブ、セツ、エドム、セイル、アマレク、ケニ人を征服する。しかしこれらはいつ成就したのか?
20節、アマレクは、ヒゼキヤの時代に最終的に滅ぼされた民族である(1歴代4:43)。21節以降はとくに理解し難い。ケニ人は、歴史的にイスラエルと良い関係にあった民族であるのに、なぜ滅びが宣告されるのか、わからない。カインは何を意味しているのか。アシュルは、一般にアッシリヤのことであろうが、ケニ人だけが征服されるというのもわからない。だから隣国の別の民族であるという説もある。キティムは、キプロスにある町のことであるから、海の民、つまり、アッシリヤの征服であるとも、またBC4世紀のギリシャ、BC1世紀のローマであるという説もある。
細かなことをあれこれ詰めて預言がどのように成就したのかを理解しようとすると、よくわからないことが多い。だから、未来に現れるイスラエルの支配者が隣国のモアブ、セツ、エドム、セイル、アマレク、ケニ人に決定的なダメージを与える、と大まかに理解するしかない。となると、これらの預言が最初に成就したのは、バラムより約300年後のダビデの治世であるが、それは一時的である。イスラエルとユダ王国が弱体化すると彼らは再び勢いを盛り返したのである。だから、後の預言者たちはそれが部分的にしか成就していないことを理解し、この預言を再使用している(エレミヤ48:45、ダニエル11:30)。また偉大な王の詩篇110篇と民数記24:15-19には言葉の上での並行関係があることが指摘され、ユダヤの文献でもそれはメシヤ的に解釈されてきた。ただ、新約聖書にバラムの預言がはっきりとそれとわかる形で引用しているものはないが、暗示的な箇所はある。(マタイ2:1-10、ルカ1:78、黙示録2:26-28、22:16)そこで、彼の預言についてその完全な成就は、後のメシヤの時代で、終末的に理解すべきものとなる。完全な勝利は罪と死を滅ぼしたキリストによってもたらされることが暗示されている、ということになる(1コリント15:25)。

民数記23章

23章 バラムの詩のことば(1回目,2回目)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。バラクがバラムにイスラエルの民を呪わせる具体的なエピソードが語られます。それは三度繰り返されましたが、神がバラムに与えられたことばはイスラエルに対する呪いではなく祝福でした。私たちに対する神のおことばもご意志も同じです。神が私たちを祝福してくださることへの信頼を深めたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.バラムの最初の託宣(22:41-23:12)
 モアブの王バラクは、バラムが到着すると、見晴らしの良い場所にバラムを案内し、イスラエルをのろわせようとした。バラムは、中近東の占い師の伝統に従い、七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をささげようとする。イスラエルにおいても七は神聖な数であり、雄牛と雄羊は高価なささげものである。彼らは最善を尽くし、神の好意を得ようとしたのだろう。「裸の丘」というのは、見晴らしの良い、高くそびえた山で、草木の生えていない頂上という意味で、当時の占い師は、こうした場所を好んで用いたようだ。神はバラムにご自身を現し、語られた。
 待ち構えていたバラクのもとに帰ると、バラムは彼の歌のことばを口にして言った。「詩のことば」と訳されている単語はヘブル語でマーシャール。新改訳の旧約聖書では、「たとえ話」(詩編78:2)、「たとえ」(エゼキエル17:2)、「箴言」(1列王4:32)、「物笑いの種」(申命28:37)と様々なことばに訳されている。また新共同訳では「託宣」と訳されている。必ずしも言いならされた格言を意味するわけでもない。むしろここでは、神に授けられたことばそのもの、を意味するのだろう。バラムはヘブル詩的に神のことばを伝える。ヘブル詩の特徴は、並行法にあるという。つまり最初の行と二番目の行が平行になっている。「神がのろわない者を私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか」(8節)このような繰り返しをもって、強調するのがヘブル詩である。ともあれ、バラムは、主はイスラエルをのろってはおられない、だからのろうことはできない。またこの民は、特別な民である。祝福され増え広がった民である。私も彼らの一人に加えられたい、という。イスラエルをのろうことばは語られなかった。神は、イスラエルを特別な民とし、これを祝福されてきた。イスラエルに対する神の心は変わらない。バラムはその通りのことを語らざるを得なかった。
2.バラムの第二の託宣(23:13-26)
 バラクの試みは失敗した。しかし、バラクは、再度イスラエルをのろわせるために、バラムを別の場所へと案内する。ただそこもまた先の場所と同じで、イスラエルの一部だけが見える場所であった。今日そこが実際にどこであったのかは、はっきりわかっているわけではない。
 バラムは再び念入りな儀式を繰り返し、神からことばを受けている。二度目の神のことばは、イスラエルに対するものではなく、バラクの神に対する考え方の間違いを正すものである。「神は人間ではなく、偽りを言うことができない」(19節)神は正しい方である。また、「神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」(19節)神は真実なお方である。神の義と真実が明確に語られる。つまり神の義と真実を取り消すことができる者は誰もいない。神は、何物にも依存しない自立的な存在であり、ご自身のみこころを最後まで成し遂げられるお方である。そこに私たちが神を信頼する理由もあるのだろう。またそこにイスラエルが神に守られて、神の御心を成し遂げてきた理由もあるのだろう。バラムはイスラエルが敵を完全に絶滅する力を持つことを告げている。これは、私たちに対することばでもある。神が私たちに祝福を命じておられるのならば、私たちはいかなるのろいをうけようとも、敵を完全に征服することになるだろう。神の熱心がそうするのである。
 だから、私たちは、人に何だかんだ言われようが、のろわれようが、あたふたする必要はない。いつでも、神のことばにしっかりと守られていることを覚えて、どっしりと構えていればよい。いつでも私たちをキリストにあって祝福すると約束された神を信頼して、日々なすべき務めをなすだけでよい。主が私たちを成功させてくださる。

民数記22章

22章 異教の預言者バラムと神との出会い
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日は、約束の地に向かうイスラエルの行軍に恐れをなした、モアブの王が、預言者バラムにイスラエルを呪わせようとするエピソード、その第一話になります。しかしイスラエルに対する神の祝福は決して変えられることがありません。それは、私たちに対しても同じです。神は私たちに対する祝福を永遠の約束としてくださっているのです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.呼び出されるバラム
 預言者バラムが登場する。いったいこの人物は何者だろうか。メソポタミヤの町ペトルに住む預言者もしくは占い師であるとされるが、詳しくはわからない。バラムの名は、一般的に「むさぼりつくす」とう意味のヘブル語に由来するとされるが、バラムは、この民数記のほか、新約聖書に登場する。そして新約聖書では、神に仕えるよりも金銭を愛した俗人として否定的に描かれている。「不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従った」(2ペテロ2:15)、あるいは、「忌まわしいことです。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました」(ユダ11節)とあるように。
 実際この物語は、イスラエルの侵入に脅威を感じたモアブの王バラクが、預言者バラムをお金で雇って、イスラエルをのろわせようとするものである。モアブは、その地理的な関係からエモリやバシャンがどのようにして打ち破られ絶滅させられたかをよく知っていたのである。当時、占いとそののろいのことばの魔術的な働きに対する信仰は広く信じられており、占い師が招かれて、到着することは、相手方を致命的な危険にさらすことを意味した。そこでモアブの王バラクは何としても、この預言者バラムを自分の国に招こうとしたわけである。
2.神と出会うバラム(22:7-35)
 バラムは、バラクの要請に応えようと、神の御心を確認した。神は明確に、「彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってもいけない。」と告げられた(12節)。バラムは神とバラクの板挟みとなった。バラクは、さらに多くの人、高額の報酬を申し出た。バラムは、再び神の御心を確認し、神が一緒に行ってもよいが、ただ神が語ることをのみ伝えることを命じられる。バラムは神に忠実な預言者であるかのように思われるが、実際には、再度神の御心を確かめるところに、彼の金銭欲が現れていたのかもしれない。「あなたを手厚くもてなします」ということばに彼の心は動いたのである。だから神を第一にしているようでありながら、21節以降、主の使いが抜き身の剣を手に持って彼の前に現れても、彼はそれに気づくことができないでいた。彼は霊的には盲目であった。古代においては、動物の奇妙な動作はしばしば前兆であると考えられていたので、占い師である彼が、ロバの行動に、神からのメッセージがあることに気づいてもおかしくはなかった。彼は一見忠実そうであったが、その本質は新約聖書が指摘するように金銭欲に駆られた者であった。神の怒りが燃え上がるのも、そうであればこそ理解できることである。こうしてバラムは、ロバが口を利くことで、神のみこころが、たとえ一緒に行っても呪いを語ることではないことを確認していく。
3.歓迎されるバラム(22:36-40)
 バラクはバラムを盛大に歓迎した。しかしバラムの心は既に固まっていた。彼は神を見たのである。神が確かにイスラエルと共にあり、イスラエルを祝福されるお方であることを、教えられたばかりであった。 
 二つのことが教えられる。やはり神のみことばに使える者は、利益によってではなく、ただ「神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません」(38節)という信仰に立つことだろう。預言者は、神のことばを託され、神の言葉を語るところに使命がある。牧師も同じである。牧師も神のことばに混ぜ物をせず純粋に語る。神が託されたことばをそのまま語っていくことが大切である。パウロが語ったように、神のしもべとして託された言葉を、混ぜ物をせずにそのまま語ることが大切である(2コリント2:17)。
 第二に、人ののろいを気にしてはならない、ことである。バラクはバラムにイスラエルの民をのろわせて、勝利を得ようとした。しかし、神は人間ののろいを祝福に変えることのできるお方である。詩篇の作者はこう歌っている。「彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。彼らは立ち上がると、恥を見ます。しかしあなたのしもべは喜びます。私をなじる者が侮辱をこうむり、おのれの恥を上着として着ますように。私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真中で、賛美します。主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。」(109:28-31)私たちの人生をのろい、決定的な打撃を与えようとする者がいたとしても、恐れてはいけない。彼らののろいを祝福に変えてくださるお方がいるからだ。
そういう意味で、21章からは、イスラエルに対抗する様々な民族の動きに神がどのように介入してくださったかを見ていくことになるのだろう。私たちを囲む動きがどうであれ、私たちを守り祝される神がいる。のろいを祝福に、恥を栄誉に換えてくださる神をはっきりと見ることができるように信仰の目を開かせていただくことが大切である。神は、私たちの人生に祝福を命じられておられる。また、私たちの人生を通じて、私たちの周囲の人たちを祝福すると約束しておられる(創世記12章)。実際後で見るように、バラムのことばは、イスラエルの祝福の広がりを確証するものとなった。だからどんな不幸続きであっても神はこの先、私にも祝福を用意されると信じたいものであるし、また周囲が祝福されたならば、自分の故であると思いさらに祈らせていただこう。

民数記21章

21章 カナン人との戦い(初戦),青銅の蛇、歌
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。いよいよ新しい世代によるカナン征服の歩みが始まります。彼らの二つの姿勢に注意しましょう。彼らは悔い改め、主の定められた方法に信頼する民でした。そして、その信頼を歌にして前進する民でした。つぶやきを信頼に、そして歌と前進の一歩に変える歩みを導いていただきたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.新しい世代の物語
 民数記は、大きく三部に構成される。古い世代の物語(1-14章)、荒野での放浪(15-20章)、新しい世代の物語(21-36章)である。今日の21章から新しい区分となり、もはや古い世代が死に絶え、新しく育った世代の物語が始まっている。大祭司にはアロンに代わってエルアザルが、指導者にはモーセに代わってヨシュアが任命されようとしていた。そしてイスラエルは、モアブの草原を目指し、約束の地へ入る準備を再開しようとしていた。
2.新しい行軍(21:1:-3)
モアブの草原を目指す旅は、約4,5か月かかったであろうと考えられている。アロンの死は、40年目の第5月であり(33:38)その約一か月後にイスラエルの民が出発をしている。そして同じ年の第11月にモアブの草原に到着し、モーセが申命記の教えを民に与えているからである(申命記1:3-5)。
2.エドムの妨害
この旅は、エドムの妨害によって思いのほか、長いものとなってしまった(20:14-22、21:4)。しかし彼らは初めて、その戦いで勝利した。それは新しい時代の幕開けを期した。だが、新しい世代も、失敗を犯している。エドムの妨害によって迂回し、忍耐を迫られた時に、彼らは、かつての古い世代と同様に呟いてしまった。罪の世代循環がある。イサクが父アブラハムと同じ罪を犯したように、同じような罪が繰り返されていくことがある。だが、神は哀れみ深い、悔い改める者を拒まれず、回復され、勝利を取り戻されている。
3.青銅の蛇(21:4-9)
神は、青銅の蛇によって、人々が罪からいやされる奇跡を与えられた。「燃える蛇」というのは、蛇にかまれて起きた炎症を、人々に燃えるというイメージを与えたのだろう。しかしなぜ神は癒しの手段として蛇を用いたのか。蛇は罪や汚れの象徴でもある(創世記3章、レビ11:41-42)。考えられるのは、まずそれがイスラエルの民に自分の罪を自覚させたこと、先の赤い雌牛、緋色の糸がきよめの水をつくるのに用いられたように(19章)、銅の赤色が、贖いときよめを象徴したことである。また最終的にこれは神が定めた方法として受け止める以外にない。死んだ雄牛の灰が、死によって汚れた人々をきよめたように、いのちのない蛇はいのちのない人の命を回復する、と神が特別に定められたのである。青銅の蛇それ自体に救いの力があったわけではない。
後のヒゼキヤの時代、イスラエル人はこれに香を炊いた(2列王18:4)。青銅の蛇にあたかも人を救う魔力が存在しているかのように受け止め偶像崇拝の対象とした。しかしヒゼキヤは、これがモーセの時代に神が定めた特別措置であったことを理解し、宗教改革の手始めとしてこれを打ち砕いている。このように誤解されやすい救いの手段となったのであるが、イエスは、このエピソードを、人類の罪の赦しのための神が定めた方法として、十字架を解き明かす型として引用している(ヨハネ3:14)。永遠のいのちの確証を得ようとするニコデモに対して、イエスは、かつて神が方法を定められたように、新しく定められた方法に注意を向けるように促している。つまり、新約時代においては、十字架につけられた人の死の体が、罪に死んだ人々に罪の赦しと永遠のいのちをもたらすのである。だから、かつてはモーセの掲げた青銅の蛇を、自らのいやしのためであると信じて見上げることが求められたのであるが、私たちには、イエスの十字架を、自らの罪の赦しのためであると信じて見上げることが求められている、と。
大切なのは、神が備えられた救いの手段を受け入れ、神の救いを信じることである。今日、私たちに用意されているのは、青銅の蛇ではなく、十字架にかかげられたキリストである。キリストを救い主として認め、自らの罪を悔い改め、キリストの救いに信頼するならば、私たちにはその期待通りのことが起こる。主は、私たちの祈りに応えられる神である。
4.モアブ周辺の旅(21:10-20)
かつて、古い世代は、ホルマで敗北を経験した(民数14:45)。神がみこころとしない戦いに出て行ったためである。ところが、それから40年後、神は、新しい世代にカナン人を渡され、新しい世代は、ホルマを占領した。そして彼らは戦って、エモリ人のすべての町々、ヘシュボンとそれに属するすべての村落を占領した。
イスラエルが約束の地に近づくと、彼らの気持ちが前向きになり、高揚していることがわかる。彼らは歌を歌った。イスラエルはしばらく歌を忘れていたのであろう。かつて紅海の海辺のほとりで神に賛歌をささげて以来しばらく歌の記録はない。しかし新しい世代は歌う世代であった。つぶやきながらも、悔い改めを大事にし、前進しようとする姿勢がある。彼らは歌いつつ前進した。そしてその歌には、彼らの信仰が表わされていた。パウロは新約聖書において「先祖は、彼らについて来た霊的な岩から飲んだ」(1コリント10:4)と語ったが、それは全く根拠のない解釈ではない。事実、ここで彼らはメリバの教訓により、荒野にあっても、絶えず命の水がついてくる、モーセの打った岩がついてくることを学びきったのであり、彼らの歌はその証である。
4.シオンとオグに対する勝利(21:21-22:1)
21節以降は、すべて勝利を伝える。かつて荒野の38年において彼らが、このように歌うことを想起していたなら、荒野を放浪せずに、どんなに素晴らしい勝利を得ていたことであろうと思わされるところである。27-30節の歌は、エモリ人の間ではよく知られたもので、シオンがモアブを打ち破ったことを祝う歌である。イスラエルはその詩を自分たちのものとし、替え歌にした。17-18節の歌も、14節の「主の戦いの書」同様に、古代によく知られた歌の一つであったと思われ、彼らはそれを自由に用いている。教会も、歌を必要としている。教会に仕え、長い荒野を旅してきたと思うことがあるだろう。しかし、もうメリバのようにつぶやくのは止めて、信頼と勝利の歌を歌いながら、前進していくことである。そういう意味で、教会には歌い手が必要である。新しい歌を作り、あるいは引用し、信仰の賛美を導く、働き人たちが必要なのである。こうして彼らはその地を占領した。私たちも同じである。

民数記20章

20章 ミリヤムの死,メリバの水,アロンの死
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。荒野の放浪の記録を読み終わります。明日からは新しい世代の物語になります。この15-20章の5章を通して教えられるのは、主として、祭司、そして指導者に関する事柄でしょう。彼らはあくまでもとりなし手として立てられ、民の罪の咎を負う、贖う存在である、ということです。本日はその具体例が示されるところです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ミリヤムの死、モーセではなくイエス(20:1)
20章をもって、古い世代の放浪の旅が終わる。モーセの姉ミリヤムが死に、兄アロンが死んでいく。それは象徴的な出来事でもある。つまり預言者の代表としてのミリヤム、祭司の代表としてのアロン、そして律法の代表としてのモーセの導きによるのでは、イスラエルは約束の安息に入ることはできなかったということである。約束の安息には、イエス・キリストの導きを予表する新しいヨシュアの働きがあって実現する。これは大事な観点であり、後で再び取り上げることになるだろう。

2.モーセと争ったイスラエル(20:2-13)
さて再びイスラエルの民が水のないことでつぶやき、モーセと争った。この物語は、出エジプト17:1-7に記された物語と非常によく似ている。そこでこれらは同じ出来事であると説明されることもあったが、必ずしもそのように考える必要はない。というのも、出エジプト17章は、モーセだけを語っているが、民数20章はモーセとアロンについて語っている。また民数記の物語は、民数記17章のアロンの杖が芽を出した出来事を前提としている(20:3、17:12-13)。また、モーセが岩を打つ行為は、彼の不信仰を表し、罰を受けるべきものとされた。つまりこれらの物語は、全く別物と考えてよい。実際、ここで裁きを受けているのは、民ではなく、指導者モーセである。詩篇106:32、33では、モーセが「軽率なことを口にした」と説明されている。つまり神は、「杖を取り、岩に命じよ」、と言われたのだが、モーセは「逆らう者たちよ」感情的になり、怒りを持つのみならず、自分を神と等しい立場に身を置き、つぶやく民を責め立ていることが問題にされているのである。モーセに求められたのは、単純な従順であった。モーセにしろ、色々と言い分けしたいことはたくさんあったはずだ。しかし、神はその一度の行為をとがめられて、モーセもまた約束の地に入ることができないことを宣告される(12節)。実に手厳しいのではないだろうか。しかし15章の流れからこれを考察するなら、実にその教訓の深さが理解される。
3.民の咎を負うモーセ
というのは、既に神は祭司に、神に近づく特別な奉仕を任され、またその生活を保障されたが(18章)、それによって聖所と祭司職に関わる咎を負わなければならない、と明言している(18:1、2)。それはモーセにおいても同じであり、例外はなく、その事例がここにあげられたのだ、と理解すべきなのだろう。主にある指導者は、司令官ではなく養育者であり、常に神と共に生きながらも、神の民の側にあって仕える者である。そういう意味では、主にあって働くすべての働き人も同じであり、教職者と呼ばれようが、神の前にただ一人の罪人として、キリストにあって赦された者として、その弱さの中にありながら、神の民と共に立っていく者である。そこを忘れて民の上にいつしか自分を置き始めることのないように、むしろ、民の罪の責任を負う者であることを、覚えなくてはならない。イエスは、まさに十字架において、私たちの罪の責任を負われたのであり、イエスのしもべはそれ以上でもそれ以下でもないのである。
そういう意味では、モーセのように厳粛に裁きが執行されることがあれば、当の昔に牧師としての自分はいなかった、と思うことはいくらでもある。ただ神の哀れみによって、その働きを支えられ続けてきたし、分相応の扱いを受けてきた、ということがある。ならばなおさらのこと、ただ神のあわれみによって今日もこの働きを導いてくださるように、と祈るところだろう。
2.エドムの拒否(20:14-21)
約束の地カナンは目前に迫っていた。イスラエルの民は、大まかに三つの旅を続けてきた。紅海からシナイまで(出エジプト13-19章)、シナイからカデシュまで(民数11-12章)、そしてカデシュからトランス・ヨルダンまで(民数20-21章)というように。この最後の旅において、彼らはエドムの領地を通ろうとしたが拒否され、迂回した(21:4)。イスラエルがカデシュからモアブの地までどのような行程を辿ったのかは、今日明らかではないが、彼らは、エドムを通ることはできなかった。エドムはヤコブの兄弟エサウの子孫である。だから血族的にはイスラエル人と親戚関係にあるのだが、彼らは兄弟のようには振舞ってはくれなかった。このように恩恵を受けるはずと思われる時に、それが妨げられることが世の中にはある。また、言い訳が通ると思う時に、通らないことがある。すべてが神の厳しさによるものではないのだろうが、神のみこころの範囲にあることは間違いはない。神のみこころに従う訓練がある。神のことばに従い、自分の肉の思いをそぎ落とし、神のしもべとして鍛錬されていく訓練がある。
3.アロンの死(20:22-29)
アロンが死に葬られる。彼は民に加えられた。それは人の死後に関する旧約聖書時代の確信について述べている。つまり、人は死後彼らの家族と再会するのである。アロンとモーセは、メリバで犯した罪の故に、約束の地カナンの安息に入ることはできなかったが、神の安息の中には加えられたのである。また同時に、イスラエルの最初の大祭司の死は、一時代の終わりを表したことに注意すべきである。それはイスラエルの新しい歩みの象徴でもあった。さらに大祭司の死は、ある種の罪の贖いをするものでもあった。実際、殺人の嫌疑をかけられ逃れの町に監禁されていた者は、大祭司が死んだ時に釈放された(民数35:28)。万人の大祭司としてのキリストの死は、アロンの死に優り、私たちの贖いを完全に成し遂げ、私たちに新しい時代の確実な始まりを告げるのである。