使徒の働き15章

キプロス島の各町を訪れた後、パウロは、現在のトルコ(当時のローマ帝国のパンフリア州)へ海路を通って移動、ペルガという町へ上陸した。パンフリア州は、険しいタウロス山脈と地中海に挟まれた地域で、平地であり、雨が多く、沼地を形成しており、マラリアなどの熱病も発生しやすい地域であった。パウロはガラテヤ伝道に関して「私の肉体が弱っていたためであった」(ガラテヤ4:13)と述べているが、それは彼がペルガでマラリアに冒され、ピシデヤのアンテオケに着いてから発病したことを指しているのだろう。パウロとバルナバは北に進み、タウロスの峠を越え、サガラッスス、イズバルタを過ぎ、その後、反対にあって、イコニオンへと向かっている。
イコニオンは、標高1000メートルの高原地帯で、気候もよく療養するにはちょうどよかったのだろう。しかしそこでも反対にあい、彼らはリステラへと向かった。そこで、パウロは、生まれながら足の不自由な人を癒す奇跡を起こし、これによって、町の人々から人間の姿を取った神と崇められる事件に巻き込まれている。それは、ゼウスとヘルメスが、町を訪れ、人々の冷遇に怒り町を滅ぼした故事を背景とする出来事であった。また町の人々は、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだ。それは古代の美術品で、ゼウスが背丈のある、堂々とした仁慈にあふれた姿で、ヘルメスは、小柄で足の速い、神々と人間どもの父(ゼウス)の伝令官として形作られたことを背景としている。ともあれ、パウロは、ルカオニアの人々が自分たちを神とすることを許さなかった。人を神とするのは、「過ぎ去った時代」(15節)のことで十分である。日本にもそういう時代があった。私たちは歴史に学ばなければならない。聖書は、人間が人間に過ぎず、人間をお造りになった神を覚えて謙遜になって生きることを教えている。神の偉大さを覚えるならば、私たちはもっと神に聴かなくてはならない。
ところで、パウロは、称賛されたのも束の間、今度は石打ち、半殺しの目にあっている。ローラーコースターのような人生であるが、パウロは、一々そういうことに動じていない。翌日、パウロは、デルベへ向かった。デルベは、ルカオニア地方の南東部へ50キロほどの町である。現在では、古址に過ぎないが、パウロはそこにある期間とどまって伝道し、多くの信者を得た。ガイオは、その信者の一人である(使徒20:4)。パウロとバルナバはここからもと来た道を引き返し、リステラ、イコニオン、アンテオケの町々を再訪、信者を励まし、海港アタリヤに下った。なぜパウロは引き返したのか?一つにパウロは、入信したばかりの兄弟たちの信仰を励ましたかったのである。「励ます」は珍しいことばで、堅くする、補強する、を意味する。すでにあるものを強めていくことだ。既に述べたように、彼らの方針は、強まる宣教への妨害に対して、新しく誕生した教会の基礎を固めるために、できるだけ長く、その地に留まる、その地に関わるというものであった。パウロは、霊的な強化のために、彼らを正しく導き、補強するために戻っていったのである。
また、その先には、コンマゲネ王国があった。その王たちはミトラ教の保護者で、キリスト教の宣教を受け付けず、パウロはここからきびすを返して、西を廻って帰路につかざるを得なかった。さらにもう少し東に進んでタウロス山脈を越えれば故郷のタルソに帰ることができたのであるが、そこは厳しい山道であった。ルステラで、仮死同然の石打ちにあった傷だらけの体では厳しい山道を行く体力もなかったことだろう。ともあれ、パウロは言う。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」(22節)と。傷だらけのパウロの姿を見ながら、このことばを聞いたならば、さぞ背筋を正される思いがしたのではあるまいか。パウロは、ピシデヤをとおって、パンフリヤへと到着した。アタリヤは、パンフリヤの海岸、ケストロス川の河口に位置し、小アジヤ最大の海港である。人口、2万五千を数え、風光明媚な港である。パウロとバルナバはこの港から乗船し、560キロの海路を東に進んで、シリアのアンテオケに帰り、ここに四ヵ年近くの歳月を費やした第一回伝道旅行を終えた。彼らは教会に伝道の状況、特に異邦人のために福音の門戸をひらかれたことを報告した。この旅で、パウロの指導的立場は確立した。バルナバとパウロという呼び方が途中からパウロの一行になり(使徒13:13)、パウロの名前が前面に出るようになる。以降、パウロの伝道旅行と称されるようになったのであろう。しかし、宣教は、個人プレーではない。パウロは常にチームで行動した。パウロは宣教を分かち合った。それは、私たちではなく、私たちの働きと共におられる主が、人を癒し、和解をもたらし、いのちを与えるからである。宣教が進むのは主の恵み故なのである。

使徒の働き14章

キプロス島の各町を訪れた後、パウロは、現在のトルコ(当時のローマ帝国のパンフリア州)へ海路を通って移動、ペルガという町へ上陸した。パンフリア州は、険しいタウロス山脈と地中海に挟まれた地域で、平地であり、雨が多く、沼地を形成しており、マラリアなどの熱病も発生しやすい地域であった。パウロはガラテヤ伝道に関して「私の肉体が弱っていたためであった」(ガラテヤ4:13)と述べているが、それは彼がペルガでマラリアに冒され、ピシデヤのアンテオケに着いてから発病したことを指しているのだろう。パウロとバルナバは北に進み、タウロスの峠を越え、サガラッスス、イズバルタを過ぎ、その後、反対にあって、イコニオンへと向かっている。
イコニオンは、標高1000メートルの高原地帯で、気候もよく療養するにはちょうどよかったのだろう。しかしそこでも反対にあい、彼らはリステラへと向かった。そこで、パウロは、生まれながら足の不自由な人を癒す奇跡を起こし、これによって、町の人々から人間の姿を取った神と崇められる事件に巻き込まれている。それは、ゼウスとヘルメスが、町を訪れ、人々の冷遇に怒り町を滅ぼした故事を背景とする出来事であった。また町の人々は、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだ。それは古代の美術品で、ゼウスが背丈のある、堂々とした仁慈にあふれた姿で、ヘルメスは、小柄で足の速い、神々と人間どもの父(ゼウス)の伝令官として形作られたことを背景としている。ともあれ、パウロは、ルカオニアの人々が自分たちを神とすることを許さなかった。人を神とするのは、「過ぎ去った時代」(15節)のことで十分である。日本にもそういう時代があった。私たちは歴史に学ばなければならない。聖書は、人間が人間に過ぎず、人間をお造りになった神を覚えて謙遜になって生きることを教えている。神の偉大さを覚えるならば、私たちはもっと神に聴かなくてはならない。
ところで、パウロは、称賛されたのも束の間、今度は石打ち、半殺しの目にあっている。ローラーコースターのような人生であるが、パウロは、一々そういうことに動じていない。翌日、パウロは、デルベへ向かった。デルベは、ルカオニア地方の南東部へ50キロほどの町である。現在では、古址に過ぎないが、パウロはそこにある期間とどまって伝道し、多くの信者を得た。ガイオは、その信者の一人である(使徒20:4)。パウロとバルナバはここからもと来た道を引き返し、リステラ、イコニオン、アンテオケの町々を再訪、信者を励まし、海港アタリヤに下った。なぜパウロは引き返したのか?一つにパウロは、入信したばかりの兄弟たちの信仰を励ましたかったのである。「励ます」は珍しいことばで、堅くする、補強する、を意味する。すでにあるものを強めていくことだ。既に述べたように、彼らの方針は、強まる宣教への妨害に対して、新しく誕生した教会の基礎を固めるために、できるだけ長く、その地に留まる、その地に関わるというものであった。パウロは、霊的な強化のために、彼らを正しく導き、補強するために戻っていったのである。
また、その先には、コンマゲネ王国があった。その王たちはミトラ教の保護者で、キリスト教の宣教を受け付けず、パウロはここからきびすを返して、西を廻って帰路につかざるを得なかった。さらにもう少し東に進んでタウロス山脈を越えれば故郷のタルソに帰ることができたのであるが、そこは厳しい山道であった。ルステラで、仮死同然の石打ちにあった傷だらけの体では厳しい山道を行く体力もなかったことだろう。ともあれ、パウロは言う。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」(22節)と。傷だらけのパウロの姿を見ながら、このことばを聞いたならば、さぞ背筋を正される思いがしたのではあるまいか。パウロは、ピシデヤをとおって、パンフリヤへと到着した。アタリヤは、パンフリヤの海岸、ケストロス川の河口に位置し、小アジヤ最大の海港である。人口、2万五千を数え、風光明媚な港である。パウロとバルナバはこの港から乗船し、560キロの海路を東に進んで、シリアのアンテオケに帰り、ここに四ヵ年近くの歳月を費やした第一回伝道旅行を終えた。彼らは教会に伝道の状況、特に異邦人のために福音の門戸をひらかれたことを報告した。この旅で、パウロの指導的立場は確立した。バルナバとパウロという呼び方が途中からパウロの一行になり(使徒13:13)、パウロの名前が前面に出るようになる。以降、パウロの伝道旅行と称されるようになったのであろう。しかし、宣教は、個人プレーではない。パウロは常にチームで行動した。パウロは宣教を分かち合った。それは、私たちではなく、私たちの働きと共におられる主が、人を癒し、和解をもたらし、いのちを与えるからである。宣教が進むのは主の恵み故なのである。

使徒の働き13章

使徒の働き13章以降は、パウロの伝道旅行のように思われるが、実際には、アンテオケ教会の宣教物語である。アンテオケは初代キリスト教史において重要な都市であった。エルサレム教会の最初の執事の一人はアンテオケの改宗者(使6:5)であり、アンテオケ教会は最初の異邦人教会となった。ステパノの殉教で、多くのキリスト者がアンテオケに集まり、ヘレニスト・ユダヤ人ばかりかギリシア人にも宣教して新時代を画している。イエスの弟子たちはこの市で初めてクリスチャンと呼ばれるようになった(使11:19-26)。またこの教会はパウロのチームを3度の伝道旅行に派遣した。そして、エルサレム会議に異邦人回心者の割礼の問題を提起して、ユダヤ主義に対する勝利を勝ち取っている(使15章)。
ともあれアンテオケ教会は、パウロの一向を祈りと断食によって送り出している。もはや迫害によって否応なしに散らされた結果、宣教が広まったというのではなく、この時から教会は、聖霊に導かれて明確な意思決定のもとに戦略的に宣教を進め、その報告会まで行うようになった。しかも、パウロは、次から次へと新しい宣教地へ出ていき、みことばの種をまき散らすように宣教を進めたわけではない。教会は戦略的ではあったが、神ご自身が、それぞれの地域の必要に応じて、パウロのチームを留まらせ、移動させ宣教を適度に導かれていた。パウロ自身は、やむを得ない事情の起こらない限り、各地域にキリスト者の共同体の基礎がしっかり出来上がるまで一つの場所に留まって宣教をしようとした(使徒14:3、5-7、20)。今日キリスト教会がこれだけ発展したのは、彼が最初から、語りっぱなしではなくて、教会の基礎を築き、その地域に根付かせるように粘着的な宣教をしたためである。そして神がその粘着度を適度にコントロールし、次から次へと地の果てに至るように彼の宣教を導いたのである。私たちは神に大いなることを期待することはできる、しかし実際の働きにおいては小さなことに忠実であり、しっかり取り組まなくてはならない。教会を建てあげ、完成するように心を傾けた宣教をこそ神は大いに祝し、導いてくださり、さらなる責任を任せてくださる、と理解したいところであろう。
さて4節、第一回宣教旅行において最初に足を踏み入れたのは、バルナバの故郷、キプロス島である。キプロスは、コッパー(銅)を意味する。たくさんの銅が採掘され、幸せの島とも呼ばれた。実際、幸せな生活のために必要とする資源はなんでも手に入ったという。そんな事情からなのだろう、キプロスは、エジプト、フェニキヤ、アッシリヤ、ペルシヤ、ギリシア、ローマと様々な国々に支配されてきたため、様々な偶像が乱立していた土地でもある。そこで彼らの巡回の旅では、回心者は全く起こされなかった。失望的な宣教の後、いよいよ、悪魔的な力と遭遇することになる(6節)。魔術師エルマ(バルイエス)が、パウロに敵対し、総督セルギオ・パウロの回心を妨げようとしたのである。パウロは、この問題に真っ向から立ち向かい、主の力を証する。
ところで、パンフリヤのペルガに渡ったところで、ヨハネ・マルコが、チームを離脱した(13節)。なぜ彼は途中で引き返したのか、いくつか理由が考えられている。一つは、魔術師エルマとの対決の後、リーダーシップに変化が起こったことである。パウロがチームのけん引役となった。ヨハネはバルナバの親戚であり、その事態に困惑したのだろう。二つ目に、パンフリヤは極めて困難の多い所で、沿岸部のペルガはマラリアを含む病気が流行っていた。パウロも実際にマラリヤにかかっている。その体調を回復させるために、ピシデヤのアンテオケ(高原地帯)へ向かったと考えられている。こうした宣教に伴う現実の苦労に、ヨハネは耐え難いストレスを感じたというわけだ。しかし、宣教は、人につく働きではない。神のご計画に参画することである。また、後にパウロがテモテに教え諭すように宣教に困難な働きである(2テモテ)。自分をささげきる心がなければ、困難も乗り越えられない。
16節より、パウロの初めての説教が記録される。つまり、イスラエルの歴史(16-23節)イエスの働き(24-30節)信仰による救い(31-41節)という三つのポイントがある。つまり、イエスが約束のメシヤとしてダビデの子孫として来られたこと、イエスの生涯は、その預言の成就であったこと、これを信仰によって受け入れるべきことが語られている。同じイスラエルの歴史を振り返りながら、ダビデよりも、モーセに多く言及し、イスラエルの不従順を指摘したステパノのメッセージとは違う(7章)。また、同じダビデを扱いながら、イエスの復活を証したペテロの説教に、それは、旧約預言の成就を語り加えている(3章)。福音の内容が丁寧に語られる必要が出てきたのは、ユダヤに住むユダヤ人以外の、つまり離散ユダヤ人、ディアスポラの民や、ユダヤ的背景を知らない異邦人を相手にするようになったためなのだろう。
ともあれ、パウロは福音を語った。神は約束に従って、イエスによって人々を救ってくださる。モーセの十戒を守る、行いによる救いではなく、キリストの十字架の恵みを信じることによる救いが語られる(39節)。つまり、正しい者の義認ではなく、不誠実な者の義認である(ローマ4:1-8)。キリスト教信仰を持つことは、哲学的な思索をし何らかの悟りを得ることでも、精進して何かしらの人徳を身に着けることでもない。神が、正しくない私たちのためにしてくださった出来事に気づかされ、それを信じることにある。神の一人子が十字架につけられ、罪が赦された、また神はイエスをよみがえらせ、新しい命の希望を与えられた、その恵みのメッセージを受け入れることに他ならない。

使徒の働き12章

そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようと、手をのばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し、さらにペテロを捕らえたとある。「そのころ」というのは、漠然としているが、おそらく、アンテオケ教会が設立された頃、さらに、バルナバとサウロがアンテオケからエルサレムに派遣された頃のことを指している。またここで言う「ヘロデ王」は、ヘロデ・アグリッパ1世のことで、ヘロデ大王(マタイ2:1)の孫のことである。彼は、AD37年に王の称号を与えられ、41年に事実上パレスチナ全土の王となり、44年に死んでいるので、ここに記された事件は、その4年間に起こったことなのだろう。
彼は、ユダヤ人の支持を得ようとして、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。ヤコブは使徒の中で最初の殉教者となったが、それはすでに預言されていたことである(マルコ10:39)。ヘロデの教会弾圧政策をユダヤ人は歓迎した。というのも、彼らは、異邦人との関係を深めていく教会が気に入らなかったからである。教会はユダヤ人の偏狭な民族主義、排他主義から脱皮し始めていた。こうした時代背景のもとに、ヤコブの手紙が書かれている。たとえキリスト教会がユダヤ主義から分離したとしても、旧約聖書が捨て去られることはない。弟子たちが伝えた福音は、旧約にすでに明らかにされた神の救いの計画の実現だからである。時代は変わり、人も変わる。しかし、イエスによって示された福音は、変わらず体験され、受け継がれていくのである。
さて為政者の横暴はそんなに簡単にとどめられるものではない。しばしば、キリスト者であっても、その身の安全を確保されないことがある。ヤコブは殉教しペテロは投獄された。しばしば神の力を求めながらも、神は思うようには動いてくれず、時代や社会の荒波に飲み込まれてしまうことがあるものだろう。イエスは主の祈りの中で、「われらを悪より救い出したまえ」と祈るように勧められたが、祈れども悪意と敵意の罠に絡め捕られて、踏みにじられる他はないことがある。しかしそれはイエスの十字架のしもべとなり、キリストの痛みを分かち合う時なのでもある。神のみこころに自分をささげきる時なのである。また教会が心を合わせて一致した祈りをささげる時なのである(12節)。
また、この物語から、私たちは、不可能性の中にあって主に信頼すべきことを学ぶ。ペテロは、監視付きの鉄格子の中にいた。さらに、二本の鎖につながれて、二人の兵士の間に寝ていたという。脱出不可能ということである。ところが、神に不可能はない。種なしパンの祝いの時期(約一週間)であったが故の投獄であり、祭りが終わったら引き出されて殺されることが決まっていた。法的な弁護の機会は与えられず、また裏取引がなされる可能性もなく、救出のための特殊部隊がいるわけでもなく、これが三度目の投獄、ペテロはもう絶体絶命の中にあった。しかし、教会は彼のために諦めず熱心に祈り続けていたという。そして主はその祈りに応じた。ペテロは、牢獄から神の不思議によって解放されていく。しかしペテロは、解放されたこともわからずにいた(9節)。神の介入とはそういうものだろう。私たちの問題は永遠に続く、私には救いはないと思わされるような事が多い。しかしある時、はっと我に返るというか、自分を取り戻して、神が働いたのだとしか思いようのないことが私たちの人生には起こりうる。神を信じる人生には望みがある。
もちろん、神のみこころはよくわからないところがある。神はペテロを助けられたが、ヤコブの殉教は許された。なぜかそれはよくわからないことである。しかしながら、神は正義であって、ヘロデ王の自分を神とするような横暴な態度はいつまでも許されることはない。
ツロとシドンの人々は、どうやらユダヤと経済的な依存関係にあったようである(20節)。そこで、ヘロデ王のために、和解を記念する式典を開いたのだろう。参列者は、王をまるで神のように崇めたてた。すると生殺与奪の権を持つと奢り高ぶり、神に栄光を帰さなかったヘロデは、主の使いに打たれて死んでしまった。人は神に代わることはできない。神は高ぶる者を退けられる。そして神に敵対する者を滅ぼされるのである。
ともあれ不正に甘んじる時があろうとも、そこで正義を行われる神にすべてを任せて、またすべては、神の支配の中に正しく、秩序をもって行われることを信頼しながら、自分のなすべきことを淡々となさせていただく、ことが大切である。目先の苦労や、試練にではなく、神の永遠のご計画の流れの中で、しっかり神の側に立ち、神を恐れ、しっかりと神のみこころを成し遂げる歩みをさせていただきたいものである。

使徒の働き16章

異邦人の回心とバプテスマのニュースは、直ちにエルサレムへと広まった。すると、ペテロが異邦人のコルネリオと一緒に食事をしたことに対する非難が起こった。保守的、ユダヤ主義的クリスチャンによるものなのだろう。異邦人の回心を喜ぶのではなく、むしろ彼らとの交わりを非難するというのは、当時の差別的な風潮からすれば当然のことであった。誰もが歴史の子であって、その時代から抜け出すことは難しい。それを成し遂げるのは、まさに聖霊の業があってこそである。ペテロがコルネリオの家で起こったことを手際よく兄弟たちに伝えている。かつてペンテコステにおいて下った聖霊が、異邦人にも同じように下ったという。論より証拠である。そして神は今や「いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになった」のだと兄弟姉妹の心は一致した。
救いは万人のためのものである。ユダヤ人のみではない、異邦人のためのものでもある。パウロは、これを奥義であると呼んだ。「福音により、キリスト・イエスにあって異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となる」(エペソ3:6)それは、今まで秘められていたことであってようやく明らかにされたのだというわけである。神のご計画は、文化、民族、地理的境界を越えて、全ての者が、ともに約束に与る者となることである。それは、ヨハネの黙示録でも繰り返されている、私たちの宣教の目指すべきゴールである。「見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数え切れぬほどの大勢の群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた」(黙示録7:9,10)。
大切なのは、こうした働きが神の熱心さによって導かれていることであろう。だれも、こんな神の奥義を夢見た者はいなかった。だれもこの神の奥義の実現のために、自ら買って出て人々をリードした者はいなかった。むしろ、神ご自身が、その設定されたゴールのための計画をし、準備をし、実行されてきたのである。確かに、万人の宣教をすすめるための事前準備として、ステパノの迫害が起こりキリスト者が離散させられた(8章)。そしてパウロが回心させられ、世界宣教をリードする人材が備えられた(9章)、さらに世界宣教の必要性を全教会に文句なしに理解させるため、コルネリオの回心の出来事が起こった(10章)、そして派遣母体としてのアンテオケ教会が設立(11章)され、それは飢饉に際して心を一つにして救援活動を行うに至るまで成長したのである。しかしそれはすべて、神の導きによるものであり、神の主権によって、奥義ともいうべき、世界がキリストのもとに一つにされる宣教の働きが進められていったものである。
なお、これまでの記事もそうであるが、この箇所についても、創作的なものである、という議論がある。そうした議論への反論は、ハワード・マーシャルの注解書に詳しいので、ここでは歴史的事実として、受け止めながら話を進めることにしよう。大切なのは、目に見えない聖霊の働きを認め、神のみこころに敏感となって、「ためらわずに」神と共に出て行く心を持つことなのだろう(12節)。そうすれば、神が、その後に続く人を起こしてくださる。事実、ペテロに続いて出て行った人々は、エルサレム教会からではなく、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々、キプロス人とクレネ人がバトンタッチをするように起こっている。全く予期せぬ人材がさらに追加されるのである。つまり、宣教を成り立たせてくださるのは主ご自身である。
さて当時のアンテオケはシリヤ州の首都であるにとどまらず、ローマ、アレキサンドリアに次ぐ、世界的な大都市であった。この都市でも、主イエスが宣べ伝えられた。その結果、大勢の人が信じて主に立ち返り、アンテオケ教会が誕生している。エルサレム教会は、この教会の成長を支援しようとして、バルナバを派遣した。バルナバは、さらにこの宣教の推進のために、タルソへ出かけ、パウロを連れてきた。宣教を成り立たせるのは神ご自身であるが、それは、同時に、神と人の協同作業である。神のみこころに身を投じた人々によって、さらに進められる働きである。
イエスの弟子たちは、アンテオケで初めて、「キリスト者」と呼ばれるようになったとある。「キリスト人」とあだ名されるようになったということだろう。彼らの特徴を一言でいうと「キリストに取り付かれた者」である。それほど、彼らの言動にキリストを見て取ることができた、ということであろう。一般の人々が、私たちの生活をのぞいた時に、何が見えてくるか、キリストが見えてくる、それこそ証しであり、宣教である。