詩篇135篇

135篇 ハレルヤほめたたえよ

おはようございます。神の慈しみ深さは、神の選びに明確に現わされています。そして神の偉大さは、イスラエルの民にとっては出エジプトと約束の地カナンの征服という史実の出来事に明らかです。望み得ないであればこの神に期待し、神に懸ける歩みをしたいものです。

今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の慈しみと選び
「ハレルヤ、主の御名をほめたたえよ、ほめたたえよ、主のしもべたち」(1節)。礼拝者への呼びかけである。神をほめたたえる、その理由がある。第一に、主はいつくしみ深いお方だからである(3節)。それは、主が、私たちを選び、ご自分の宝とされた、ことに現わされている(4節)。というのも、神の選びは、人の選びと違う。人は合理的に選別し、最良最善のものを選ぼうとする。しかし神の選びは、不合理な愛に基づく選びである。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ローマ 9:13)とあるとおりだ。神の選びの根拠は、人の側ではなく、神の側にある。神は、神ご自身の慈しみ深さに基づいて、人を選ばれる。人の力によらず、名声によらず、性質的な魅力によらず、である。パウロは、「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(1コリント1:27-28)と明言している。自らの罪深さを思う時に、神の選びが、ただ神ご自身のあわれみによることのゆえに、私たちは、神を心からほめたたえる。

2.神の偉大さと出エジプト

第二に、神は全ての神々にまさっているが故にほめたたえられる(5節)。神は天地創造の神であり、万物の支配者である。神は、思うままに、ご自身の目的を成し遂げられる(6節)。神に不可能はない。かつてエジプトで奴隷状態であったイスラエル人は、来る日も来る日も、抜け出せない闇の中で、ただ空しく神の救いを待ち望むだけであった。しかし、彼らの神は、「口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口には息のない」神ではなかった。彼らの神は、心のうめきと叫び声に耳を開き、選ばれた者への慈しみと愛を示すために、立ち上がってくださったお方である。神の歴史上の御業が示される。神はエジプトの初子を打たれ、敵陣の真っただ中にしるしと奇跡を起こされた(8-9節)。また神は誠実なお方で、約束の地を、そのことばのとおりにイスラエルに与えてくださった(10-12節)。私たちは神を小さく考えてはならない。神の可能性の深さ、広さ、高さをわからなくてはならない。そして頑なな心を変えられなくてはならない。

3.主をほめたたえよ

詩人は、くり返す。「主をほめたたえよ」「主をほめたたえよ」「主をほめたたえよ」「主をほめたたえよ」(19-20)4度くり返す。聖書において4は、天地四方、全方位、全地を言い表す数であると言われる。この地上に住む皆が神をほめたたえることへの勧めだ。

なお、詩篇では初めてレビが賛美に加えられる(20節)。レビ人は、荒野の生活の間中、幕屋の奉仕を司った。彼らの任務は、会見の幕屋の管理、保護、民衆からの隔離(民1:50‐54、18:22)であったが、歴代誌によればダビデ、ソロモン時代、彼らは神殿奉仕の他に、民を教えたり、神殿聖歌隊として賛美を担う役割も果したりした(1歴15、23章)。明らかに捕囚帰還後の礼拝賛美の詩篇として編集されたとみれば、理解できることである。ともあれ、神に対する信仰は、私たちに常に新しい希望を与える。そして神をほめたたえさせる力となる。望み無き状況を確かにご覧になり、私たちの叫びにも似た祈りに耳を傾け、御業をなそうと口を開き、命の息吹を吹きかけられる、神に対する信仰を抱きたいところだ。そして、望み無きところに神の御業がなされることを期待しよう。

詩篇134篇

134篇 礼拝の文化を形作る

おはようございます。都のぼり最後の歌です。そこで注目されるのは、巡礼者が祭司たちのために祈るところです。牧師が信徒のために祈ることは当たり前のようですが、信徒が牧師のために祈ることもやはり重要です。そんな聖書の文化をしっかり身に着けたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

都上りの歌、最後の詩篇は短い。1節「主のすべてのしもべたち」は、巡礼者ではなく祭司たちのことである。つまり、この詩篇は、巡礼を終えた礼拝者たちが祭司たちに向けて祝福を祈る歌とされている。ことに、2節「夜ごとに主の家で仕える者たちよ」とあるように、それは、ことに神殿業務の夜間シフトの働きを担う者たちに対する、励ましと祝福を祈っている。考えるべきことは、夜通し主の宮を守るために、立てられている者に、巡礼者がこのように祝祷を述べて、宮を後にしていく習慣があったことだ。ある意味で陰ながら神殿業務を支えている働き人、に対する心遣いがあった、ということだ。

3節は、祭司たちからの応答の祈りであるとされる。「あなたを祝福されるように」という「あなた」は、巡礼者のことである。巡礼者の祝福に、祭司の祝福が返されて送り出されるのである。

2.祭司への祈り

この詩篇で注目されるのは、やはり、巡礼者たちが主の宮の働き人のために祈った点だろう。現代の礼拝では、牧師に祝福を祈られて、信徒は世に送り返されていく、それが礼拝の締めくくりとなっている。しかし、この詩篇が描く礼拝のしめくくりは、神殿業務を司る者たちの働きを認め、その働きを支援する祈りが加えられていることである。しかも、表立った人々のみならず、夜のシフトをこなす、陰なる働き人の労を祈っている。

牧師や礼拝奉仕者が礼拝に集う会衆の祝福のために祈るのはよいとして、その逆は何のためなのだろうか。それは、再び帰ってくる時まで、神の民に対する祈り、とりなしの祈りが絶やされないように、と願うことを置いて他にない。一年に一度の過ぎ越しの祭りの素晴らしさを味わった後、彼らはそれぞれの土地に帰っていく。それぞれが信仰の歩みを志していく。しかし、それは、祭司たちも同じである。祭りが終わったやれやれではない、次の祭りに向かっていく陰なる準備があり、生活がある。それは、一週に一度の礼拝を終えて信徒が帰っていく時に、牧師の側では、次の礼拝に向けた準備が始まるのと同じだ。信徒が教会から出て行った後、牧師は、教会においてなお、朝毎に祈りの炎をともし続け、次の日曜日に帰ってくる一人一人の顔を思い浮かべつつ神に向けていく祈りの奉仕を始めていく。そのような陰なる働きを覚え、教会が祝福を祈りはじめるなら、その教会はどれほど祝福されることであろう。詩篇が語るこのよき習慣が、教会にしっかりと根ざすことが期待される。

3.礼拝の文化を形作る

そもそも礼拝は、よく理解されていない習慣である。礼拝がどのようなものなのか、聖書にゼロから教えられていく必要がある。教会に来て毎週何をしているのか。たいくつな儀式に参加しているのか。あるいは、同好会へのお付き合いをしているのか。いずれも違う。礼拝は神の召しに応えて、神を認め、神の御声に耳を傾け、その御業を想起し、神に栄光を帰し、神に自分自身を献げていく行為である。牧師は、会衆がそうできるように、礼拝を準備し、与らせていく。となれば、参加する者が、牧師の働きに感謝し、祝福しつつ家路に着くことも自然な流れとなる。そのような文化が私たちのうちにしっかり形作られなくてはならない。キリスト者になることは、聖書の文化を学ぶことであり、聖書の文化に生きることである。その中心は礼拝である。神を礼拝する民となることである。今日も、礼拝を学ぶ者として、整えられて出席することとしよう。

詩篇133篇

133篇 神の祝福を求める

おはようございます。主にある和合、一致、キリストの教会の交わりの素晴らしさは、よい人々の集まりによる、というものではなくて、神の命令によるという点が大事なことです。神の業なくして、罪人の中に真の解放と愛に満ちた交わりもないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

詩篇の第五巻、都上りの歌は、各編に変化があって面白い。この詩は、エルサレムに到着し、皆が祭りに集った時の、楽しさ、親しさ、ここちよさを歌ったものなのだろう。最も、表題には「ダビデによる」とあるが、アラム語、七十人訳には欠けている。ダビデが12部族を統合した喜びを礼拝の中で詠ったということも考えられるのだが、この詩もまた他の都上りの歌同様に、捕囚期後にダビデ風に書かれた、と考えられる。イスラエルの民は、期待感をもってエルサレムに集まった。その旅の道すがら、彼らは、神の力によって助け出され、また神の力によって乗り越えた自分達の歴史を思い出している(詩篇132)。また自分たちが乗り越えた苦難や悲しみの深さを思い起こしている(詩篇129、130、131)。そして、エルサレムに無事到着した今、同じ道を歩んできた巡礼者と共に、神への感謝に浸っている。「見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、共に生きることは」(133:1)と。

2.幸せと楽しさ

そのしあわせと楽しさは、まず聖別の油注ぎに例えられている。神に仕える祭司は、聖別のための油注ぎを受けた(レビ記8:12)。2節はそのしるしの豊かさを詠っている。つまり、そのしあわせと楽しさは、神に仕える者たちの特別な経験なのだ。単純に兄弟が和合する一体感の素晴らしさを語っているわけではない。イエスは、兄弟姉妹が互いに愛し合うことが、キリストの教会の印であると語った(1ヨハネ4:12)。主にある愛の麗しさは、まだ主を知らぬ人々に対する証としての特別な目的を持っている。

またそのしあわせと楽しさは、ヘルモンの露に例えられている。雨の少ないパレスチナでは、夏、夜に冷える際には必ず露が降りるという。海岸からしめった空気が風によって送り込まれ、それが冷えるからである。そして、ヘルモンの露は、葡萄の実りなど、農作物の成長や家畜の維持には欠かせないものであった(ハガイ1:10,11)。モーセは12部族に対する祝福の祈りの中で、語っている。「彼の地は主に祝福されたもの。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物」(申命記33:13)。露は祝福そのものを意味する。

3.神の命令

「共に住む」は、一時的な滞在を意味する。しかし、そこには定住を願い、促す意味も込められていたのではあるまいか。新しいエルサレムを再建しようとする時に、やはり、多くの人の力を必要としたことは言うまでもない。一時期ここに集い、またそれぞれに散っていくのではなくして、ここに留まり、ここで築き上げていく思いを温めていくのである。しかし、一時的な滞在であればまだしも、それが定住となった時に、果たして、なんというしあわせ、なんという楽しさと言い続けることができるものであろうか。旧約の族長たちの歴史は、互いに価値も違い、背景の違う者どうしが、一致して仲睦まじく生活することがいかに困難であるかを物語っている。アブラハムとロトの例、イサクの家族の例、ヤコブの家族の例、どれをとっても、家族が仲睦まじく、一つに和合して暮らし続けたという話はない。

だから、なんというしあわせと楽しさが現実となるのは、神の業によるのだ。「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられた」ということが、私たちの教会に起こりうるように、私たちの家族に起こりうるように、と切に祈らせていただこう。

詩篇132篇

132篇 ダビデ契約を思い起こす

おはようございます。ダビデの誓いに対する神の誓い、いわゆるダビデ契約を思い起こす詩篇です。ダビデの契約に忠実であった神は、私たちにも同じようにしてくださることでしょう。神は罪人の神であり、まことに誠実な方です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

3節、ダビデの誓いが語られる。契約の箱がまだ安住の場を得ていないことに心を痛めて、「私は決して私の家の天幕に入りません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません」と誓いを立てている。これは神の箱がエルサレムに搬入される前、まだユダのバアラにあった時のことを言っている。ダビデは、自分が立派な住まいに住んでいて、神の箱が仮住まいであることに申し訳ないと考えていたのである。しかし、それは文字通りの意味ではない。ダビデにとって神がいかに大事な存在であるか、という気持ちを表現したものだろう。実際、ダビデは神のあわれみによって、サウルの追跡から命を守られ、王に引き上げられ、今ある幸せを得ているわけだから、大事な神が、大事にされる、そのような状況になるまでには自分は、眠りにつかない、というわけだ。6節エフラテはベツレヘムのこと、ヤアルの野はその近くの地方で、そこで主の契約の箱が見つかったことを言っている。ダビデは、主の臨在の象徴である契約の箱の発見に心からの喜びを表し、神の前にひれ伏し、大事にすべきものを大事にしたい、と語っているわけである。

2.ダビデの誓いに対する神の誓い

さて11節「主はダビデに誓われた」とある。大ざっぱなまとめ方であるが、後半はダビデの家系が豊かに守られ、祝されることを神が約束するものだ。つまり、前半を受けて、神を大事にしたダビデが、逆に神に大事にされる、祝福されることを語っている。これはダビデ契約の確認と見るべきである。

ところで、実際にはこの詩は、捕囚の民がバビロンから帰還した際に詠まれたものである。いったいなぜ捕囚の民は、このダビデの言葉を引用したのか。なぜ彼らに、ダビデ契約は重要であったのか。旧約聖書を読む時、そこには歴代誌的歴史という考え方が読み取れる。つまり歴代誌は、ある主の原理原則を教え、その原理原則の具体例がエズラ、エステル、ネヘミヤ記であるという考え方である。歴代誌は捕囚期以降に書かれたと考えられており、それはサムエル記、列王記の内容とよく似ているようでありながら、その単なる焼き直しではないというわけだ。そしてその原理原則として重要なのが、ダビデ契約である。エズラ、エステル、ネヘミヤ記を読むならば、神がいかにダビデ契約に忠実であったかがわかるのである。

3.神の誓いへの応答

そこで捕囚の民は、エルサレム巡礼の旅をしながら、神の忠実さを思い起こし、エルサレムでの礼拝に向けて霊的に高められていったのである。ダビデ契約に忠実となり、その生涯を支えられた神は、その子孫にも約束通りにされるだろう、と希望に満たされたと言える。

困難への取り組みは人様々である。しかしいかに不安と恐怖に翻弄されようと、苦難に飲み込まれて品位も節操も失ってはならない。むしろ主の最善を信じる神の民は、信仰の歴史的遺産を振り返える。神を大事にしたダビデに、神がどうしてくださったかを思い起こす。

苦しさや困難に負けてしまってはいけない。負けてしまってただ嫌な自分に浸りきってもいけない。むしろ、そういう時にこそ、神を大事にするダビデに、神が何をしてくださったかを覚えたいものだ。ダビデの誓いを覚え、ダビデに対する神の契約を覚えるのである。そして、信仰を働かせ、気を緩めず、すべきことをしていく。当時の人々が、瓦礫の山、多くの反対に再建の気力を失いかけ、手を止めてしまう誘惑に駆られていたにもかかわらず先へ進むことができたのは、一重にこの神の誓いを覚えたればこそであった。

詩篇131篇

131篇 過度の期待を抱かず

おはようございます。いつも、主に期待しつつ、主にあって足りている状況を理解する力を持ちたいものです。それがないからこそ、ないものねだりになり、人を羨み、妬み、自分の乏しきことを憂えるということになるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

130篇に続く個人的な詩である。ダビデによるとされているが、ダビデのいつの時代のものなのかは、わかっていない。しかし、これは、ゴリヤテの出来事にからんで、兄エリヤブにたしなめられた出来事(1サムエル記7:28)と関連している、と説明する者は多い。

だから「及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は足を踏み入れません」(1節)というのは、宮廷や軍隊や社会の偉大な出来事と考えられている。ダビデは、この時野心があったということだろう。確かに、若い時には、後先を考えずに、大きな理想を抱き、高望みをしてしまうことがある。否、高望みせずとも、ひょんな事から、分不相応の場に引き出されることもある。ダビデも同じであったのかもしれない。しかし、サウルによる迫害や様々な試練を通して、ダビデも錬られて、宮廷や軍隊や社会の偉大な出来事を求めることがいかに愚かなことであるか、それらが自分の手に負えると考えること自体がいかに愚かで大それたことであるか、理解されるようになったのだろう。確かに、人間の実力など、知れていることである。

だからこの詩は、ある意味で、若き日を振り返り、「まことに私は、私のたましいを和らげ、静めました」(2節)と言いうる心境に至った時に書かれたのものなのだろう。「乳離れした子が母親とともにいるように、乳離れした子のように、私のたましいは、私とともにあります」(2節)乳離れした子は、成長し聞き分けがよくなった子を意味する。食欲のままに泣き叫ぶ子ではない。だからここでは、主が与えられているもので満足を見出すことができるようになった、信仰的な成熟に至った状況を意味している。

2.信仰的に成熟すること

そのような意味では、人には、すべて天から与えられるものでよしとする心境に至る成熟が必要である。パウロが言うように、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びきることである(ピリピ4:11)。確かなところ、今置かれた場にあって、私たちがそのような確信を持ちえなかったら、どこに行っても幸せにはなれない。主の主権を認めて、主のみこころがなされるように、と静かに確信を持って祈れるようになったら、どんな人生でも肩の力を抜いて生きていけるようになる。

ただ、この詩の「ダビデによる」は、七十人訳のいくつかの写本やアラム語にはなく、ダビデの作というよりは、ダビデ的な作ということで、実際には130篇と同じ頃、つまり捕囚帰還後に書かれたのではないか、と考えられている。

しかも公用の詩とされたことの意味は、捕囚帰還後の過大な期待への戒めとするためであったようだ。つまり、詩篇126篇には、「主がシオンを復興してくださったとき、私たちは夢を見ている者のようであった」(1節)とある。捕囚から帰国が許されて帰って来たイスラエル人は、安易に輝かしい未来を考えがちであった。しかし、彼らは帰国しただけでも幸いであった。城壁を再建し、日常を取り戻しただけでも幸いだったのである。過度の期待を抱くことへの戒め、謙遜になることへの戒めがそこにある。

勝利の時にこそ、私たちは慢心しやすい。もっと何かを要求しやすくなる。要求して当然であると思うようになったりする。人間のそのような愚かさに気付いて、今与えられた状況をよしとする心構えが大切だ。主に足ることを学ぼう。そうすれば、「イスラエルよ、主を待て」と、主にのみ期待を抱くことの素晴らしさがさらにわかることになる。