テモテへの手紙第二3章

「終わりの日」は、イエスの働きによって始まり(ヘブル1:1-2)、イエスが再臨される時までのことを言う。「終わりの日」と呼ばれるのは、神が、ご自分の目的を完成される時だからである。ある人々は、その約束を信じることができない(2ペテロ3:3)。しかし、イエスは約束されたとおりに再臨される。また、その日が近づけば近づくほど困難な時代になる。それは、人間の自己中心性が強まるからである。自己愛、金銭愛、快楽愛に熱中する時代になる。本来向けられるべき対象に愛が向けられなくなっていく、的外れな人生を生きていく人々が増えていく、そのような人々は避けなさいという。

この自己中心性の問題に根本的な解決をもたらすのは福音のみである。福音は新生を約束している。つまり自己中心な者からそうではない者になる、人生にひっくりかえりをもたらすのである。人間としての正しい感覚を回復させるのである。しかし、この福音に触れながら、依然として自己中心であり続けることもある。それは何が問題なのか、と言えば、終末意識の低さにあるのではないか。やがて神の前にきっちり自分の人生を報告する時が来る、という意識が薄い、そのために自己中心性が増長されるのである。

パウロはヤンネとヤンブレをとりあげ、避けるべき人をイメージさせる。当時はピンと来る名前であったのだろうが、今の私たちにはわからない。ただユダヤ人の伝統によれば、彼らは、モーセがエジプトからヘブル人を脱出させようとした時に、パロの宮廷にいて敵対した二人の魔術師であったとされる(出エジプト7:11)。しばしば教会は、こうした偽教師、巧妙な手口で教会をかき回す人々によって苦しめられることがある。しかし、たとえそうであっても恐れる必要はない。彼らの横暴も鎖付である。神のみ許しの中で起こっていることなのだから(9節)。

14節、「けれどもあなたは」とパウロは語り掛けてくる。「堅く立ちなさい」と。あなたを世俗に順応させようとするプレッシャーが大変強いものであれ、一々狼狽してはならない。若く経験不足であっても、弱く臆病であっても、心配するに足りない。たとえあなたが証人の中にただ一人とされることがあっても、怖気づいてはならない。これまでどおり、あなたはただ聖書の教えに従いなさい。あなたが信じるようになったものに留まり続けなさい。あなたは自分の信仰について聖書が保証していることを知っているはずである。聖書は、神の息吹を受け、有益なものである。邪悪な人間とペテン師どもがますます悪さをして、非常に耐え難い時の最中にあっても、聖書はあなたを完全なものとし、あなたをあなたの働きのために整える。神のことばがあなたを神の人としてくださる。聖書に忠実であり続けなさい。そうすれば聖書があなたをキリストの成熟へと導いてくださるというわけだ。

聖書に親しむことは大切だ。確かに、聖書を読まずして、神の前に立つにふさわしく自分を整えるなど不可能な話しである。「教え」は、何が正しいか、「戒め」は何が間違っているか、「矯正」はどのように正しくなれるか、「義の訓練」はどのように正しくあり続けられるかを言っている。つまり、聖書は、私たちに、正しいこと間違っていることを教えるのみならず、どのように自分を正し、正しあり続けられるかを教えてくれる。それは、私たちを神の人として整えるためである。しかしこうしたあまりにも単純なことを私たちはよくわかっていない。聖書に向かうことは、何か心の慰めを得る以上のものである。私たちは教えられるだけではなく、神のいのちに触れ、神と語り合うことを重ねながら、その影響を受けていくのである。それは考え方の変化、行動の変化として現れることになる。つまり、日々、聖書によって、新しい神のいのちに生かされていき、その感動と喜びの中にあるのでなければ、聖書を読んだことにはならない。聖書は神のことばである。それは、シェークスピアや、ミルトンのようなどんなに心に感動を与える書であったとしても、それら天才的な作家の著作とは違う。神が、ある特定の人々を選び、霊感されて書かれるに至った、特別ないのちある書である。それは、私たちの死せる人生を、復活させる書である。

トーマス・ア・ケンピスは、「復活を喜ぶ者はあるが、十字架を喜ばない者が多い。しかし、復活は、十字架の向こうにあるのであって、復活だけ求めてもそれはむりだ」と語った。本当に霊的に成長するクリスチャンは、十字架をしっかり背負うことができる人である。キリストの似姿に似た新しい自分を生み出そうと、自分の心の深層と向かい合っている人である。十字架を負うことから、逃げ出す自分の首の根っこをしっかりつかまえて、真に霊的な戦いの中に生き続ける人である。安易さを好む自分の肉の性質に流されず、しっかりと神のみことばを食み、神のみ言葉の歩みを進めることにしよう。

 

テモテへの手紙第二2章

パウロは非常に実際的である。臆病になり、牧師として立っていく自信のないテモテに、主の助けに信頼するように語るのみならず、そこからどうしたらよいのか具体的に指示を与えている。牧師として整えられるのは、まさに神の恵みの力によるものである。だから、恐れずにその職務に立ち向かうべきである。神が助けてくださるのだから、安心して今日も、パウロの具体的な指示に従っていこう。

ではその指示とは何か。パウロは、四つのイメージを取り上げて語りかける。第一に牧師は管理者である。教える力のある者を見極め、ゆだねていくことだ。信徒一人一人の霊的状態や性質、成熟度に、しっかり目を向けているのが牧師である。そしてそれにふさわしい導きを与えることだ。教える力のある者がいれば、その者を自分の同労者、協力者としていくことだ。イエスも十二弟子を選び教育に専念された。そのように人々が育てられていく時に、次の世代の信仰者が生かされていく。

第二に、牧師は兵士にたとえられる(3-4、8-13節)。兵士に学ぶのは、不屈の精神と忍耐である。そして日常生活よりも兵役義務を優先させる、全身全霊の努力である(4節)。今自分はそのような場に置かれているという自覚を持ち、そのようなマインドセットをすることだ。

第三に、牧師は競技者である(5節)。ここでは、ルールに従うべきことを語る。選手は、競技に相応しい基準を満たさなければ参加できなかった。またルール通りに競技を進めずして、勝利することはできなかった。人間的に見れば、パウロは敗北者であったことだろう。「アジアに入る者は皆」彼から離れ(2テモテ1:15)、彼を応援する者は誰もおらず、投獄され悪人として扱われていた。しかし実際にはパウロは勝利者であった。パウロは神のことばのルールに沿って、正々堂々と戦ったからである。

第四に、牧師は朝明けとともに、働きだす真面目な農夫である(6-7節)。真の働き人は、勤勉でたゆまない努力をしている。私たちは思いが妨げられ、世の不正に蹂躙されると、自分をなし崩しにしてしまいやすい。だが、朝日と共に、畑に出る農夫のように、今日も、まず神の畑に出ることだ。そして、実りの状態をよく見て回り、雑草は抜き取り、適宜水と必要な肥料を与え、こまめに神の畑で働くことだろう。主は、その努力を祝福してくださる。

7節、パウロはここで間を取り、今教えたことについてよく考えるように勧める。聞いてわかったつもりになって、何もしないのではなく、聞いたことを自分の生活の中に具体的に落としていくことなのだ。そのためには咀嚼が必要である。牧師が力を受けるのは、主のみことばをしっかりと洞察することによる(7節)。そしてキリストの模範についてしばらく脱線する(8-13節)。私たちに勝利をもたらすのは、キリストに対する信頼である。もし、キリストと共に苦しみ、死ぬなら、その結末も同じである。つまりキリストと共に復活し、治めるようになるだろう。苦しみが苦しみで終わらない、死が死でなくなる、その展望と信仰を持って働きに就かなくてはならない。

14節からの後半では、避けられない偽教師に対する対処法が語られる。まず積極的に、くだらない争いごと、論争から距離をおくべきである。「真っ直ぐに解き明かす」(15節)は、真っすぐに畝を耕す、真っすぐに板を切る、真っすぐに縫うなど様々な仕事に適用することができることばである。牧師は、神のことばを真っ直ぐに説き明かす働きのために、絶えず努力しなくてはいけない。一方消極的に「不敬虔」を避けるべきである。パウロは、偽教師の名を具体的に上げ、彼らの間違いを指摘する。ヒメナオとピレト。彼らは二人とも復活がすでに起こったと教えることによって「真理からはずれて」しまっていた。おそらく彼らは、復活は霊的なもので身体的なものではないと教えたのだろう。しかしキリストが肉体を持って復活されたように、私たちも身体的な復活を約束されている(1コリント15章)。間違った教えが蔓延っても、聖書の真理は不動である(19節)。

20節の器のたとえは、唐突にも感じられるが、結局、イエスの毒麦のたとえと同じように考えることができるだろう。教会には、有益な者、よいわざに間に合う者とそうでない者が混在している、ということである。もちろんまことの教師と偽りの教師の混在である。忠実な牧師は金や銀の器のようなもので、イエス・キリストに名誉をもたらす。偽教師は、価値なき木や土の器である。どんなに人気を博することがあっても、不名誉な道具である。パウロは有益な器になろうとする者に、命じる。「避けなさい、求めなさい、戦いなさい」真の聖書的な分離主義は、孤立主義ではないバランスを取る。避けるべきものを避け、追い求めるべきものを追い求める。

そして偽教師そのものについては、「柔和な心で訓戒する」ことが勧められる。しかし過度に期待してはいけない。「もしかすると」悔い改めの心を神は与えてくださるかもしれない。彼らを正していくのは、私たちの業ではない。神の領域である。絶えず、神の恵みにより頼み、神が働くことを求める、これが牧会者なのである。

テモテへの手紙第二1章

第一の手紙同様に、いささか親愛なる弟子テモテに対してはいかめしい切り出しである。しかし、そこにパウロは、テモテに最も伝えたい自らの確信を言い含めた、と言えるのではないか。第一の手紙では、神の救いとキリストの望みであった。第二の手紙では、キリストイエスにあるいのちの約束である。私たちの信仰は、まさにキリストのいのちを中心とする、そのいのちに生きる約束に心を止めて歩むことだ。テモテに必要なのは、まさに、このキリストとのいのちある関係に生きることであった、と言えるだろう。

テモテは、エペソの教会で非常に苦しんでいたようである。4節「あなたの涙」とあるが、テモテの心には悲しみがあった。そんなテモテを思いやりながら、パウロは勧める。

第一に、神の賜物を燃え立たせよ(6-7節)という。エペソの教会の難局を乗り越えるために必要なのは、新しい賜物ではない。それは既に与えられている賜物を燃え立たせることである。実際初めの手紙でも、パウロは「あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません」(1テモテ4:14)と勧めている。大切なのは、既に与えられた賜物を燃え立たせ、用いることにある(6節)。テモテは臆病になっていた。へこみ過ぎて、心打ち砕かれるような状況にあって望みもない気持ちになっていた。物事に対処する力が必要だった。くじけずに正しいことを行い続ける愛が必要だった。どんなに煽られても、動ぜずに、自分を律して立ち続ける健全な霊が必要だった。だが、テモテのそうした不足を補う「力と愛と慎みとの霊」はすでに与えられていた(7節)。信仰を持って、それらを用いて主の働きに臨んでいけるかどうかが問題であったのである。

おそらくテモテは、パウロを恥じる誘惑にさらされていたのであろう(8節)。実際、パウロを支持する者は誰もなく、皆に見捨てられていた状況にあった(4:16)。迫害や偽教師の働きの中で、テモテは、難しい舵取りを迫られていたようである。そこでパウロは、「神の力によって」自分と労をともにするようにと呼びかけている。福音宣教は、人間的な力ではない、ただ神の賜物である力によってのみ、勧められる働きである。それは、まさに恵み深き主の導きによる働きなのである。

パウロは、自分の立場を弁明する。パウロの今の苦しみは、ひとえに、福音を伝えようとする試みの中で生じている。福音は、神の計画と恵みによるものであり、それは永遠の昔から与えられていた。それはキリストの十字架と復活によって、人の死を打ち滅ぼし、命を与える。その福音の宣教者のために苦しみに与ることは、名誉ではあっても、恥ではない。そしてパウロが投獄され、もはやその試みが、中断される、あるいは無に帰せられるような事態が生じたとしても、神が、永遠の計画と恵によってその働きを完成させてくださるはずである。12節、「私のお任せしたもの」は、文字通りには、「私が預けた物」を意味し、パウロにとってそれは、宣教の働きの結果と理解されるものである。となれば、へこんでいるテモテに、パウロは自ら牢獄の囚人として終わらなければならない、つまりあらゆる努力が破綻するように見えかねない状況にあって、働きの結果を委ねている心境を語り、テモテにも結果はどうであれ最善を尽くすように、語っていることになるのだろう。なお、新改訳の欄外注に記されているように、このことばについては、二つの解釈の可能性がある。つまり、「パウロが神にお任せしたもの」と取る以外に「神がパウロに任されたもの」と取る可能性である。しかし、パウロが委ねられたものは、福音宣教になるのだから、神がそれを最期まで守ってくださる、ということは、結果的に同じ意味になるだろう。福音宣教も、その働きの結果も、神の御心に導かれて、主の再臨の日まで守られていくのである。

だからこそ、信仰と愛をもって、委ねられたものを守っていく。つまりパウロから聞いたことを健全な教えのことばの手本として、しっかり持っていなさい、と勧められる(13節)。「手本」(13節)ということばは、「型、作成者の下案」を意味している。初代教会の時代には、はっきりとした教理があった。それによってあらゆる教えが吟味される。それをただ神の聖霊の力によって守るように、という。聖霊の力、神の力が強調される。

フゲロとヘルモゲネがどんな人であったのかはわからない(15節)。おそらくパウロに敵対し、テモテを擁護しようとしなかった教会の指導者たちであったのだろう。アジアの信仰者たちは、パウロを恥とした。それはキリストを恥じることであった(16節)。パウロにとっては本当に暗い時期だったことだろう。デマスは彼を見捨てて行き(2テモテ4:10)、パウロの仲間は遠い宣教地へと旅立っていた。そして偽りの教理が教会には広まっていた(2テモテ2:17-18)。そしてパウロはローマで囚人となっていた。しかし、そんな中で、ローマに来てパウロを助けたいと心から願っていた一人の人物がいた。オネシポロである。彼の名前には、「利益を生む」という意味がある。彼は、エペソの教会の執事であったようだ。オネシポロは、エペソからローマへと旅をし、大変な苦労をしてパウロを探し出し、その居場所を突き止めた。獄中にあることは、不毛の日々を送ることである。しかしそんな時を過ごすことがあっても、神が、私たちの働きの結果を守り導いてくださることを覚えて、今なせることに力を注ぎたいものである。

1テモテへの手紙6章

5章に続いて、牧会者として奴隷に対する関わり方を教える。ある歴史家は、ローマ帝国に住む人々の半数は奴隷であったと考えている。しかしこれら多くの奴隷は教育を受け、文化的であったが、法的にはまったく人間とは見なされていなかった。キリストにある救いと自由を語る福音のメッセージは、奴隷の心を捉え、多くの者たちが信仰を持つようになったという。しかしそれによって、ある奴隷は、キリストにあって新しく見出した自由を、主人に対する不従順の言い訳とし、福音の名誉を傷つけるようになってしまった(1節)。そこでパウロは、奴隷に対して、ますますよく仕えるように勧める(2節)。なぜなら主にある兄弟姉妹という新しい関係から両者は共に益を受けるからである。

次に、偽りの教師に対して(3-10節)。パウロは、偽りの教師について警告することから、この手紙を書き始めた(1:3)。また彼らの危険な教えのいくつかを明らかにしてきた(4:1)。そうした教えが教会に入り込んで、教会が混乱することは避けなければならない。彼らは、先に結婚を禁じたり、食物を断つことを勧めたりするような者であった(4:3)。ここではより根本的な問題、彼らが「主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教え」(3節)に同意しない問題を指摘している。つまり彼らは、キリストではない自分自身を誇ろうとする高慢なやからである(4節)。そして、彼らの関心はこむずかしい議論と論争を引き起こすことで、真理に立とうとするものではない(4節)。さして、さらに彼らは、「敬虔を利得の手段」と考えていた(6節)。つまり関心は牧会ではなく、宗教的なビジネスにあった。パウロは、まことの教師、つまりテモテが集中すべきことを明らかにする。それは「満ち足りる心を伴う敬虔である」富は満足をもたらさないし(6節)、残せない(7節)。そもそも、私たちの基本的な必要は容易に満たされる(8節)。そして富への欲求は滅びと破滅に至る(9-10節)。金銭を求めることには罠である。神の働き人は、確かにその働きから報酬を得るべきであるが(5:17-18)、報酬は、神が用意してくださるものであり、実際の牧会においては、何よりも心が聖い満たしを得ることに心を注ぐべきだ。パウロは、偽教師にどう対処せよとは言わない。むしろ偽教師に関わるよりも、11節、「しかし、神の人よ」と、関わりではなく、あなた自身の存在によって対処せよ、という。正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求める、それが、教会に入り込もうとする偽教師に対する最善の対処である。「正しさ」は、「人格的に完全であること」、「敬虔」は「実践的な敬虔さ」である。「信仰」は「誠実さ」、「愛」は、他人のために犠牲を負うアガペーの愛である。「忍耐」には、困難なことがあってもくじけないで「ねばる」意味がある。「柔和」は、弱さとは違う。「統制された力」とでも言うべきものだ。ともあれ、敬虔な存在をもって信仰を守るために戦うことが勧められる(12節)。16節は、パウロの回心の経験を彷彿とさせる。「近づくこともできない光の中に住まわれる」パウロがイエスと出会い、捕らえられた決定的な瞬間に悟らされたことであった。それが、パウロの働きを決定的に方向づけた。その神の使者であり、しもべであるという自覚のもとに、パウロの働きは展開されていくのである。イザヤも、モーセも同様であったことを思い起こしたい。私たちはまことの生ける神のしもべ、働き人なのである。

金持ちたちへの関わりが語られる(17節)。謙遜であるように。そして先に述べた富の罠(9-10節)に足を救われないように、富ではなく富を与えてくださる神にこそ望みを置き、分け与えるようにと語る。そして天に宝を積むことである(ルカ16:1-13)。

最後にパウロはテモテに教えに忠実であるように、と言う(20-21)。そして偽の教えを避けなさいと言う。余計な議論に深入りしないことである。ただ委ねられた福音に生き、それを証することに注力することだ。これをパウロはテモテのみならず「あなたがた」(21節)と、長老全員に書き送る。主の恵みによって、その働きが進められるように、と。

テモテへの手紙第一5章

本章からは、牧会方法、いわゆる一人一人への関わり方について語る。第一に高齢者に対して。彼らには、自分の母か父のように、また若い女性には、純粋に姉妹のように関わるように、と語る。教会は神の家族であると考えるのがよい。第三にやもめに対して(3-10節)教会はその働きの初めから、信仰を持った未亡人のために配慮を示してきた(使徒6:1、9:39)。しかしながら、教会は、本当に必要のある人に配慮し、自分たちの資源を浪費しないように注意すべきである。つまり、もし未亡人が教会の支援を受けるなら、それにふさわしい資格がある。つまり子どもも孫も身寄りがない、ということ。当時の社会は、社会福祉が発達しておらず家族の責任は大きかった。しかし今日ですら、家族の負担は軽減されても、責任が放棄されてよいわけではない(8節)。

そこでパウロは、教会の世話を受ける人の条件として、第一に忠実な信仰者(5b-7)である。第二に、60歳未満ではない(9a節)。再婚する可能性がない、つまり身寄りを持つ可能性がない、ということだろう。第三によい結婚の証しを持つ(9b)。自ら離婚した女性ではない。第四に、よい奉仕者としての評判を持つ(10節)。「子どもを育て」とあるが、もし自分の子どもであれば、死別したことを意味する。子どもが生きていれば教会は彼女を支えなくてよいだろう。だから、これは、遺棄された身寄りのない子どもたちを助け神様を知るように育てたことを言っている。そういう意味で、彼女たちは教会のために奉仕した人々である。

次に若い未亡人に対する勧め(11-16節)。60歳以下、いやそれ以上に若い女性たちであっただろう。旅行中の事故、病気や戦禍、その他の理由によって女性は若くして未亡人になることがあった。パウロは、そうした女性は対象としないようにと命じる。一つは、再婚するチャンスがあるからだ。さらに時間をもてあまし、罪を犯しかねない(13節)。むしろ、若いやもめに期待されるのは、結婚をして家庭を持つことである。「家庭を治め」(14節)は、文字通りには「家庭を支配する」である。妻は家事全般をやりくりし、夫は妻がそうすることを信頼して委ねなくてはならない(箴言31:10-31)。ただ単純に贅沢を求めて働くだけの社会進出であってはならないのだろう。

最後に長老への関わり。長老は今日の牧師と同じに考えてよい。複数の牧師がいてテモテはその関係に苦労していたようである。パウロがワインを勧めたのも、こうした背景の中で、テモテが胃の調子を崩していたためなのかもしれない(23節)。飲酒よりも医薬的な目的である。

ともあれパウロは、三つの助言を与えている。第一に敬意を払うこと。パウロは旧約律法(申命25:4)を引用しながら、長老たちが、その働きに基づいて適切に扱われるべきであるとした。「二重の尊敬」(17節)は、「惜しみない報酬」と訳すことができる。先のやもめの問題に関連して考えれば、まず、教会のために骨折っている人々のために、教会の資源の適正配分を優先する、ということになる。第二に、長老の懲戒は慎重に行うことである(19節)。うわさや憶測で罰してはならず、事実関係を明確にすることである。だから、すべてのことをオープンに(20節)、偏見なくありのままに取り扱うようにという(21節)。大切なのは、神は正しいことをなさる、ということだ。善い行いも、悪い行いも、神は正しく取り扱われるのである。疑わしきは罰せず、神の裁きに委ねることも大切だ(24,25節)。敬虔なリーダーシップは、神の祝福を導き出すものである。私たちが必要とし求めるものは、そういうものである。