ヨブ記40章

40章 河馬も人間に並ぶ神の傑作だ

<要約>

おはようございます。神の応答に耳を傾けて教えられるのは、世の中が自分中心に動いているわけではないこと、さらに、人間中心にこの世界や物事が成り立っているわけではないことでしょう。神にとっては被造物全体が、視野にあるのですが、私たちはほんのその一部、自分と自分の周囲が問題なのです。だからといって、神は小さな器を粗末にされるお方ではありません。自己肥大化の愚かさから守られると同時に、神の愛への深い信頼を学ばせられるところではないでしょうか。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の前に口をつぐむヨブ(40:1-5)

神はヨブを「非難する者」(1節)、つまり「あら捜し屋」と呼ぶ。ヨブは、神に難癖をつけているのである。ヨブは気づいた。「ああ、私は取るに足りない者です」(2節)ヨブは自分が本当に、地の塵から造られたに過ぎない者、全能者の前には無に等しく、対等に語ることのできない者であることを悟らされていく。そして神が親しく語ってくださることに、ヨブは、恐れをなし、口をつぐんでいる。この世の中には、38章、39章で述べられているように、実に、人間にとっては全く利益をもたらすことのない、ミステリーに満ちたものが多いものだ。神は、人間には理解できないものをもお悦びになって、それらを養い守っている。神は人間を万物の尺度にはしておられないのである。神は神ご自身の尺度をもって、この世界を作り、この世界を保持しておられる。

2.ヨブに向かい語られる神(40:6-14)

そのようなヨブに、さらに神は語る。4節以降は、後代の付加と見られることがあるが、そのように受け止める必要もないだろう。神は言う。「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」(6節)と。神は、ヨブに真正面から語ろうとする。ヨブにとっての関心は、神の契約の民である自分の義がどうなるか、という部分であった。神の契約の民は、特別に扱われるべきである(詩編4:3)。しかし、契約を無にするような扱いを受けるのはなぜか、ということである。だが、そのことに拘れば拘るほど、神を逆に罪に定める結果となる(8節)。神の決定に異議を唱え、神を不法者としてしまう結果となる。

そこで神は言う。ならば私を超えて、私の裁きを覆す、決定をしてみよ(10節)。神の裁判の座について、悪を行う者どもに、怒りをまき散らし(10節)、実際に、悪者を一息に蹴散らし、彼らを滅ぼしつくせ(12節)。彼らを豪奢な墓石で飾りたてることを許さず、土に葬り去り、死者の国に閉じ込めたらよい(13節)。あなたにそれができたら、わたしは、あなたを私の決定を覆す、私を凌ぐものとして認めてやろう。あなたはあなた自身の力で勝利したのだ、と。

3.河馬も人間に並ぶ神の傑作である(40:15-24)

ただ聖書の神は養育的である。ヨブの高慢の鼻をへし折ろうというのではない。神は、ヨブにとことん付き合って、言葉を尽くして語ろうとする。一喝して終わりではない。

さあ、創造の世界を広く見よ。それらの全てが、現代の人間の尺度で測られるように作られているのか。そうではない。人間が河馬と呼んでいる、あの獣をみよ。あれは、私が人間と一緒に造ったもの(15節)。けれども、それは、あなたのために造られた、と言えるだろうか。彼らは獅子のように肉を食らわず、草を食べて生きるものたちであるが、かといって、人間の家畜にもなるような存在ではない(15節)。しかし見よ、彼らの力強さを、彼らは、あなたがたには価値のない背景の装飾の一つに過ぎないかもしれないが、私は彼らを喜んでいる(16節)。人間に、あのような生き物を造ることができるか(17-19節)。あの堂々とした体格、垂れ下がった尾、頑丈な骨格、どれをとってもそれは神の傑作であり、創造力の証しである。その命を握る者は、この私である(17-19節)。彼らは、静かに草を食み、山のもたらした産物を楽しんでおり、野の獣も、彼らの周りで平和に暮らしている(20節)。彼らは、いつもは、沼地の水の中にのんびりと時を過ごしている(21-22節)。そして、たとえ激しい雨が降り注いで、その口に注ぎ込むほどに、ヨルダン川が溢れても、他の動物たちと違って、慌てない(23節)。目と鼻だけ突き出して動じない。あなたは、この河馬を捕まえることができるのか。

神は時間をかけて、ゆっくりと語られていく。この対話はどのくらい時間がかかったのか、と思うところである。ヨブは素直に耳を傾け、神は一言一言、ヨブの心のひだに触れるように、ヨブの心に理解が染み渡るように語っているところではないだろうか。神はこのようなお方なのか、と改めて感動するところでもある。

私たちは本来神の目には塵に等しい、虫けらの存在である。そしてこの創造の世界は人間中心には仕上げられてはいない。神の創造の世界である。しかしたとえそうであっても、神はいかなる人間も粗末にはされない。イエスの十字架の死は、神がご自分の魂と人間の魂を等しいものとされた行為に他ならず、その十字架の血潮によって、私たちに対する愛を明らかにしておられる。そのような神であればこそ、今の苦難を神に委ねる勇気を与えられるのである。神に苦に感じている事柄の行方を任せてみよう。神がどうなさるのか。自分の義を主張することを止めて、神の義がどのように現されるのかを見守り、神が何を教えようとされているのかを考えてみよう。

キリスト教信仰はご利益ではないのだ。物事が順調にいけばよし、しかし物事がうまくいかなくなれば、神につぶやき、神に難癖をつけるのであれば、結局自分中心に物事を考えていくご利益信仰と変わりはない。自分にとって不本意なことが起こっても、神のご計画の中で、なおも、この小さき者に対する神の配慮と最善があることを信じて自身の人生を委ねていくのが、まことの信仰である。いついかなる時も、神を神として崇め、神に栄光を帰すことなのだ。

ヨブ記39章

39章 神の配慮

<要約>

おはようございます。台風の被害様々であったと思いますが、続けて敏速、適切な手立てが進められますように祈ります。さて、神の偉大さを語る、ヨブ記39章、考えてみると、神の存在は幸なのか、不幸なのか、わからなくなるようなところもあります。しかし、人間の合理的判断とは違う、神の思考で考えてみれば、どんなものも大切な存在であると言うことができるようにも思います。自己肥大化することへの警鐘を読み取るべきで、それ以上の読み込みは控えることも必要でしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.人間には不合理な存在であっても、神はこれを喜びとする(39:1-12)

野生動物の生態が語られる。それは、家畜と違い、自由奔放で力強い。しかし、その誕生から自立に至るまで、神が関わっておられる。神の配慮があり、世話があり、守りがある、という。神は言う。ヨブよ、あなたは野やぎが子を産む時期を知っていても、その時がいつかは正確にはわからないだろう(1節)。野やぎの妊娠期間も、野やぎが子を産む時も言い当てることはできないだろう(2節)。彼らは、人間の助けもなしに、子を産み(3節)、子は、すぐに強くなり、育って、親を必要としなくなり、自立していく(4節)。

野ろばもそうだ。野ろばは、人間とは無関係に、荒れ地で生息している。わたしがそのように定めたのだ(5、6節)。彼らは、人間の目には無駄な存在かもしれない。人間社会と切り離しても構わない存在だろう(7節)。だから人間は、そのような動物が人間社会に降りてきて危害を加えたり、繁殖し過ぎたりして、人間社会に脅威をもたらすならば、これをまるでもののように殺傷処分するのだ。しかし、ヨブよ、私が創造したものの価値は、何でも、人間の利益に作用するものでなければならないのか。

野牛は、力強いが、これを飼いならして、耕作や運搬に活用することはまず難しい(9,10節)。しかし、飼いならせたら、なんと頼もしいだろう。このような野牛は、家畜牛よりも馬力があるからだ。しかしそうはならない。あなたはその馬力を口惜しく見るだけだ。だからあなたにとっては何の価値もないし、不要なものだ、と見るしかないだろう。けれども、私にはそうではない。私はこの野牛の価値を認め、野牛を喜んでいる。そして養っているのだ。

考えてみれば、なぜに神は、そのような無駄と思われるものを造られたのか、不明である。神の思考は人間の思考とは大いに違うと言う他はない。そのような意味では、私たちの世界には、私たちの尺度からすれば全く無駄だ、と思われて、切り捨ててきたものは多くあるだろう。人間は人間の間にも優劣をつけて、そのように切り捨ててしまうことがある。しかし真の神の人は、神の思考に生きる人は、そのように無駄だと見なすものはない。何かしら、その存在の有用性、本来生まれ出た意義を、神と共に見つけていくものだろう。

2.ダチョウの暮らしがわかるか(39:13-18)

そのような意味では、だちょうの存在も不思議なものだ。だちょうは羽があっても、それで羽毛が取れるわけでも、飛べるわけでもない(13節)。また、卵を産んでも産みっぱなしで孵化させる知恵がない(14-16節)。ただ、だちょうがいざ、走りだせば、どんな駿馬も、どんな優れた騎手も、これに勝つことはできない。人間の目から見ればこれほど無意味な習性はないし、種の保存が維持されることも不思議だ。しかし、これも神のなさったこと、というわけである。

3.馬や鷲の習性を形作ったのは誰か(39:19-25)

そこでヨブよ、馬についても考えてみよ。人間は、馬を飼いならし、これを軍馬にする。しかし、軍馬としての性質を備えたのは、私だ(19節)。馬は、いざ走りだせば、人が抜き放った刀の閃きを恐れることなく突進していく(22節)。彼らはその勢いで敵を怯えさせ、瞬く間に蹴散らし、責め立てる。こうした習性を、人間が馬に与えることができるのか。人間が手塩にかけて、向こう見ずな突進をやって遂げる馬に仕立てることができるのか。そうではない。人間にそのような開発能力はない。寒い季節になると、渡り鳥は南に向かって飛んでいくが、鷹の一種も同じである。それはあなたが定めたことか(26節)。鷲が、人の近づきにくい高いところに巣を作るのは、あなたが命じたためか(27節)。鷲は、鋭い目で、遠くから獲物を狙い(29節)、死骸が横たわっていれば降下し、その血の滴る肉を食いちぎり、これを雛に与えるのである(30節)。

ヨブよ、あなたにこんな馬や鷲を造ることができるのか、というわけだ。

そのようにして神がなさったことである、とあらゆる世の事象を見ていくならば、自分の身に起こる一つ一つの事柄について、慌てずに、神の深いみこころを静かに探ることを求めるようになるだろう。無駄なように見えることも、単に、自分が所属する社会の画一的な思考に支配されているだけのことで、その考え方から自由になってみれば、別の意義を感じることもできるだろう。

実際、私は世界の創造者であるが、これを造りった時に、それをよしとした。決して無意味なものは何一つ造らなかった。だから自然の生態系に不可思議なことが多いとしても、そこには、何らかの私の目的があると見るべきなのだ。

そういう意味では、イエスも同じように語られた。「父のお許しなしには地に落ちることはない」(マタイ10:29-30)と父が雀に配慮し、養ってくださっていることを語った(マタイ6:25-27)。さらに、イエスは、植物に目を向け、神がこれを創造させたのみならず、神がこれを装ってくださっている、と語る。イスラエル人にとって野の花は、日々の食糧のために、燃料とされてしまうものであったし、わずかな一日の命に過ぎないものであったが、神がこれを着飾ってくださるのだという。そして、私たちはその雀よりも、また野の花よりも、神の目にはすぐれた存在であるから、思い煩うなと語る。

神が知恵をもって、野の獣を造り、住みかを与え、習性を与えられた。それは、神の知恵の業であるのみならず、愛の業でもある。私たちは神の目には小さなものである。しかしその小さな者のために神がなしてくださっている大きな配慮がある。

 

ヨブ記38章

38章 神の創造の偉大さと配慮

<要約>

おはようございます。いよいよ神が語られます。しかし神はエリフの語ったことをなぞるかのように、ご自身の世界の大きさを語っていきます。確かに私たちは一被造物に過ぎない、謙虚な歩みをさせていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.あなたは、私と一緒に創造の業に携わったのか(37:1-12)

ついに神が沈黙を破りヨブに語ってくださった。しかしそれは単刀直入な回答ではなく、質問の形を取っている。ヨブに考えさせることによって、自ら答えを出させようとしている。ただその質問は、ヨブが答えられる類のものではない。自然の驚異と保持について、神の御業を認めさせる内容であり、神はヨブが質問に対して返答することよりも、自らの無思慮を認め、静まることを期待していると言ってよいだろう。

神は言う。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」(2節)これは、ヨブに対してあるいは、エリフに対して向けられたと、二つの取り方がある。ヨブに対してと理解してよい。ヨブは、自分の義を主張し、神に回答を詰め寄った。しかし、神は、それは摂理を暗くすることであるという。神のヨブに対する取扱いは、不当なものに見えながらも、理にかなったものがあるのだ、とヨブは信じるべきだった、というわけだろう。もちろん、こんな苦しみがどうして理にかなったと言えるのかと思うことはあるものだ。しかし神は言う。「あなた勇士のように腰に帯を締めよ」(3節)つまり、私はあなたのご機嫌を取ることはない。心して聞け、ということだろう。

神は、具体的にご自身の比類なき偉大さが現された創造と摂理のみ業を語っていく。そもそも、あなたは、私と一緒に、世界を作る計画者であったのか(4節)。そうでもないのに、神は、どうあるべきかをあなたは不本意に語る羽目になっているのだ。全てを知っているかのような言い方になっているのだ。けれども、この世界の寸法を決め、配置を計画し、その秩序を定めたのは、誰か(5節)。誰がこれを定礎したのか(6節)。人間だって定礎式においては、喜び祝うだろうが、天地が作られたときには、み使いたちが、褒め歌を歌い、天が喜びでいっぱいだったのだ(7節)。

人間の出産にたとえてみよう(8節)。海が生まれ出た時に、この生まれたての海が干上がらないように、雲を衣とし、雨雲を覆いとした(9節)。そして海が自由奔放な子どもとなれば、海岸線と砂丘をもって、柵をつけ、これを守ることも必要だった(10節)。「ここまではいい、けれどもこの先は出てはダメ」と。(11節)。あなたは、私と一緒にこの仕事をしてのけたとでもいうのか。もちろん、それはなかっただろう。ならば、どうして、あなたは、この一切が、あなたのために調整されるようにと要求するのか、というわけだ。

2.闇はいつまでも続くわけではない(37:12-15)

あなたは、朝になれば、太陽に命令を下して「さあ、朝が来た準備せよ、地平線を照らす位置は、そこだ、そこから駆け上がれ」と言ったことがあるのか(12節)。暗闇に紛れて、悪しき行為を行う者どもたちを一層させるように、命じたことがあるのか(13節)。地ははじめモノトーンの世界であるかもしれないが、徐々に太陽の光に照らされて、やがてあらゆる被造世界が形を表し、色鮮やかな祝福の世界を再現するではないか(14節)。やがて、太陽は上る。そしてすべての闇は、葬り去られるのである。悪しき者の運命も同じだ(15節)。

3.神の創造の世界の広さ深さ、その御業を改めて考えてみよ(38:16-21)

ヨブよ、あなたは、海の深みも理解していないだろう。その深淵を歩き回ったことはないだろう(16節)。死の世界だって行ったことはないはずだ(17節)。それなのになぜ死後の世界のことを話すのか。そして実際に目に見えるこの大地についても、その広さをあなたはどこまで知っているのか。あなたの知力は本当に限られているのではないか(18節)。アメリカの西海岸から東海岸へと飛んだことを思い出す。バンクーバーからシカゴ上空を横切り、五大湖を飛び越えてボストンへと向かった時に、神の創造のスケールのあまりの大きさに痛く感動したことを覚えている。ジェット機で、いくら飛んでも、先に陸がずっと続いていくのだ。地球は宇宙の中でも小さな星であるが、人間にとっては巨大であり、そうした地球を造り、それがおさまる太陽系を造り、さらにその太陽系がおさまる銀河系を生み出し、と考えていく時に、神のなさることは計り知れないし、まるで自分が神の摂理の中心にいるかのような発想は実におこがましいことを覚えるのである。神の摂理というのは、私たちが簡単に文句を並べ立てるほど、単純なものではない。ずっと複雑で、深いものである。

ヨブは、光と闇を分け、その秩序を付けている神の御業をただ見るだけであること、ただそれらを知っているだけ、そこに一緒に参画し、神と対等に、物事を動かしているわけではないし、物事を動かせるように具申できる立場にもない現実を、教え諭されているのである(19-21節)。

そのような意味で、私たちの労苦は、いかに大きいものであれ、それはある意味で地球の片隅で起こっているようなものだ。けれども、それはどんなに小さなものであれ、神の深い摂理の中では、神の計画に連ねられているものであり、神の複雑なみこころの内にあって起こっていることである、と神は認めているのである。

4.雪も雨も、人間の創造を超えた神の営みがある(38:22-30)

ヨブよ、あなたは、雪や雹がどのように貯蔵されているのかわかっているのか(22節)。これは、時には敵を滅ぼすために使うもの(23節)。稲妻が煌めく方向や焼け焦げるようなシッコロ風が吹く方角、そして大水の流れはどのように定められるのか(24、25節)。人は、自分が区画した農地にうまく水が運ばれて欲しいと考えるが、私は、人間が入り込まないような荒れ地にも雨を降らせ、そこに若草を生えさせて、野生動物が生息できるようにする(26、27節)。人は豊穣を願って雨ごいをし、雨の父に願い事を並べ立てるが、ヨブよ、あなたは本当に誰がこれらを制御しているかわかっているはずだ(28節)。また冬になれば、水が石のように凍り付き、芯まで冷えて、大地は固まってしまう。それは、実に不思議なことであり、人間にとって何の役に立つことか、と思うだろう。しかし、この四季の移り変わりは、あなたの個人的な利益とを超えたものである。

5.(38:31-38)

そうだ、空を見上げるがいい。あなたは、冬の夜空の一番の見所と言えば、オリオンとすばるに違いない。あなたがたは、それぞれ星に名前をつけてきたが、その塊を造ったのは誰か(31節)。惑星の通り道に並んだ十二の星、つまり黄道の十二星座は、シュメール時代から発見され、バビロニア時代にはそのような秩序があると確定されたようだが、あなたは、その中の一つでも、たとえば牡牛座を誘導して、そこから引き出すことができるのか(32節)。天の法則は、私が決め、その秩序をあらかじめ定めたのだ。そこにお前は一緒にいたというのか(33節)。

ある星座の出現は、雨期の到来を告げると言われるが、実際に雨を降らせるのは、私の雷のような一言であって、あなたではない(35節)。隠され、秘められたことがあるのだ(36節)。あなたが、ちょうどよい適量になったので、雨を降らせましょう、と言うわけではない。そんなことはあなたにはできないことだ(37節)。あなたの知らないところで、地が乾燥し、人間の手に負えなくなった時に、これに心を配り、配慮して雨を降らせるのは、私である(38節)。

実際、あなたは、どこまでこの自然界の野生生物のことを心配しているというのか(39節)。あなたは、いつも自分の営みに忙しく、地球の裏側のジャングルに住む動物など、全く頭にないだろう。だが、私は、この地上に住むすべての命を心配し、配慮しているのだ。あなたの気づかぬような洞穴に伏し、茂みの中で待ち伏せし、獲物を求めている獣についても私は知っている(40節)。烏の子がお腹を空かせて、食べ物を求めている時に、それを聞いて、母親どりに食べ物を供えるのも、私なのだ(41節)。それは、創造主としての私の営みだ。

実に、自己肥大化したような生き方を捨てて、真に神の前に謙虚に歩ませていただきたいものである。神は、私たちが目もくれない、烏の子の泣き声にも心を配っている(41節)。ならば、まして私たちの、心の涙は覚えておられないはずがない。天地創造の神の前に、塵に過ぎない人間であることを忘れず、しかし、神の深い摂理と配慮の中に置かれていることを覚えて、慎みを持って歩ませていただこう。

ヨブ記37章

37章 神を神として崇める

<要約>

おはようございます。昨日同様に、神の素晴らしさを語る、エリフのモノローグが続きます。私たちは自然界を通して神が語っておられるのに、何も気づかずに日々の生活を送っているところがあります。もっと目を開いて、神の御手の中にあって生きていることを確信すべきところでしょう。そうすれば、私たちはもっと謙虚に、またもっと大胆に生きることができるはずです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の偉大さに注目せよ

エリフは、神の壮大なスケールを、自然現象の数々を用いて説明しようとする。初めは、36章29節からの、雷鳴の描写の続きである。神はなぜもあのような稲妻を光らせるのか。なぜあれほどの怒りにも似た耳をつんざくような轟音を響かせるのか。私などは、その脅威におののいて、心底震えてしまう(1節)。イエスは、「黙れ、静まれ」と嵐を静められたが、雷鳴を引き起こされるのも主である(3節)。神は御声を発し、地の隅々にまで閃光を走らせ、雷鳴を轟かせ、手加減を加えずに破壊的な力を注がれる(4節)。実に神は、不可思議である(5節)。雪だって夕立だって、皆そうだ。皆、神がなさるのに、これが神の業であると人は思いもしない(6節)。深い雪の中では、人は仕事の手を休め、神の業のもとに鎮まるほかはない。どんなに高度な科学技術を発展させても、自然界の脅威の前に立ち尽くしながら、人間はただ自分がこの地上に生まれ出た無力な被造物であることを思い知らされるだけだ(7節)。獣すら自分の身を守る場所を探して、穴倉に駆け込むだろう(8節)。あなたも、神の恐るべき威力については既に述べているが、冬になれば寒気が忍び込んでくる(9節)。あなたが言う天の前(9:9)に、夏の間は潜んでいたつむじ風が押し寄せてくる。そして神が命じられるその息吹により、たちまち地は凍り付いてしまう(10節)。ともあれ、雷雨のごとく、すべては神の指図によって巡りまわるのである(12節)。その意図は容易にはわからない。それは、人間を懲らしめるため、また人間に恵みを施すためである、という(13節)。

2.神を恐れよ(37:14-24)

自然の営みを通して、神はご自身の怒りと愛を示される。私たちにはその神の奇しいみわざを、熟考する時が必要である(14節)。

歳を重ねて思うことは、自然の恵みを味わいながら、朝毎に聖書を開き、神のことばに耳を傾ける、これに優る幸いはない、ということだ。何が幸せか、金がある、家がある、地位がある、友が多くいる、ということも大切かもしれないが、神と共に、語り合うよき時に優る幸いはない。それは人生の究極の至福である。神が供えられた草花や、生き物を楽しむこともなく、ただ、馬車馬のように働く人生は、多くを稼いだとしても、最期には全てを置いていかなくてはならない。自分の苦労を何も知らない人に置いていくのである。だが、自分が何者であるかを弁えながら神に近付かせていただき、神とよき時を過ごす豊かさの時は、地上の体を脱ぎ捨てることがあっても、これを失うことはない。むしろそれを確かなものとするのである。だから知恵あることは、永遠の住まいに私たちを迎えられる神との関係を、地上の命のあるうちに、大切に、しっかりと築くことである。

ともあれ、エリフは、私たちの身の回りが神の御業で満ちていることに注意を向けさせる。あなたは、どのようにして神が、雲に稲妻を閃かせるのか知っているのか(15節)。あなたは、空を漂う雲が、どのように雨水をため込んでいるのか、知っているのか(16節)。それは実に神の不思議ではないか。17節、南風とあるが、これはシロッコ風のことだろう。それは、アラビヤ砂漠を渡って、東、南南東、時には南南西から吹いてくる乾燥した熱風である。激しく吹くと、砂塵で空一面が覆われる。数時間のうちに気温が15~20度も上がることがあるので、人々は、これが吹くと家を締め切って熱気と砂塵を防ぐのである。このシロッコ風のために穂が焼け(創世記41:6、23)、ぶどうの木(エゼキエル17:9-10)や草花も(ヤコブ1:10-11)も枯れてしまう。神はこの風をもって葦の海の水を分け(出エジプト14:21)、ヨナを苦しめ教訓を与えた(ヨナ4:8-11)。エリフは言う。ヨブよ、あなたはその身を焦がす脅威を知っているはずだ。それは神の業だ。だから考えてみたい。あなたは神と一緒に、大空を造ったのか、神と共に、これらのことをなしうるのか(18節)。神と人の差は歴然としている。その神に私たちはどのように近づこうか、どのように口を開こうか(19節)。私に語らせろなどと、間違っても言ってはいけない。それは自分の身を亡ぼすことになる(20節)。

今、雲に覆われて、暗いこの地にあっては光を見ることができないだろう。しかし光は、雨雲の中でも輝いている。だから風が雲を吹き払うならば、(21節)、その光に、私たちは照らされることになる(22節)。私たちもまた、今は、この目で、可視的に神を見ることができないでいる、だからといって神がいないわけではない。神は、力に優れ、さばきと正義を実行なさるお方である。単純に考えも足りずに人を苦しめることはない。神は、正しく物事を行う者を決して見過ごされない。(23節)だから私たちは神を恐れなくてはならない。知恵あり、神を愛する者を、神がお忘れになることはない。、

このように正しく、神を認めることは、私たちの人生の安全弁であり、私たちに自分を等身大に見ることを可能にさせてくれる。高く見過ぎることもなく、低く見過ぎることもない。見極めることのできない神に心を留める時に、私たちは正しく自分のありようを知るのであり、自分の進むべき道、慎むべき事柄を弁え知るのである。ただ自分を見つめるだけでは、自分を知ることはできない。せいぜい他人と比べて自分はまし、あるいはだめ、と思うのが関の山であろう。そうではなく、人間が本来、神の形に造られた者であり、神にす全てを与えられているという認識を得るには、神が造られた自然に目を留め、神ご自身を仰がなくてはならない。エリフは、ヨブに言う。真の知者であると誇っても、神と等しい業を行うことも(18節)、神と対等に語ることもできない(19、20節)。神は至高な方であり、恐るべき尊厳を持っておられる。その神が私たちを不本意に虐げることはない(23節)。

神を至高の神として認められるようになることが、霊的な成熟である。自身を造られた者として認め、神あっての自分であることを認めて、今日も、遜りの心をもって神に近付き、神を崇める歩みをさせていただこう。

 

ヨブ記36章

36章 いつでも神を賛美せよ

<要約>

おはようございます。神を賛美するというのは、楽器を手に、声を揃えて歌うことを意味するのではなく、それは、日々の心の営みであることを覚えさせられるところです。教会に来て、賛美をしても、日々の生活の中で、しかも試練の中で賛美しうるかどうか、そこが私たちの証の生活のポイントとなることでしょう。そのような日々があってこそ、キリスト者の生活は世の光、地の塩となるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の理解力は完全だ(36:1-7)

エリフの弁論が続く。「まだ、神のために言い分がある」という(2節)。先祖がずっと昔から語り伝えて来たものをもって、神の正しさを示そう、という(3節)。私の言い分が正しいことを示すために、まず初めに、神が完全な知識を持っておられるお方であるという言い伝えがある。神は全てを知り、見定めているお方、神に隠されるものはない、そのお方とあなたは向かい合っているのだ(4節)。神は全能の神であると同時に、全知の神である。神の理解力は完全で、神は全てを理解した上で、その力を行使される(5節)。だから、神には、悪しき者をそのままにはされず、苦しめられている者の権利も回復されることが可能なのだ(6節)。神は地の片隅に正しい者がいれば、その者を見落とすことはない。彼にふさわしい報いを与えるだろう(7節)。

2.神は無意味に苦しめられない(36:8-15)

だから、もし正しい者が不正な権力者によって苦しみの縄に縛られることがあるなら、それは無意味なことではない(8節)。それが罪故のものであるなら、神は、その人の何が悪いのか、彼の高ぶりは何かを必ず告げてくださるだろう(9節)。神は、悟りを与えてくださり、その行いを改めるように導いてくださる(10節)。そしてその人が、神の聡と戒めを受け入れるならば、その人は、自分の幸せを回復するのである(11節)。必ずその何が悪いかを語ってくださるだろう(12節)。だからその苦しみを通して語られた神の声を受け入れようとしないならば、彼らは神の懲らしめの内に滅びるのである(13節)。

ヨブは、神が答えてくださらないと悩んでいた。ヨブは三人の友の主張に真っ向から反対したわけではない。神の沈黙に苛立っていた。しかし、エリフは断言する。神は語ってくださらないのではない、必ず語ってくださる。いや、苦しみの意図を告げてくださる、と。悪しき者は、決して、神にその意味を訪ね求めて遜ったりはしない。彼は、神を恨み、神に憤り、神に毒づくだけなのだ(13節)。結果彼らは救われることはない(14節)。しかし、正しい者は、神にその耳を開いていただくことができるだろう。神の与える不幸は、彼をさらなる幸いに導くためなのだから(15節)。

3.豊かさに欺かれないことだ(36:16-23節)

だから神を恐れて、高慢になり、豊かさに欺かれないようにすることだ。あなたは今まで何の不自由もなく、思うままに行動してきた。神があなたを守る垣根を張り巡らされたからだ。あなたは豊かになり、栄え、誰からもうらやむような人生を生きた。だがそのことに足をすくわれてはならない(18節)。いやもしかしたらあなたは調子に乗って記憶に留まらない罪を犯したのかもしれない。だから今あなたがどんなに叫んでも、どんなに訴えても、神が取り合わない事態が生じているのではないか(19節)。人が不正に踏みにじられ、悲しみの内に打ち伏してしまうような夜を求めてはならない。上に立つ者、権力を持つ者は、貧しい者、みじめな境遇にある者に対して、抑圧を強いることに注意せねばならない(21節)。だがあなたはひょっとして、悲しむ者と共に悲しむのではなく、無情な顔を向ける過ちを犯してしまったのではないか。しかし、全てを理解しておられる神は、あなたを教えようとしておられる。あなたを罰して懲らしめて、滅ぼそうというのではない。慈愛に富んだ父なのだ(22節)。その神にどうしてあなたは「不正をした」と言うことができるだろうか(23節)。

4.(36:24-33節)

むしろ、あなたは、自分の身に起こることについて神に賛美をささげるべきである。不可解であればあるほどに、神に栄光を帰すことであって、その逆ではない(24節)。へブルの著者も連ねたように、身に起こる不幸を不幸とするのではなく、信仰によって将来を臨み見、神を賛美すべきである。正しき者の、その証を、全ての人が見るだろう(25節)。神は、私たちの理解力を超えたお方であり、人間のように、限りある命ではない(26節)。雨を例に考えてみれば、神は水を蒸発させ、それを凝固させて雨都市、雲の中からしたたり降らせてくださる(27節)。一体だれがこのような科学的な仕組みを理解し、これを造りえたであろうか(28節)。そして神は、太陽を登らせ、雨で地を潤し、海を水で満たされる(30節)。その循環によって人は農耕の恵みに与ることができるのだ(31節)。すべてが実にうまく、造られている。しかしそこに神は雷も、嵐も加え、神が狙ったところにそれは下される。だが、それも神の恵みの循環の仕組みの一つなのだから感謝すべきなのだ(32節)。その雷により私たちは神を知り、神を恐れ恐れ、神が全てをお造りになったことを覚えるのである(33節)。神の知り尽くすことのできない知恵がある。

神は私たちを友と呼んでくださる。また私たちを子としてくださる。そして神は私たちを長く祝福してくださることもあるだろう。しかし、その恵み豊かさの中に足を救われるようなことがあってはならない。神の前に厚かましく、尊大な者になってはならない。神と共に歩むことは、もっと厳粛なことである。それは、肩肘張る堅苦しいものではないが、崇敬する思いを秘めたものである。もし、私たちが神の前に遜って仰ぐ心を持って、正しく歩むならば、神は、必ず、私たちの疑問に答えてくださることを確信してよい。神の沈黙には動きがある。静かに待つべきである。神の前に愚かになってはいけない。神を信頼し続けることである。そして神を賛美することなのである。賛美は、楽器をもって歌うことが賛美なのではない。日々、神の前に賛美をもって謙虚な思いで歩ませていただくこととしよう。