哀歌1章

一読、著者は誰であろうかと思う。ヘブル語の旧約聖書をギリシャ語にした70人訳聖書では、その序文に、「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが荒廃して後、エレミヤは座して泣き、エルサレムのために哀歌を歌って言った」と記されている。そのため、この哀歌は、伝統的に、エレミヤによって書かれたものと見なされて来た。先に52章にわたる、エレミヤの預言を見てきたが、エレミヤはその預言通りの結末になった状況に接して、悲しみの歌を歌ったというわけである。しかしそれが単なる嘆き、後悔の歌ではないからこそ、聖書におさめられたというべきであろう。悲しみにも二種類の悲しみがある。通常それは何も生み出さないようなものであるが、「神のみこころに添った悲しみは,悔いのない,救いに至る悔い改めを生じさせますが,世の悲しみは死をもたらします」(2コリント7:10)とあるように、悔改めといのちを得させる悲しみもある。

エルサレムは女王にたとえられている。その女王は、1-11節では、三人称単数で描かれ、今や見捨てられ、寂しくすわっている。まるでやもめのように、悩みさすらっている。彼女に残されたのは、過去の繁栄の記憶だけである。しかし、その記憶が濃ければ濃いほどに、苦しみは増す。今の打ち敗れた悲惨さが、身にしみてくるというものなのだろう。9、11節、12節以降、彼女の心の悩みが、一人称で言い換えられている。

それは図らずしも、これが、読者が自らの罪を告白し、神に祈る書とされるためである。いわゆる「呪いの詩篇」が、神に対して直接、あるいは神を通してその感情を言い表し、私たちの怒りを取扱うことを助ける効用があるように、哀歌は、罪に打ち破れた者が、詩人とともに、神に祈ることを助けるのである。

シオンが痛みを感じているのは、神のくびきを拒否したためである。神から離れて、一瞬の自由を得たかのように考えていたのが、そうではなかった。「私のそむきの罪のくびきは重い」(14節)。聖書は現実的に語る。ヘブル人の手紙の中で、「罪ははかない楽しみ」(11:25)であると語られている。罪は楽しいものである。しかしそれは、はかない楽しみである。そのつけは大きく、後で課せられるくびきは重い。そんな後先を考えずに、はかない罪にふけてしまうのが、私たちの愚かさである。だれも罪のくびきを負い、見捨てられた者を、慰める者はいない(2節)。裏切られ、敵とされ、共に楽しんだ者たちも遠ざかってしまう。そのような窮地に陥って自分の愚かさに気づくのが人間である。

だが、神は私たちを完全に見捨てられるわけではない。また、12節は、よくキリストの十字架に適用される箇所でもあるが、それゆえ、神は私たちの愚かさによる辱めの極致も良く理解しておられるのである。大切なことは、自分の悲しみに沈んでしまうことではなく、自分の過ちを悔い改めることなのであろう。灰を被り、自分の打ち敗れた現実を認め、神に救いを求めることではないか。神の御前に遅すぎることはない。いつでも、神は私たちを救い、助け出してくださる。神に立ち返り、神の救いを望んで歩ませていただこう。

 

エレミヤ書52章

最後の章は、エレミヤの預言が真実であったことを、史実をもって紹介している。51:64には「ここまでが、エレミヤのことばである」とある。また、エホヤキンの恩赦は、ネブカデレザルの死後のこと、もはやエレミヤが生きていたとは思えない時代に起っている。明らかに52章は、エレミヤ以外の誰かが加筆したものなのだろう。内容は、39章(2列王記24、25章に平行する)の繰り返しのようであるが、祭儀用の器物、いわゆるイスラエルの財宝が皆神殿から運び出され持ち去られたこと、また、捕囚の民の人数、ゼデキヤ王、エホヤキン王の結末など新たな情報も加えられている。

1節、ゼデキヤの母は、リブナの出のエレミヤの娘であるとされるが、このエレミヤは、預言者エレミヤとは別人である。ゼデキヤはネブカデレザルに反逆を計り、失敗し、結果的にエレミヤが預言したとおりの惨事に見舞われた。また、三度に渡って、総数4,600人の捕囚民がバビロンに連れ去られた、とされるが、ここで述べられている人数は、同じ出来事を記した2列王24:14,16とは随分異なっている。それは恐らく、エレミヤ書は、成人男子の実数を書いたものなので、人数が食い違っているのかもしれない。

ともあれ、「エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによるもので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである」(3節)という。つまりイスラエルが反逆したのは、ネブカデレザルに対してではない。単に同時代の勢力均衡を崩す、暴挙に出たからではない。まさに、目に見えざる天地の造り主、かつてイスラエルに格別の憐れみを注ぎ、エジプトから救い出した神に反逆したためである。

エルサレムの城壁も神殿も破壊し尽くされ、町は丸裸にされた。恐らくこの後に、ネヘミヤ書、エズラ書が来れば、それがいかに壊滅的で、絶望的なものであったかがよく理解される。聖書が神のことばである、というのは、やはりこういう神のことばの確かさを語るところである。それは、歴史に働き、歴史を導いておられる神が明らかにおられることを、示している。この神を覚えることなしに私たちの存在もありえない。

また最後の章は、エホヤキンの恩赦に後半焦点を合わせ、イスラエルに回復の希望を与える書き方となっている。神は物事を裁いて終わりにするお方ではない。そういう意味では、エレミヤの預言は、エルサレム崩壊の時代を生きた人々にとっては耳痛いものであったが、実際に崩壊後の70年の捕囚期を生き抜いた人たちにとっては、慰めと励まし、また希望を与えるものであった。今日、私たちがこの書を同じように、耳痛いものとして読むのか、あるいは、慰めと励まし、また希望を与えるものとして読むのか。それは私たちの魂が神の前にどうあるかにかかっている。旧約聖書は、どうも耳痛い、心を責められてかなわないと言う人は多い。しかし、置かれた状況にあっては、それは慰めと励まし、また希望を与える書である。まさに、遜り、砕かれた魂にとっては、ということである。聖書を本当に愛せる書として読んでいくことが望まれる。

エレミヤ書51章

バビロンに対する裁きの宣告が締めくくられる。宿営の長であったセラヤに、その巻物が手渡された。セラヤは、エレミヤの預言活動を口述筆記して助けたバルクの兄弟である。彼は、エレミヤに命じられて、捕囚の民の前で、その巻物を解き、当時隆盛をきわめたバビロンへの裁きと滅びを宣告するために遣わされるのである。

つまり51章は、58節に及ぶ長いバビロンに対する裁きの宣告であるが、それは、捕囚の民に対する悔改めを促す内容にもなっている。彼らは、自分たちがバビロンに打ち破られた事の意味を悟らなくてはならなかった。このようにされたのは神である、と。そして悔改め、神のあわれみを求めなくてはならなかったのである。だからエレミヤは言う。「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主から、決して見捨てられない。彼らの国は、イスラエルの聖なる方にそむいた罪に満ちていたが。バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。バビロンの咎のために断ち滅ぼされるな。これこそ、主の復讐の時、報いを主が返される。」(5,6節)

捕囚の民が、イスラエルの神に対する信仰を守り、エルサレム帰還を実現したのは、この神の憐れみの言葉によればこそであろう。神は、裁かれるが「決して見捨てられない」たとえ、そむきの罪が深いものであったとしても、神は滅ぼしつくそうとは思っておられない。これは私たちに対する救いの言葉であると同時に、当時、打ち敗れて、希望を失った民にとっては、慰めと励ましのことばであった。

「万軍の主はご自分をさして誓って言われた。「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。」

神は力の神であると同時に正義の神である。たとえバビロンが神の正義の道具として用いられようとも、神の正義にかなわぬのであるならば、バビロンもまた裁かれる。神ご自身の権威の高さは、神がバビロンもイスラエルもみな創造した、天地の造り主であるところにある。

また神の力は強い。たとえバビロンの勢いが絶頂の極みにあり、誰もこれに抗しえないと思われることがあっても、神は一瞬にしてその力を無にされる。エレミヤは、捕囚の残りの民に、悔改めを促した。また同時に、捕囚の民に対しても、このようにして悔改めを促している。戦争に打ち敗れた現実の中で、自分の罪の重さをひしひしと感じる状況にある者たちに対して、神がなおも見捨てられないお方であることを伝えようとしている。もし打ち敗れた今を感じているのであるならば、一瞬にしてすべての秩序を変えられる、この神に望みを抱いて、従わせていただこう。

エレミヤ書50章

バビロンに対する宣告。イスラエルを打つ神の道具として用いられたバビロンが、一瞬にして滅ぼされることを伝える預言である。しかしすでにエレミヤは、バビロンのくびきがもうまもなく打ち砕かれる、と語った偽預言者のことばに反対して、降伏すべきこと、残された民はユダヤに安住すべき事を語っていた。ここでは、そのバビロンが、もうまもなく、打ち砕かれる事を語っている。

この預言については、どうも後代のもの、つまりバビロン帝国末期(BC538年頃)に未知の預言者が、エレミヤ風に加筆したものではないか、と考えられてきた。しかし、そのように理解しなくてはならない、という決定的な根拠はない。むしろ、エレミヤは、預言者として超自然的に神によって知らされた、さらに先の幻を語り伝えたのだと理解しても差し支えない。実際、エレミヤはすでに25章において、バビロンの滅亡を語っている(12、26)。46章以降、ユダに打撃を与えた数々の小国に対する裁きを述べた後に、致命傷を負わせた大国バビロンの裁きを明瞭に語ることは自然な流れである。

2節「ベル」は、バビロンの守護神、「メロダク」は、マルドゥクとも呼ばれる最高位にある神である。しかしその神々も、バビロンと運命を共にして、北からの敵によって滅ぼされる、と語る。神はバビロンを、イスラエルの裁きの道具とされたが、だからといってバビロンの在り方が正当化されるわけではない。神の前に正しく歩むことがなければ、神はその罪を見過ごしにはされない。神は公正に正しいことをなさるお方である。

また、バビロンの勢いを考えた時に、当時誰が、その勢いに終わりがあると考えることができただろうか。目に見えるところだけで生きていたら、決してそのように考えることはできないものではないか。この預言は国家レベルのものではあるが、私たちの身近な事柄においても、一体どのようにしてこの勢いを逆転させることができるものか、と思うことがあったりするものだろう。圧倒的な勢いに飲み込まれ、倒されてしまった自分の人生がどのように、逆回転するのか、救われるのか、と思うことはあるものだ。

しかし、「高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを責める。あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ」(31節)。「彼らを贖う方は強く、その名は万軍の主」(34節)「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう」(44節)。目には見えないが、確かに生きておられる神がおられる、その方が語っておられることに耳を傾けよ、ということではないか。

時を興した神は、時を終わらせる。どんなに永続しそうな勢いがあっても、神はそれを一瞬にして取り去られる。そんな神に対する信仰をもって、私たちは人間として遜った誠実な歩みをすることが大切である。いついかなる時も、たとえ不本意な境遇に置かれることがあっても、その勢いに飲み尽くされることもなく、ただ、神の時を待ち、なすべきことをなさせていただく。これを今日の最善であると考えて歩ませていただこう。

 

 

エレミヤ書49章

イスラエル周辺諸国に対する裁きがまとめられて語られる。まずアモン人であるが。アモン人はロトの子孫であり、イスラエルとは親族関係にある(創世記19章)。カナン侵入の頃、首都ラバ(現在のヨルダンの首都アンマン)を中心に居住していた。1節「彼らの王」(新改訳)は、新共同訳では、「ミルコム」と訳される。欄外中には、70人訳で「ミルコム」と訳されていることが注記され、新共同訳はこれに倣ったのだろう。新改訳では、ヘブル語本文どおり「マルカム」つまり「彼らの王」と訳したようである。つまり、ここは、アモン人の民族神であり、モレクという名でも知られていた偶像礼拝が非難されていると考えられる所である。「アモン人のあの忌むべきミルコム」あるいは「モレク」は、旧約聖書の中に繰り返されている。それは幼児を犠牲として献げる宗教であり、イスラエルにはソロモン時代に政略結婚とともに入ってきたものである。後にヨシヤ王が、宗教改革を行ってこれを取り除いた。ともあれ、神はアモン人に対するさばきを告げられる。しかし、同時にアモン人の繁栄を回復されることを約束される(6節)。

次にエドム人。エドム人はエサウの子孫であり、パレスチナ南東部に住んでいた。「テマン」はエサウの孫であるが、ここでは地名として用いられている。その住民は知恵によって知られ、「岩の住みか、丘の頂き」(16節)と自然の力を信頼する民であった。彼らは四方を囲まれて安心して生きていた。しかしどんなに四方が確かであっても、その滅びは上からやってきたのである。神はそのエドム人をも徹底して裁かれると語られる。エドムに対しては再興のメッセージはない。

23節、ダマスコ。神の裁きのメッセージは南から北へと向けられる。アモン、モアブ、エドムは、パレスチナの南部に当たり、「ハマテとアルパデ」は北部にあるシリヤの二つの小都市である。ハマテはダマスコの北オロンテス河畔の町、アルパデはさらに北にある町である。28節のケダルはパレスチナの東の町、シリヤ・アラビヤ砂漠に住んでいる遊牧民、つまりベドゥイン族を指す。ハツォルは、パレスチナ北部の町。34節のエラムはパレスチナから遠く離れている。バビロンの東、ペルシャ湾に面する町である。エレミヤの預言は実に広範囲になされている。神は、全ての国々の運命を握っておられるのだ。

その神があわれみをもって、ユダヤ人、モアブ人(48:47)、アモン人(49:6)、エラム人(49:39)に元の繁栄を約束された。しかし、それらの国々がバビロンに滅ぼされて後、イスラエルが捕囚から帰還したように回復されたことはない。エレミヤの預言に終末的な要素が含まれていると思わされる点である。キリストが再臨される時に、キリストの王国が完成される時に、彼らもまた回復されるのだろう。神の裁きが淡々と語られる。しかし神はただ人を滅ぼし尽くそうとしているわけではない。四方が確かであっても神の裁きが上から来るように、また四方八方に窮していても神の救いが上から来るように、神ご自身の存在が、私たちの有り様を確かなものとする。神を恐れて歩むことがすべてである。

毎朝聖書を一日一章読み進め、主に従う歩みをします