アモス書3章

イスラエルに対する裁きの宣告である。彼らは、神に選ばれた契約の民である。だから契約に基づいて神の裁きが語られる。彼らは裁きを免れることはできない。大いなる特権は大いなる責任を伴うからだ。それは今日の教会も同じである。イエスの弟子ペテロは言う。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2:9)神に選ばれたということは、「すばらしいみわざを、宣べ伝える」責任を伴う。しかし、その使命感を意識できていないのが私たちの現実だ。それは当時のイスラエルの問題でもあった。

3節以降は、当時のイスラエル人たちが、アモスのそのような断罪にどのように応答したかを示している。もし一緒に歩いているとしたら、それは事前に約束があったからだろう(3節)。獅子がほえるとしたら、それは、獲物がみつかったからだろう(4節)。捕えられた鳥は、まさにわなの存在を証明している(5節)。町で角笛が吹かれるのは、重大事件が起こったことのしらせである(6節)。同じように、預言者が口を開くのは、主なる神の存在を明らかにしている(7節)。矢継ぎ早に出される7つの問いは、皆、聴衆から「否」を引き出すためのものである。身近なものを一つ一つあげて、すべてに否を言わせて、最後に、町のわざわいは、神以外に誰がもたらすだろうかと問いかけている。聴衆は、この問いに、同じように否と答えざるを得ないというわけである。

8節は、「結果」と「原因」を組み合わせた一連の問いの、最終的な結論として、アモスが神からの預言者であることを確認する内容となっている。今日預言者と言われる存在はいないが、預言者の声は、聖書を通して発せられ続けている。「この預言のことばを朗読する者とそれを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである」(ヨハネの黙示録1:3)と言われるように、日々、聖書のことばに心を留めて歩むところに幸いがある。

9節以降は、BC724年シャルマネセルによる北イスラエル侵略の預言である。七十人訳は、アシュドデをアッシリヤに読み替えているが、そうせずとも、アッシリヤの侵略は全体的に暗示されている。サマリヤは三年包囲されてついに陥落し、宮殿はかすめ奪われ(11節)、捕囚の民とされた。イスラエルの羊飼いは、野獣に羊が襲われたなら、その羊の足の骨、あるいは耳たぶを持参して、所有者にその証拠を示した(10節)。同様に、イスラエルも、家具の一部によってその攻撃が確かだとされる事態に至るという。こうして、北イスラエル創設後、ヤラベアム1世によって建てられたベテルの祭壇も、(14節)、別荘として建てられた冬の家も、贅の粋をつくした象牙の家々も、みな失われる、という。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい」(詩編127:1)と言うが、実に、神あっての今の生活であり、祝福と守りであることを覚えなくてはならない。そして、神を恐れ、神に従う心をもって、今日も歩ませていただこう。

アモス書2章

昨日に続いて、周辺諸国に対する神の裁きが語られる。まずはモアブ。「三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために」多くの罪のために、を意味する慣用句的表現がここでも使われる。モアブの罪は、「エドムの王の骨を焼いて灰にした」(1節)ことだ。古代において死体を汚すことははなはだしい冒涜であったという。というのも、魂と体は同一に考えられていて、体を焼くことは、魂を破壊することと同じとみなされたからである。神は、当時の人々の感情を逆なでするような出来事を取り上げて、裁きをつけられる。これが律法によらずということなのだろう。律法を持つ者は律法によって、律法を持たない者はその社会的な良心によって裁かれるのであり、私はキリストを知らないし、キリストを信じないから神の裁きには合わないと高を括ることはできない。皆がやがて神の裁きの座に立つことになる。だからこそ、キリストの十字架による罪の赦しを、自分のものとして受け入れることが、恵みであり幸いなのでもある。ケリヨテは、モアブの代表的な都市であり、モアブの神ケモシュの聖所があった場所である。モアブは恐ろしい戦禍に巻き込まれるであろうという。

次に4節以降は、選ばれた民である、イスラエルとユダに対する宣告となる。アモスが周辺諸国への裁きのことばを語り伝えた時には、皆が喜んだことであろう。異邦の民、神を知らない民は裁かれてしかるべきであると。しかし、アモスは同胞の民にも神の裁きがあることを告げた。それは何とも受け入れがたいことばであったに違いない。そこで、ユダの罪は何か。「主の教えを捨て、そのおきてを守らず、彼らの先祖たちが従ったまやかしものが彼らを惑わしたから」(4節)という。つまり、律法を与えられた民として、律法に従わなかった問題である。また、「まやかしもの」は偶像崇拝のことであろう。

またイスラエルの場合は、貧しい者、弱い者に対するあわれみのなさである(7節)いわゆる社会的な不正が弾劾されている。注意すべきは、要援護者に対する非情さと強欲さ、そして不正な取扱いは、単に人への罪であるだけではなく、神に対する罪とされていることだ。賄賂によって正義を曲げる不正な裁判(6節)、弱い者、貧しい者を犠牲にして生きる支配者(7節)、「父と子が同じ女のところに通って」の「同じ」は原文にはない。大まかに言いたいことは、性的な乱れがあったこと、そして形式的な中身のない礼拝がささげられていた、というわけなのだろう(8節)。

選ばれた民として、イスラエルとユダには大きな責任があった。選ばれるというのは、何か他の民に比べて優れたところがあったから、ということではない。むしろ彼らは、主の深いあわれみによって選ばれた民となったのである。9節エモリ人は、カナンの原住民の総称である。彼らはイスラエルに優る勢いのある民であったが、神がこれを完全に制圧した。エジプトで奴隷の民であったイスラエルが、カナンに所有を得るようになった(10節)のも、主のあわれみによる。大切なのは、彼らがそのように貧しさの中から引き出され、栄誉を与えられたのは、その神の恵みと憐みを、証するためであった。神を誇り、神に感謝をささげるためであった。豊かさの中に自分を見失うことなく、いよいよ、神の恵み豊かさに感謝し、これを証する健康な心を維持して歩ませていただこう。

アモス書1章

アモスは、羊飼いであり(1:1)、農夫であった。彼は、「預言者学校」で専門的な訓練を受けたわけでも、また祭司の家という特別な家系の出身でもないのに、神に預言者として立てられて活躍した。今で言えば、全くごく普通の信徒でありながら、献身をし、人一倍熱心に伝道をする信徒奉仕者であったと言えだろう。アモスはテコアの出身。そこは、エルサレムの南約19キロにある、海抜900メートルの高地で、ユダの荒野を見渡すことのできる小さな町である。つまり彼はユダの田舎町の出身でありながら、イスラエル北王国の大都市であり宗教的な中心地のベテルで活躍した。何の人脈も持たずに、彼を応援する同僚もない中で、また、都会で語る洗練された訓練すら受けずに、アモスは、神の言葉を伝え、聖職者と祭司、および、国家的規模の偶像礼拝を非難した。それは実に大きなチャレンジであったことに間違いはない。神の支えがあり、神ご自身の守りと導きがあったからこそ、できた働きということだ。神が人を用いられる方法は、実に不思議だ。

アモス書が書かれた時代は、「ユダの王ウジヤの時代、ヨアシュの子ヤロブアム2世の時代」(1:1)です。イスラエルが束の間の繁栄と平和を掴んだ時である。しかし国民は、その繁栄の中で堕落しきっていた。アモスは、宗教的、社会的堕落を告発し、差し迫っている神の裁きを警告している。1-2章には「三つのそむきの罪、いや四つのそむきの罪のために…」「なぜなら彼らは…したからだ」「だから私は火を送ろう。…火は…を焼き尽くす。」と同じ言い回しが繰り返されながら、アラム人(3-5節)、ペリシテ人(6-8節)、フェニキヤ人(9、10節)、エドム人(11、12節)、アモン人(13-15節)へと、イスラエル周辺の諸国民に対する裁きが告げられている。「三つの、四つの」という言い回しは、「多くの罪」「重なる罪」の代名詞であり、さして特別な意図はない。このアモス書が口伝えに伝えられる記憶への留めやすさということから、そのような技巧的な書き方があったのだろう。

大切なのは、異邦人は、ユダヤ人と違って、神の戒めである十戒を与えられたわけでも神の律法を教えられていたわけでもないことだ。それでも、神は、ご自身の律法を知らない異邦人にも目を向けられ、悔い改めを求められている。パウロが語っているように、ユダヤ人は、神の律法と愛に対して罪を犯したことを裁かれ、異邦人は、心の内にある神の律法、すなわち良心に対して罪を犯したことを問われるのである。

だから、今日日本人が、自分は聖書を知らなかった、だから聖書の神の裁きを受ける筋合いもない、と言うことはできない。全ての人は神の裁きを免れ得ない。天地を創造し、すべての国民を造られた神は、聖書という形で、日本人に書かれた律法を与えることはなかったが、神ご自身の戒めを悟らせる良心を心に備えられたのであり、その良心によって裁かれるのである。実際、彼らが指摘されていることは、何か残虐な行為ではなく、「兄弟の契りを覚えていなかった」(9節)こと、「肉親の情をそこなった」(11節)、つまり良心がどうであったか、ということである。神は心を見られるお方である。信仰は、態度の問題である。神に対して私たちがいかに生きているか、そこが問われるのである。今日も神に生きる歩みをさせていただこう。

ヨエル書3章

主の日、神は、イスラエルに対してなされた異邦人の罪を裁かれる(1-8節)。それは、彼らがユダヤ人を散らし、土地を分捕り、奴隷のように扱い、搾取したからである。力が正義なのではない、正義が力である。だから、最終的には正しいことが、なされていく。このヨエルの預言は、「ツロとシドンよ、ペリシテの全地域よ」とあるように、まずは当時の時代の人々に語られたものなのだろう。これらの諸国家は、交易を盛んに行っており、3節に描かれた奴隷売買にも深くかかわっていた。神はそのように人身売買に加担し、神の宝であるイスラエルを売り渡した者たちに報復する、と語られる(7節)。

しかし9節、ここからは、どうも、終末的に読み解いていく必要がある。「聖戦をふれよ」は、直訳すれば「戦いを聖別せよ」であり、戦闘を始めるにあたり、犠牲をささげる習慣をイメージしている。つまり、意を決し戦いに備えよ、ということだろう。諸国の民が、十分に備えて、主の民との戦いに臨むように勧めている。それは、主がその戦いで裁きをつけられるからだ。これまでの帳尻を合わせる正しい裁きを遂げられるからである

その日、「太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」(15節)。これは明らかに終末の異変について語っている。そうであれば、イスラエルは、地理的なイメージよりも終末的霊的な意味で捉えて読むのがよい。神の恵みの福音に反対し、神の民を搾取した者たちすべてに神の裁きがあり、神の民には、終末において守られ、祝されることが物語られている(16節)。

すでにペテロが、ヨエル2:28-32を、ペンテコステの出来事であると解釈したことについて触れたが、その流れでいけば、ヨエル3章は、さらに先の終末の出来事、「主の大いなる恐るべき日」の出来事について語っていると理解される。それは、まさにキリストの初臨によって開始され、再臨によって完成されるメシヤ王国の祝福について語っている。だから1章において、干ばつと飢饉から書き起こしたヨエルは、3章において甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れる描写をもって(18節)その筆を置くことで、実際には、今の世にあって何の望みもない者に対して、今を含む未来に対する大いなる希望を覚えさせようとしている、ことにもなる。

未来に待つのは、主にある平安である。「民の避け所、~とりで」という言い方は、旧約の詩人が、身の安全、心の平安を表現するために最も好んで用いたことばである。さらに18節は、単なるいなごの被害からの回復を超えて、溢れるばかりの豊かさに囲まれることを意味する。平安と豊かさ、底知れない神の祝福が、待ち受けている。

大切なのは、この底知れない神の祝福に預かるか否かは、今私たちが、神とどのような関係を結ぶかにかかっていることだ。神は私たちに未来の展望を与えられる。それは、私たちが正しく神の恵みを受け止め、神の恵みにあって、未来に備えるためである。そして聖書は、もしイエスキリストを救い主として私たちが受け入れるのであれば、決して裁かれることはない、と語る。神は私たちの避けどころとなり、とりでになる。主が私たちと共に住まれるのであるから、「太陽も月も暗くなり、星も光を失う」という終末を恐れる事もない。どんな破壊的な力が私たちの内に働こうとも、私たちは主の再臨と主の招きを覚えて、平安の内に、それらを受け止めることもできるようになる。また、神は私たちの失われた日々を豊かに償ってくださる。いかに大きな損失であれ、神が埋め合わせることのできないものはない。主にあるこの希望に満たされて、いつでも、平安の内に歩ませていただきたいものである。

ヨエル書2章

ヨエルの時代、ユダにはいなごの大群が来襲した。この災害を、ヨエルは神の怒りと認め、ユダの国民に悔い改めを呼びかけている。神との関係を回復しないならば、さらに恐ろしい神の刑罰が起こると。だから差し迫ったいなごの来襲という危機に対して、全国民が神に立ち返り、哀れみを求めて祈るように勧めている(13-18節)。断食を布告し、きよめの集会を持つように、と。「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け」(13節)とあるように、パフォーマンスではなく、真に心をきよめる集会を持つように、と。その民の応答に対して、神はいなごを取り除き、いなごが奪い取ったすべてのものを、豊かに回復してくださると約束している。後半の18-27節は回復の約束である。
しかし、失われた時など返ってくるものだろうか。そのように神は約束されるが、失われた時は文字通り返ってくることがあるものだろうか。現実的に考えれば、過ぎ去った時は、永遠に戻ることはない。失われた過去を取り戻すことなど不可能である。ただ、それは事実であるとしても、ヨエルは言う。「あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない」(26節)。神は、私たちの思わぬ方法で、失われた時を返してくださるお方である。神は償ってくださる方である(25節)。だからその神に立ち返ることを躊躇ってはならない。いつでも、神の祝福を受けるために、神のもとへと急ぎ来たれ、というべきだろう。
さて28節から、ヘブル語聖書では、ここから3章が始まる。内容的にも、ヨエルは、ここからさらに未来的なことを語ろうとしている。だから2章の前半(1節、11節)で使われている「主の日」という表現と、後半の(31節)の「主の大いなる日」はどうやら同じことを意味してはいない。前者は、ヨエルの時代か、その近い時代の日を指しているし、後者は、どうやら、終末の時代を意味している。
実際、ペテロは、ペンテコステの説教で、このヨエルのことばを引用して、霊的に解釈している(使徒2:16-21)。それは、神の民がこの地上において、神の国を実現できるように、神が霊を注がれることを物語っている。旧約時代には、神の霊は預言者など特別な人々に注がれた。しかし終わりの日、いわゆる神の最後の審判の前には、神はすべての人に霊を注がれるという。それは、預言と幻のためである。ペテロ的に解釈すれば、人々が主の霊によって、「神の大きな御業」(使徒2:11)が語り聞かせられるため、主の弟子たちの宣教が聖霊によって進められるためである。
このように、ペテロがこれを、ペンテコステの出来事であると解釈し、それが新約聖書の信仰になっているとするならば、ヨエルの預言は、私たちに対する新たな警鐘を鳴らすものである。神はすでに「霊を注がれた」(28節)。ということはそれに続いて、「主の大いなる恐るべき日が来る」(31節)ということであり、それに対する備えを私たちは求められているのである。
それは、いなご、ばった、食い荒たすいなご、かみつくいなごが食い尽くす年々に象徴される、大変な災害である。生き延びることが難しい、苦しみの時である。「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる」(32節)。神が万物の支配者であるとしたら、この地上の風も、光も、雨も、雪も、そして人も動物も、あらゆるものをお造りになった支配者であるとしたら、不思議なことではないし、信頼すべきことばである。主の日に備える歩みをさせていただこう。

毎朝聖書を一日一章読み進め、主に従う歩みをします