レビ記1章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、今日からレビ記に入ります。創世記も出エジプト記も、レビ記もみなつながっています。個々に読んでいませんか?今日から学ぶレビ記は、創世記、出エジプト記の土台の上に、語られるものです。そして聖書の深みを理解する最も重要な書です。しっかり読んでまいりましょう。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

創世記において一番大切なのは、創世記12章を軸に展開する終末史的ビジョンを読み解くことである。つまり、そこには、罪と堕落によって裁きを受け散らされた人類(11章)が、アブラハムとその子孫の選びと働きにより一つとされる終末に向かう神のご計画が語られている。出エジプト記は、具体的にイスラエルの民の選びが描かれている。彼らは、贖罪(血による罪の赦し)によって選ばれた(12章)、そして、神の戒めを与えられ(19,20章)、礼拝する民とされる(25章以降)。すなわち、創世記に描かれた終末史的ビジョンは、神を礼拝する民の証しによって達成されるのだ。レビ記は、出エジプト記において、物語的に語られた「罪の赦し」「神の民のきよめ」「礼拝」という重要な考え方を、神学的、論理的に深く解き明かす書である。実際、レビ記は出エジプト記と連続している。出エジプト24:16で神はモーセを「呼ばれ」幕屋建設の詳細を告げ、その準備が終わり、聖所が設けられると、再び神はモーセを「呼び寄せ」(レビ1:1)、個々のいけにえに関する規定を与え、神の民がささげるべき礼拝のあり方を教え導いているのである。
1.全焼のささげ物の種類
そこで1章、まず「全焼のささげもの(=なだめのかおりの火によるささげ物)」の規定が語られる。ささげ物は、その経済状況によって異なっていてもよく、豊かな者は牛を、貧しい者は鳥をささげたが、いずれにせよ、全く傷のないものでなければならなかった。だから、肉食獣は除外され、清い獣や家畜に限定された。そして、このささげ物は、祭壇の上で、それらを全て焼き尽くし煙にするのが特徴であった。
2.全焼のささげ物の手順
 だからささげ物をささげる手順に注目し、その意味をよく理解しなくてはならない。まず焼き尽くすささげ物となる動物は幕屋の入口に引いていかれなくてはならなかった(奉納)。次に按手がなされる(4節)。それは、動物の頭の上に手を置く行為であるが、それによってその動物に、私たちに下される神の刑罰の義務が移行したことを意味した。ささげられる動物は、まさに私たちの身代わりとなって焼き尽くされるのである。だから第三に、いけにえは屠殺される(5節)のであるが、それは、神の怒りの刑罰が、身代わりの動物を通して私たちに下されたことを意味する。ささげられた動物と私たちは一体で、私たち自身が神の刑罰を受けて死んだことになるのである。パウロは、イエスの身代わりの死について、「私はキリストとともに十字架につけられた」(ガラテヤ2:20)と語っているのはそのことである。イエスの十字架は私たちの罪の赦しのための身代わりの死であるが、それによって私たちも神に裁かれたのである。私たちも古い自分に死んでいる。
第四に、祭壇の周囲に血を注ぎかける(5節)。祭壇は神の臨在の象徴である。だからそこに血を注ぐことは、自らの死と贖いを確認する行為である。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」とヘブルの著者は語った(9:22)が、それは神との確実な契約に基づく行為なのである。そして最後にいけにえが焼却される(6-9節)。火は神の怒りの火、焼きつくす火である。そして同時に浄化の火を示している。しかしそれらの火によって、いけにえは最終的には、宥めの香りの火によるささげ物となる。主を喜ばせることが最終目的である。この全焼のささげ物は、すべてのささげ物の基本となった。
3.全焼のささげ物の意味
全焼のささげ物について三度繰り返されることばに注目したい。「主への食物のささげ物、香ばしい香り」(9、13、17節)がそれである。神に崇敬の念を示すために、ささげ物において神に食物が提供されるというのが古代異邦人の考え方であった。しかし、イスラエルにおける主への食物は、そのような物質的な必要を満たす意味はない(詩篇50:8-15)。それはあくまでも霊的な意味であって、食物は契約の神への感謝、忠実さ、また信頼を象徴している。神が私たちに献げるように期待しているささげ物は、まさに私たちの感謝、忠実、信頼、そして神に対する愛なのである。私たちにとって食物が不可欠なように、神にとって霊的な食物、つまり私たちの全き献身が不可欠のものである。しかしながら、レビ記において最も理解するべきことは、私たちが全き献身をささげるのではなくて、私たちの代わりに全き献身が既に献げられたことである(ヨハネ1:29)。私たち罪人の自己献身はいかなる献身であろうとも不完全さを免れ得ない。完全な献身は、永遠の御子が罪人の身代わりとなり、ゴルゴダの丘においてご自身を献げた自己犠牲以外にありえない(マタイ26:28)。御子の十字架の死に至るまでの、御父に対する完全な愛と服従が、主への食物であり、香ばしい香り、すなわち喜ばしく、受納される宥めであったのである(4節、ヨハネ17:19、エペソ5:2)。
だからパウロは、キリスト者に、自分自身を神に献げて歩むように勧めているが(ローマ12:1)、それは、キリストの十字架の犠牲を神が受け入れられたことが前提となっている。つまりキリストの故に私たちは、受け入れられており、神に近づいて自分自身を献げる歩みが許されているのである。こうして全焼のささげ物をささげることは、神に献身を示す、神に対する愛の行為というよりも、完全な犠牲によって神に愛されていることを確認し、自らをキリストに倣って神のものとされることを願う行為と理解されるのである。
ペテロは語った。「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」(1ペテロ2:5)。私たちは、キリストにあって既に自分自身を神にささげ、受け入れられている。ならば、受け入れられている者としてさらに自分自身をささげて生きていくことが、期待されていることである。神は物がささげられて喜ぶお方ではない。私たちが、キリストの十字架を覚え、遜り、この方にあって新しいいのちと神との関係があることを覚え、感謝と、忠実さと、信頼を益々深めるように神を仰ぐことこそが、神の喜びとされる食物となるのである。今日も神の恵みとキリストのとりなしに守られてある事を覚え、神にささげた歩みをさせていただこう。

出エジプト記40章

<要約>
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、40章ですが、幕屋が完成し、これを聖別し神の用とする奉献式がなされ、神がそれをお受けになり臨在の象徴としてくださったことが記されています。注意すべきは、繰り返しのことば「主がモーセに命じられたとおりである」です。神に従順であるためには、神の言葉によく耳を傾けることです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.幕屋の奉献(40:1-15)
幕屋の完成は、神の民の創造を意味した。エジプトで奴隷であった彼らは、天地創造の唯一のまことの神を拝む宗団として、自分たちを認識するようになった。
2節「第一の月の一日」に、17節を見ると、これは第二年の第一の月の一日である。この日、幕屋の設営が命じられ、全ては「主がモーセに命じられたとおり」に完成した。エジプトを脱出したのは、第一年の第一の月の十五日、それから約五十日目の第三の月にシナイ山に到着(19:1)している。そしてモーセの第一回目のシナイ山滞在が四十日間(24:18)、さらに第二回目のシナイ山滞在が四十日間(34:28)であるとすると、それだけで130日、約4カ月弱が経過していることになる。その間に、金の子牛の事件民の背教があり、モーセのとりなしがあり、神の民との再契約があったのだから、第二年の第一の月の一日に幕屋を組み立てるとなると、幕屋を製作する時間はわずか7カ月弱しかなく、イスラエルの民は、驚くような熱意と勤労ぶりをもって、幕屋の布や皮を用意し、刺繍を施し、調度類を彫刻し、組み立てたことになる。実に荒涼とした荒野のど真ん中で、幕屋の材料を揃える工場も商店もなかったと思われる所で、彼らは、材料を用意し、突貫工事で作業を完成させた。そして幕屋を組み立て、至聖所を設置し、完成した調度類、付属品を定められた場に配置した。おそらく、幕屋は移動可能な組み立て方式であったから、設営は短時間で終了したと思われるが、それにしても、驚くような献身ぶりである。金の子牛の事件の後、悔い改めが具体な行為となり、信仰と一致による熱意が導きだした一大事業となった。教会の建設にもそのような御霊による新生と一致による前進がありたいものである。
2.聖別と神の証印(40:16-38)
さて、完成した幕屋の建具および、調度品類は、まず主のために聖なる油注ぎによって聖別された。これは、祭司の任職聖別式と同様、別の日に行われたのであろう。そこに主の栄光が満ちたとされる。主の臨在の象徴である雲がそこにとどまり、34節「主の栄光が幕屋に満ちた」という。主は幕屋を住まいとされた。これは重要な比喩である。というのは、イスラエルが王国となり、幕屋に代わる神殿を建設した際、主は、神殿をご自身の住まいとされ、そこにも主の栄光は満ちあふれたとされている(1列王8:10-11)。
新約の時代では、神は新しい幕屋、神殿を定められた。つまりイエス・キリストをご自身の神殿とされた(ヨハネ1:14)。イエスは、ご自分をさして、言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)これは、イエスの復活のことを言っているのであるが、神はイエスを住まいとし、イエスの上にご自身の栄光を表されたのである。
そして現代において神は、キリスト者一人一人を幕屋、神殿として見て、ご自身の住まいとしてくださる(1コリント6:19,20)。これは驚くべきことである。私たちが神の聖なる用具として聖別され、神ご自身の栄光を現す場とされるのだ。私たちを見る時に、人々は、そこに主の栄光が満ちている、この人と共に神がおられる、と知るのである。私たちは世の光であり、地の塩と言われるのは、そういうことだ。
38節は、「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう」(29:45)と語られた主の約束の実現である。彼らは旅路の途上にあって、いつも、昼は主の雲が、夜は雲の中に火があるのを見たという。神が約束されたとおりである。そして、イスラエル人は、その主の雲が幕屋から上った時に旅立ったという。つまりどこまでも主の後をついて行く民として、自らを証したのである。
神は、イスラエル民族を神の民として導かれた。それは、ただ単にエジプトの滅びの穴から救い出してくださった、というわけではなく、その先において、神の民としての証を立てるためである。それは、私たちを通して、神の救いの中に人々を招き、神の同じ祝福に預からせるためである。神が全人類を愛しておられることは確かであるが、その愛の招きを自らの生活を通して指し示すのが、神の民としての私たちの役割なのである。

出エジプト記39章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、39章は、祭司たちが着る装束の作成について記しています。モーセは神に命じられたとおりに事を進め、ついに幕屋建設に関する全ての作業を終了させました。こうして天地創造に匹敵する神の民の創造が完了しました。今日も、モーセのように主のみ言葉によく聞き、従い、完成させる歩みを目指しましょう。皆さんの上に主の平安があるように。

1.祭司の装束の作成(39:1-31)
祭司たちが着る装束が作られていく。「主がモーセに命じられたとおりである」と著者は繰り返すが、このフレーズは、この章にも、次の章にも7度繰り返される。それは、神の細かな命令に、モーセが的確に、丁寧に従ったことを強調しているのであろう。そのように一つ一つ判を押したように、確実に作業が進められていく様に、神のことばに従うあり方そのものを考えさせられる。
 神の宮を建てることについて、これほど神の御心に沿って建てあげていくことの慎重さがあるだろうか。いや、もっと比ゆ的に考えて自らの信仰の歩み、霊的な人生を築き上げることについて、これほど神の御心に沿った慎重さがあるだろうか、と思う。
 パウロは言う。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。・・・あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(1コリント3:12-16)イエス・キリストという土台の上に、どのような素材を選んで教会を建てあげていくのかに注意せよということである。素材を選びぬき、最良のもので、慎重に建てあげるのでなければ、結局は、災いの日に崩れることなく立ち続ける建築にはなりえない。三匹の小豚の話ではないが、藁と木とレンガで造った家の内、狼の攻撃に守られたのは、レンガの家だけであったようなもので、私たちの教会も、神に命じられたとおりに、選び抜かれた素材で、また神のことばに従って建てあげる慎重さをもって建てあげるのでなければ、決して、永遠の神の家として立つことはできない。ハデスの門も打ち勝てないという、霊的な神の家として建てあげることはできないだろう。
 そういう意味で、教会は、また私たちの新しい人生は、霊的なものである。教会はセメントをこねれば建つという。しかし、神が私たちに期待しているのは、箱モノを作ることではない。人の魂を癒し、心を励まし、力といのちを与える教会を建て上げることである。それは、まさに霊的な教会であって、ハデスの門も打ち勝てないものである。とすれば、霊的に金、銀、宝石にたとえられる良質の材質で、私たちの人生を築き上げ、教会を築き上げるのでなければ、それは決して神の評価に耐えうるものにはならない。霊的に木、草、わらというのは、いわゆる霊的には粗悪な素材、つまり世俗的な素材ということであろうから、建物は建てあがっても、霊的な試練には耐えられないのである。だからパウロは、「私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前で要塞をも破るほどに力のあるものです」(2コリント10:4)と語り、神の霊的な武具によって戦い抜くことの大切さを語っている。霊的な生活、霊的な教会を築き上げようとするならば、霊的な材料をもって、霊的な手段に沿うことが大切である。神の方法に従う、というそのことが、神の目的にかなうありようを得ることになる。
2.幕屋作製作業の終了(39:32-43)
 「こうして会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった」という。私たちの奉仕にもいずれ終わりが来る。その際に、私たちはどのような報告をするのであろうか。私たちの奉仕がたとえ人に評価されることがなくても、神の前に、「主が命じられたとおりにした。そのようにした」と言えるものであるかどうかが、大切である。神が私たちに期待することは、大それたことではない。むしろ小さなことであろう。しかし、親、子ども、妻、あるいは同僚に対して、神が与えられた責務を忠実に行い、その奉仕を終える時が来る。モーセは、「すべての仕事を彼らが、まことに主が命じられたとおりに、したのを見たとき、モーセは彼らを祝福した」という。仕事をし、その通りの物ができ、よしとし、これを祝福する(創世記1,2章)。まさに創造のパターンを思い出すところである。実際、幕屋の全ての奉仕が終わることは、天地創造に匹敵する神の民の創造を意味するところがある。神はモノとしての天地をお造りになっただけではなく、創世記の物語を通して、アブラハム契約に象徴される、散らされた者が一つとなる霊的な環境を提示された。そこに、出エジプト記を通して、神の民を産まれさせたことを伝えるのである。そういう意味では、善悪の知識の木の実は、アダムにとって主の戒めを教えるものであったが、神の民に対しては、続くレビ記を通して、主の戒めが教えられていく。つまり彼らは神の民としていかに生きるべきかを教えられていく。
創世記、出エジプト記、レビ記とさらに読み進めていくこととしよう。

出エジプト記38章

1.祭壇、洗盤、庭(38:1-23)
 続けて幕屋の調度類が造られたことの報告である。27章において神が命じられたことは、「作る」ということであった。それらの意義などについては、27章の解説を参照されたい。
さてそれが神の御命令どおりに「作った」と記録されている。読み比べると多少表現の違いはあるが、判を押したように、作るべきものが作られたことが忠実に報告されている。実に、信仰の歩みというのは、そういうものではないか。聖日を守りなさいと神に命じられる。それを忠実に守った。そして守ったことを神に報告する。朝ごとにいけにえをささげよと神に命じられる。そして朝ごとにこれを行い、報告する。信仰の歩みというのは、そのように神のことばに判を押したように従う地味な営みであるが、そのような部分に、意義を感じていたり、そのような部分が人の信仰を大きく成熟させると理解している人は少ないように思う。22節、「ベツァルエルは、主がモーセに命じられたことを、ことごとく行った。」という、まず朝ごとに神のみこころを探り、夕ごとに一日の働きを神に報告する、そんな歩みを重ねたいところである。
2.聖所設営のコスト(38:24-31)
24節からは奉献物に用いられた金の総量が記録される。用いられた金の総量は、29タラントと730シェケル。1タラントは約34キログラムであり、1シェケルは11.4グラムであるから、合計約950キログラム、ほとんど1トン近い量になる。銀は、合計100タラント1775シェケル。約3400キログラムである。大切なのは、これらが、ひとり当たり1ベカ、つまり聖所のシェケルの半シェケルであって、すべて20歳以上の登録された者たちから集められたという形で記録されている点ではないだろうか(26節)。実に、誰かが寄進したわけではない。まるで皆が平等に献げたものの総数であるかのように記されている。それによって幕屋が建ったと。教会を建て上げるということも実にそういうことなのであろう。誰か力のある人が献げればよい、という問題ではない。皆で力を合わせて建てあげていくものなのである。
銀の台座は100を必要とし、100の台座に用いた銀は100タラント、1個の台座に1タラント用いられた。1タラントで1個の台座、だから100の台座を揃えて、幕屋の働きを進めていくには、100タラント必要だということになる。そういう意味では、1タラントで何ができるのか、と傍観者を決め込んでしまったら、100個の台座を用意することはできない。1タラントでは生かされないことも、100タラント集まったら、ちゃんと用をなすことがあるだろう。だから逆に自分は10タラント与えられているからと言っても、100個の台座は作れない。やはり、他の者の協力を必要とするのである。多く与えられた者も少なく与えられた者も、共に力を合わせて、神の示しに応じて、そのタラントを生かせば、教会は建てあがっていく。日本宣教の1%の壁を破る力は、私たち一人一人が少ないタラントと多くのタラントをどのように生かすかにかかっているのではないだろうか。
 ただ繰り返しになるかもしれないが、材料と同時に大切なのは、神の命令である。自己流に自分が良いと思うことをめいめい勝手に行うのではなく、神の設計に従って、協力し合いながら自分を生かしていくことが大切なのだ。そういう意味ではもっともっと私たちは教会の働きに関心を持たなければならないだろう。聖書を読みながら、教会がどうあるべきか、教会をどのように成長させていくべきなのか、そして自分が全体の中でどのような役割を果たすべきなのか、何をどこまでささげたらよいのか、そうしたことを考えながら、誠実に関わって行くことである。そして判を押したように、神に命じられたとおりにしました、と神に報告する一日を持つことだろう。ただ出席する、自分の席を守るということ自体が賜物を生かすことがある。礼拝に集うということ自体が、教会の士気を高め、牧師や他の信徒を励ますものである。しかしそれ以上にできる賜物を与えられている人もあろう。皆が力を合わせて教会を建てていく。そんな意識をしっかり持たせていただこう。

出エジプト記37章

1.装具の製作
モーセが彷徨った荒野は、荒涼とした岩地である。そんな土地で、よくもこれだけの技術や細工をサポートする材料や道具が揃ったものだと思うところがある。まさに、神の助けなくしてはなしえない事柄であった。人生に不可能と思われることは多い。しかし、人に勇気と希望を与える物語には、人間の力以上の働き、神の助けによってなされる何かがあることを認めなくてはならない。
 幕屋建設の棟梁ベツァルエルは、神に命じられたまま、一つ一つの調度品を丹念に作り上げていく。すでに、25-30章において作業工程が明らかにされているが、ここでは、実際の作業手順が記録されている。だから、幕屋の後に、契約の箱(1-9節)、机(10-16節)、燭台(17-24節)、そして香壇(25-20節)もまとめて、それらが神に命じられたとおり、忠実に、過不足なく作り上げられていった確認となっている。単なる再述ではない。
(1)契約の箱(37:1-9)
契約の箱は、「主の箱」(ヨシュア3:13)、「神の箱」(1サムエル3:3)、「主の契約の箱」(申命10:8)、「神の契約の箱」(士師20:27)、「あかしの箱」(出エジプト30:6)とも呼ばれた。材料は、アカシヤ材で、長さ2キュビト半(約1.11m)、幅と高さ1キュビト半(約67cm)の寸法であった。箱は内側も外側も、また箱のまわりの飾り縁も、四隅の基部に取り付けられた運搬用の棒を差し込む二つの環も金で覆われた。さらに箱の蓋となる「宥めの蓋」も純金で作られ「贖いのふた」と呼ばれた。その両端に、互いに向き合って顔が「宥めの蓋」に向かうように2つの金のケルビムが作られた。これが「契約の箱」と呼ばれたのは、そこに主とイスラエルとの契約の基礎となる神の十のことば(十戒)を刻んだ、2枚の石の板が納められたからである。
しかしながら、契約の箱の意義は、「宥めの蓋」のケルビムと共に、幕屋の至聖所に置かれたことであろう。ケルビムは神の臨在の象徴であり、契約の箱の置かれた至聖所は、イスラエルの神である主が御自身のしもべにみこころを啓示される会見の場であった。この契約の箱は、BC586年、バビロン軍によってエルサレムが破壊された時に失われ、バビロン捕囚帰還後に再建された第2神殿にも存在しなかったので、今や永遠に失われたと思われるものであるが、キリスト者にとっては、神の国が完成する栄光の終末の時、再び見ることのできる希望のあるものである(黙11:19)。
(2)アカシヤ材の机(37:10-16)
アカシヤ材の机は、ささげ物、つまり供えのパンを置くためのものであり、パン種の入らない平たいパンを12個作り、6個ずつ2並びにして供える。それらはもっぱら陳列のためで、祭司だけが食べることができるものとして用意され、毎朝焼き立てものが置かれ、夕方には下げられた。おそらくその象徴的な意味は、パンの数はイスラエルの12部族を表し、彼らの日ごとの糧は、神から来るという感謝のしるしであった。週1回、安息日ごとに新しく供えられた。
(3)燭台(37:17-24)
 ベツァルエルが作った純金の燭台は、メノーラーとも呼ばれる。七枝の燭代は、現在のイスラエルの国家紋章やお金(10アゴロットコイン)にも使われている。台座と支柱があり、その支柱から六つの枝が三つずつ左右に突き出て、支柱と六枝の上にともしび皿が載せられ、アーモンドの花の形をした節と花弁のあるがくの模様がつけられていた。メノーラーは、ユダヤ人の信仰と希望の象徴である。実際金の燭台は、黙示録では、主なる神の臨在、教会、忠実な証人の象徴とされる。そう言えば、エルサレムを旅した際に、神殿の丘、岩のドームに近い場所で、ガラス張りの囲いの中に大きな金のメノーラーが輝いていたことを思い出す。イエスは、「あなたがたは世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上におきます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなた方の光を人々の前で輝かせ、人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:14-16)と語っている。私たち自身がメノーラーであり、私たちの教会がメノーラーなのであり、世界の希望、光となる、という単純な事実に心を留めなくてはならない。
 ただ、自分が世界に希望を与えるメノーラーであると考えたとしても、それが鼻持ちにならない使命感を持つようではいけない。しばしば人間は愚かしくも自分の使命感を過剰に募り、勘違いもよい行動をとってしまうことがあるものだろう。メノーラーは、ただ存在することによって光輝く。神が用いられる人も、ありのままの自分を通して神の御業を現す人である。背伸びをするのでも、踏ん張るのでもなく、只その場にあることで用いられていく。
 そういう意味で、私たちは世界の希望ではあるが、静かな希望であり、穏やかな光である。気がつけばある希望であり、光である。神の臨在の象徴とも言われるように、派手なものでも、騒々しいものでもなく、いつも空気のように側に寄り添う希望である。
 燭台には、アーモンド花の形をした節と花弁のあるがくがつけられた。アーモンドはあめんどうとも呼ばれるが、その花は桜によく似ている。事実桜と同じバラ科サクラ族の落葉高木であり、薄いピンクがかった五枚の花弁を見て、サクラと見間違える人も多い。桜よりも一足先に、2月頃に満開となる。冬の荒涼と枯れ果てた風景に一足先に命を芽生えさせる、そんな花である。かつて、預言者エレミヤが神の召しを受けた時、エレミヤは、荒涼とした荒野に咲き乱れるアーモンドの花を見ていた。世俗化し、神を認めず、神に背を向けていくこの世は、荒涼した荒野そのものであろう。そこに満開に咲き誇るサクラに似た花。こんなことが起こるならば、死せるこの世にも、神の業が起こる希望を抱くことができるかもしれない。望み得ないところに望みを抱かせるのがアーモンドの花の意味である。荒涼としたこの世の社会に、満開の桜の花のごとく心に染みる歩みを、静かにさせていただきたいものだ。
(4)香の壇(37:25-29)
なお、香の壇は、イスラエルの民が礼拝において用いた香をたく壇である。毎日朝夕、祭司が香りの高い香をこの上で炊いた。また罪のきよめのささげ物を大祭司あるいは全会衆のためにささげる時は、その血を香の壇の角に塗った。つまりそれは、祈りととりなしの象徴である。実に、装具には、それぞれの意味があり、また、全体として一つとして調和した。メノーラのような証には、まさに、祈りととりなしが結び合わされなければならないように。