3章 しもべは聞きます

3章 しもべは聞きます
 <要約>
おはようございます。少年サムエルが成長し、神のことばを自ら聞くようになる時が来ました。今日神のことばは、聖書を通して、私たちに伝えられています。神が人間に何を思い、何をご計画しているかは、まず聖書を通して知られるのです。私たちは神のみこころを探り、その祝福と恵みに与る必要があることでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.聖所の務めに与る少年サムエルとエリ
サムエルが神殿にあずけられたのは、大体3歳ぐらいであったとされる。主の宮に仕える者となるように祭司エリの教育にゆだねられたわけである。サムエルはエリの家族らと一緒に育てられていく。それは、良いようで実際には好ましい環境ではなかった。しかしサムエルは、エリの子どもたちには影響されず、毎年手作りの上着を差し入れする母の祈りに守られ育っていく。そんなサムエルが、神である主に出会う出来事があった。
主はサムエルを呼ばれた、とある。シロにあった神殿については、幾度か考古学的に調査が行われたが、おそらく神殿が建立されていたと思われる頂上部分の浸食が基盤まで進んでいたことのために、何一つわかっていない。けれども、他の地域で発見されたイスラエルの神殿と考えられているものから推察すると、ソロモンが後に建てたエルサレムの神殿とは幾つかの部分で違っていた、と考えられている。たとえば、それは、聖所・至聖所の二つの部屋ではなく、一つの部屋で構成されていた。したがって、それは縦長の構造ではなく、幅の広い部屋であった。さらに、長い西壁には一種の「至聖所」とも言うべき奥まった壁龕(へきがん)が設けられていた。そして相対する東壁外部の内庭には、土と自然石で作られたいけにえを献げる祭壇が、さらに内庭を取り巻く小部屋が務めをする祭司のために設けられていた。
だからサムエルは、西壁の壁龕に「神の箱の安置されている」部屋で寝ており、エリは内庭を取り巻く小部屋の一つで寝ていた、と考えられている。それは、エリの視力が落ち、サムエルがエリに代わって、聖所の務めをなしていたこと、つまり、聖所の灯火を守り続けていたことを意味していた。そして早朝に神の声をエリの声と勘違いして、エリの側に駆けつけたサムエルは実に忠実にこの務めをしていた、ことを覚えさせるものである。
2.サムエルを呼ぶ神
ともあれサムエルには神が語りかけていることがわからなかった。聖書は、この時代、神のことばはまれにしかなく、幻も示されなかったと語る。神のことばの飢饉の時代であった。そんな時代に神は、少年サムエルに語りかけられた。だからサムエルがわからなかったのも無理はない。彼は主人のエリが呼んだのだと勘違いしたが、三度目に、それは、エリではなく神が呼んでくださっていることを教えられる。
サムエルはエリに手ほどきを受けて、主のことばを聞くことを、教えられる。「9節。今度呼ばれたら、主よ。お話しください。しもべは聞いております」と申し上げなさい。エリの助言は適切であり、サムエルもまた、その助言に素直に従った。サムエルは、語りかけられる神に対して心を開き、耳を傾けた。「主よ。お話ください。しもべは聞いております。」クリスチャンにとって、もっとも大切なのは神のことばを聴くこの姿勢である。ただサムエルの場合は、実際に音声として、彼の耳に神のことばは聞こえたのである。そしてさらに「主が来られ、そばに立って」(10節)とあるように、目に見える形で現れた。サムエルは自分の耳と目で神の言葉を受け止めた。
私たちの場合は、しばしばそうではないが、神のことばはすでに与えられている。つまり、聖書を通して神は語りかけておられる。大切なのは、神が意思し、語られる事柄がある、ということだ。主が語り、しもべが聞く、という図式である。一般に宗教というものは、神なるものを宥めて私たちの願いを叶えてもらおうとするもので、しもべが語り、主が聞く、聞いてもらう、というものであったりする。しかし、主権は主にある。神が私たちに、語ることがあるのであり、被造物である私たちはこれに聞かなくてはならない。
3.与えられた神のことば
サムエルが耳を傾けて聴いたことは、エリの家に対する神のさばきであった。しかし神の裁きは初めて語られたわけではない。すでに、「神の人」がエリのもとに遣わされ、エリの家が祭司職から退けられ、新たに忠実な祭司が起こされると語られている(27-36節)。サムエルに対する神のことばは、エリに対する二度目の警告である。「エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない」(14節)と語られる。神の厳しさを思わせられるが、ヘブルの著者も、「真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」(ヘブル10:26)と語っている。イエスの十字架の恵みは永遠に有効なものであるとしても、その恵みを拒み続けるならば、その他のいけにはありえない。パウロが勧めるように「罪に対しては死んだ者、神に対してキリスト・イエスにあって生きた者」(ローマ6:11)という自覚のもとに、神の恵みの中に生きることを願わなくてはならない。しばしば神のことばは、悔い改めを求め、さばきを伝える耳痛いものである。神の言葉を聞くというのは、自分の期待どおりのことばを聖書の言葉の中に探すのとは違う。ただ神は、人を愛し、善意に満ちたお方であることを忘れてはならない。神は上から、私たちの思いを超えて語られるが、それは聴き従う者を守り、救う恵みのことばである。
神は、聖書を通じていつでも語っておられる。サムエルのように心を開き、神が語りかけておられることを聞き分けるようにしよう。

サムエル記第一2章

2章 ハンナの祈り、よこしまなエリの息子
<要約>
おはようございます。ハンナとエリ、サムエルと、ホフニとピネハスが対比されるところです。またマリヤの賛歌の元となったハンナの賛美に、私たちの心は力づけられます。善意と大能に満ちた神の摂理的支配を信じるならば、何を悩むところがあるでしょうか。主を信じましょう。決して、主は人に借りを作らないお方です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ハンナの歌を巡る議論
 ハンナの歌は、ことに10節、イスラエルの王が存在する前に、「ご自分の王」について触れている点において、ハンナの創作であることが否定されてきた。つまり、ハンナの時代からから500年後、捕囚帰還の時代以降(第二神殿時代)の編集者がハンナのことばとして造った作品であると考えられているのである。
 しかし、ハンナの歌が古い時代のハンナの創作であろうことは、以下の諸点からも考えられることである。
 ①モーセの歌(申命記32:31,37)に置けるのと同じく、神を岩、あるいは「山」と呼ぶ
 ②詩の並行箇所において、類語ではなく、同一語の繰り返しが見られる(1,6節の「主」など)
 ③問題の10節は、ハンナの預言的洞察である。実際に、王に対する必要性は、既にモーセの時代に表明されていた(申命17:14)のであり、ハンナが、自分の息子の働きによって王朝時代が幕開けようとしていること預言的に語ったと理解しうる。
2.ハンナの主への賛美
では、ハンナの歌の内容を見てみよう。ハンナはまず主を賛美する「あなたに並ぶ者はないからです」(2節)、このような主の前に、人は遜らなければならない(3節)。私たちの神は、有を無とされるお方、逆に無を有とされるお方である。主に一切の権威が与えられている、この事実をハンナは認め歌い上げている。神はこの世界の摂理的成り行きを支配しており、善意に満ちた大能のお方である。この信仰に立つならば、ハンナのような「不妊の女」にも絶望はない。どうにもならない、と諦めるほどに決定的な成り行きになったとしても、可能性はある。主は「あくた」(8節)つまりは、町の外のゴミ捨て場に捨て去られるほどに困窮し、苦しみ、望みを失ったような者に栄誉ある地位を取り戻してくださる。たとえ「よみ」に下されたとしても、その死の領域から生へと連れ戻すことができるお方である。そしてどんなに固定されたと思われるような状況があろうともそれで終わることはない。主はそれをひっくり返すことができるお方である。そうであれば、自暴自棄にならずに主を深く信頼し、淡々とすべきことをしていくことが肝心だろう。主は勝利を与えてくださる。
 後にこのハンナの賛美は、マリヤの賛歌の模範となった(ルカ1:46-55)。そこには、時代を超えて、イスラエルの卑しい女に現わされた神のあわれみに対する同じ賛嘆の心が共有されている。
つまりハンナの祈りは、万人の祈りの型となるべきもので、実際ハンナは、個人の思いを越えて、弱き者、貧しい者の祈りと自分の祈りを重ねている。「主は聖徒たちの足を守られます」(9節)と他の信仰者への心遣いを持って祈っている。ハンナにとって、主はすべての者の主である。だから自身の経験は、同じような必要を抱えた他の人々のとりなしのために拡大されてゆく。子どもは、自分のことだけを祈るものだろう。しかし、大人になると、人と分かち合う心が出てくる。祈り手も成熟するならば、互いに祈りの経験を分かち合い、互いにとりなす思いへと押し出されていく。
10節は、既に述べたように預言的である。そういう意味で、私たちの祈りもまたしばしば預言的である。祈ったとおりに導かれていることがある。神は私たちの祈りを聞いているからだ。
2.エリの家族の物語
 さて、エリは非常に優秀な祭司であったが、子育てに失敗した。エリにはホフニとピネハスという二人の子どもがいた。12節を見ると、彼らは祭司の子どもであるにもかかわらず「よこしまな者たちで、主を知らなかった」。それで、彼らは、いけにえを献げているときに、三又の肉刺しで、肉を取り上げたという。これは行儀が悪いという以上に、聖なる儀式を卑しめる行為であった。いけにえの脂肪は主への献げものとして焼き尽くさなければならないが、食糧として分け与えられる部分もあった。しかしそのように正当に許されたものでは満足できず、暴力的に自由に選ぶことを強要した。そんな不遜な態度をとれたのは、まさに彼らが神を知らず、神を礼拝する心がなかったからである。だからさらに彼らは、宮に仕えている女性たちと寝るほど愚かであった。
エリが父親として彼らに行為を改めるように諭している。エリは決して養育を放棄したわけではない。よこしまな息子が神を覚え、神を信頼するように育てようとしている。彼は確かに親として、息子に言うべきことを語っている。しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった(25節)。これが一面である。だが預言者による神の評価は厳しい。「あなたは私よりも自分の息子たちを重んじた」(29節)と言う。神への冒涜を続けることを許した父親の責任を神は問われている。確かに難しい子育てはある。しかしそこに神の恵みを仰ぎ、神の業がなされるように心を砕き続けることが親の務めである。諦めてはならない。もちろん、自ら積極的に滅びを選び取ろうとする者を神は留めることができない。神の救いを拒むものを神は救い出すことはできない。しかし十字架にある罪の赦しの故に、神の大いなるあわれみを信じ祈り続け、期待し続けることは、真の信仰者としてなすべき務めであろう。
36節、エリの子孫についての預言は、ハンナが歌った逆転劇を認めている。最上のもので身を肥やした者が、パンのために雇われる逆転が起こる。たとえ貧しい者であれ、神を信じ、神に寄りすがる者こそ、幸いである。

1サムエル記1章

サムエル記第一1章 ハンナの祈り
<要約>
おはようございます。今日からサムエル記に入ります。まずは小さな家庭の物語から始まるサムエル記、ハンナの祈りに教えられます。大切なのは、彼女の熱心な祈りが聞かれた、というにとどまらず、彼女が祈りに対する神のあわれみを認め、そのあわれみに積極的に応えようとしたところです。神の恵みに対する応答が、私たちの生活の中に豊かにされますように。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.士師記からサムエル記へ
 ヨシュアの死後、約200年にわたって、士師と呼ばれる、カリスマ的なリーダーによって、それぞれ12の部族が統治される時代が続いた。モーセ、ヨシュアの時代、一つにまとまっていたイスラエルは士師の時代には、ばらばらであった。しかし、イスラエルはいよいよ統一王国時代に入っていく。そのような意味で、ヘブル語の聖書の元々の配列からすれば士師記に1サムエル記が続くのであるが、キリスト教の聖書では、ユダヤ人の王として生まれた方、キリストの先祖であるダビデの由来を神学的に示す意図があるのか、ルツ記がこの二つの書に挿入される。ただ、士師記から1サムエル記という歴史的な連続性という一貫性は、大雑把なものであり、実際にはこの書は、いきなりある一家族の小さな物語から始まるのである。国や民族の存続ではない。一人の女性の存続の物語から始まっている。
2.サムエル記の始まり、小さな家族の物語
彼女が祈ることは、軍事的な助けではなく、身ごもることであり、自分の私的な恥が雪がれることである。4節、いけにえを献げた後に、受ける分をそれぞれに与えた、というのは、交わりのいけにえの分け前のことであろう。神との交わりの回復を祝うこのいけにえの分け前は、ペニンナは子どもの分も、しかしハンナは自分の分のみ受けたのであり、その分け前ではしゃぐ子どもの声は、ペニンナがあからさまに意地悪をせずとも、ハンナに孤独を思い知らせるに十分なものであった。ハンナを愛していたエルカナはそのようなハンナの孤独を思い、5節、特別の受ける分を与えていた、というわけである。だがそのような思いやりは、返ってハンナには一層惨めな思いにさせるだけであった。空気を読めないエルカナの余計な気遣いというべきか。ハンナは泣いて、食事もとろうとしなかった。そして立ち上がった。
3.ハンナの祈り
彼女は自分の惨めな状況を、神が知っておられると考え、神が自分の祈りに応えてくださると信じ、主の宮で、祈る時を持ったのである。当時、それはシロにあったとされる。ヨルダン川の西側、ベテルの北北東およそ14キロの、1926-29年、デンマークの発掘隊が調査した現在のセイルーンの遺跡がその場であろうと考えられているが、その証拠も痕跡も発見されてはいない。
ともあれ、彼女はそこで取り乱し、祭司のエリが側にいたことにすら気づかずに祈りに集中していた。彼女は、神の恵みにただひたすらすがらざるを得なかったのである。だから彼女は、子どもが生まれるなら、それは祈りの答えであることを認めること、そして、それが主の恵みであるならば、それに応えること、つまり与えられた子を神におささげする、ことを誓ったのである。彼女が、真剣にそう考えていたことは、その言葉通りにしたことで理解されるところである。
他方側にいたエリは、初めハンナの状況を誤解したが、事情を理解し、「安心して行きなさい」とハンナを励ましている。祈り終わったハンナの顔はもはや以前のようではなかった(1:18)。この日を境に、ハンナの心には変化が生じた。その置かれた状況は何も変わっていないのに、である。抱えている問題は、一向に片づいていないが、心は定まり安らかにされ、期待と喜びを持ってこの先を受け止めていく心境に導かれている。彼女は自分の祈りが神に聞き届けられたことを、祈りの結果が出る前に悟った。まさに信仰を持つことはそういうことである。ヘブルの著者も語っている。信仰は「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる」(へブル11:1)と。そして彼女は確実に、神の恵みに応えた。それは、次章で見る、神の恵みを放縦に変えたエリの二人の息子に対比される姿である。彼女と彼女の意思を継いだサムエルにこそ、神はイスラエルのリーダーシップを委ねていくのである。
4.ハンナの物語が教えること 
ルツの物語に続いて、ハンナの物語は、これまでのモーセやヨシュアの物語に比べれば、完全に小さな片隅のお話である。しかし、神はそのような下々のことをも心に留めてくださるお方であることをまず教えられる。となれば、私たちの思いを素直に語ることに、どうして躊躇うべきであろうか。「どうせ私など」という自分のいじけた気持ちをそのまま素直にさらけ出して、「こんな私ではあるが、主の助けが欲しい」と祈るべきだろう。神は、片隅の祈りにも耳を傾けておられる。
また、自分が苦しいところから逃れられることを祈るだけであるなら、ハンナの祈りを手本とするまでもない。ハンナは祈りの実を主にささげている。初めに誓願した通り、乳離れ(三歳頃)した子を、主の宮に仕える者となるよう、祭司エリの教育に委ねている。つまり、彼女の祈りは、自己実現に終わる類のものではなく、自分の祈りに対する神の答えを認め、神の恵みに応答していくものであった。
何事にも段階を踏んで一層深い技能を身につけるように、祈りにも日々進歩する道がある。まずは状況が変わらぬ中で主にあって心定まり、安らぐ経験を持つ。さらには、祈ったことへの神の大きなあわれみを認め、それに応答する、いわゆる献身する心を持つ、より成熟した祈り手とならせていただこう。

ルツ記4章

4章 ルツの幸い

<要約>
おはようございます。ルツ記は何度読んでも感動的ですね。無力で何も持たないルツが、贖いの権利のあるボアズに信頼して、身を任せたところから、全てが逆転していく。まさに天のボアズである神のあわれみ、恵みを象徴し、物語る一書です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ルツの権利を守るボアズ
ルツの気持ちを知ったボアズは「あなたの望むことはみな、してあげましょう」と、レビラート婚と土地の買い戻しの二つの権利を守ろうとして動き出した。ただボアズは、自分よりも先に買い戻しの権利のある人にまず話を持ちかけた。そして土地だけではなく、ルツとの結婚もセットである条件を示している。土地だけであれば、いずれそれは自分のものになるし、耕作して収穫すれば得をする。しかし、ルツが一緒となると話は別である。土地のために大金を支払い、生まれた子に亡き夫の名を継がせて土地を返すことになる。何のメリットもない。しかもこの親類は、裕福ではなかったのだろう。彼は畑を買い戻すために、自分の所有地をそのために売らなければならなかったようである。つまり所有地は増加するのではなく、減少する、文字通り「損なう」可能性すらあった。また、当時のユダヤ人であれば、マフロンとキルヨンを襲った不幸は、律法を破って外国人の女を妻として迎えたことにある、となれば、自分がルツを妻に迎えるならば同じ運命になると考えもしただろう。そんなリスクは誰も負いたくはないものだろう。
そこで、買い戻しの権利のある人は、ボアズに権利を譲り、自分の履物を脱いだ。履物は、所有者の土地を踏む権利を象徴する。つまり、履物を脱ぐのは履物に伴うその権利を放棄することである。こうしてボアズは、買戻しの権利者として、エリメレクの家の存続のため、またナオミとルツの幸せのために、犠牲の多い結婚を承諾した。
2.祝福の祈り
ボアズの勇気ある決断に、町の長老たちが祝福を与えた。「ラケルとレアの二人のようにされますように」は子孫繁栄を意味するものだろうが、「タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」はよくわからない。ただしタマルの境遇はルツに似ている、そしてペレツは、双子で先に出ようとしたゼラフに割り込んで最初に出てきている。その後のユダ族の発展にしても、勢いのあるのはペレツ族であったようだ。そういう意味を汲めば、子孫繁栄を意味することばと受け止めることもできる。
3.ルツ記の象徴的な意味
ともあれ、ルツ記では、始まりと終わりの違いに注目させられる。ルツ記は不幸の悲しみで始まり、最後は幸福な喜びで終わっている。労苦から安息で終わっている。生活にも事を欠く日々から、安定した平和な生活で終わっている。まさに夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びがあったと言える。ルツが、神のことばに従うことが、そのような結果を生み出した。ルツが贖いの権利のある人、ボアズの下に、自分の希望の一切を託して、身を任せたことによって、その期待に優るものを得る結果に導かれた。これは象徴的である。私たちも、天のボアズに信頼し、一切の身を任せるなら、没収されていた地上の持ち物を買い戻されるのみならず、私たちは花嫁として迎えられ、彼の命、家庭、富、永遠の喜びに共に与ることになるだろう。キリストにあって、私たちは多くのものを受け継ぐのであり、神の祝福の計画が動き始めるのである。ルツには、はじめ信仰以外何もなかった。そしてその具体的な形は、真面目に落穂を拾うことで、生計を立て、姑のナオミと共に生き延びることであった。しかし、その結果は豊かに報われる生活であった。平凡な人物が神の配慮と導きの中に、忍耐と愛をもって小さな働きに精を出し、それによって救い出され、助け出されている。一羽の雀さえをも見過ごされない神であればこそ、このような希望がある。
3.ルツ記の新約的(予型的)な意味
ただ、この何気ない出来事、あるいははからずしての出来事は、実際には、キリストに至る系図が断絶するやもしれない極めて危機的な状況を回避するものとなった。つまり、ルツにはオベデが生まれた。「オベデ」は、「仕える者、しもべ」を意味する。そしてオベデからはエッサイ、エッサイからはダビデが生まれた。ボアズは、ダビデの曾祖父となり、さらにはイエス・キリストの先祖となる栄誉に与った。それは、アブラハム以来、イサク、ヤコブへと受け継がれていった神の救いの計画の伝達者となる霊的な祝福に与らせる栄誉であった。このように、ルツ記は、ダビデの系図の存続事情を明らかにし、サムエル記第一の前置きとしての役割をも果たしている。神ご自身の大きな計画の中で、私たち一人一人の幸せも形作られていることを教えられる。神のご計画は計り知れない。人はただ、自分固有の人生を生きるのではない。神が全人類に持っておられるご計画の一端を担うように生きている。自分の我欲を超えて、神の目的に生きる人生がある。

ルツ記3章

3章 ナオミ、ルツ、ボアズそれぞれの決断
<要約>
おはようございます。私たちが物事を進める場合、誠意が大事であることでしょう。思いはあっても、誠実さにかけた進め方は、百害あって一利なしです。そして、さらに大切なのは、神様が物事をどのように決着されるのか事の終わりを見守ることです。主が全てを良きにしてくださるからです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ナオミのルツに対する配慮
ルツがボアズの好意に与ったことを知ったナオミは、レビラート婚の権利に訴えて、ルツの将来を保証しようとする。レビラート婚は、結婚した男性が子どものいないまま死んだ場合のユダヤにおける取り決めで、死んだ男性の兄弟が寡婦を自分の妻としてめとるものである。ユダヤでは、このレビラート婚が寡婦の権利として法律的に認められていた。ただし、本来は、遠縁の親戚ボアズとナオミが適用対象になるのであるが、ナオミはこれを自分ではなく嫁のルツに適用しようとした。それはルツの今後を案じてのことなのだろう。「身の落ち着き所を私が探して」(1節)というのは、生活の面で落ち着く場所を探す、ことである。やもめの生活は不安定であり、保護のないやもめの運命は極めて厳しいものがあった。同じやもめで年老いたナオミは、ルツにより善い生活を望んだのである。
2.ナオミの助言とルツの従順
さてナオミは、ルツに具体的な指示を与えた。からだを洗い、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行くこと、ボアズが寝る時に、その足のところをまくって寝ることである。なぜこのような指示をしたのかわからない。ナオミは、ルツが受け入れられやすいように際どい求婚を命じたのだと考える者もいる。ただ、男性が自分の覆い、つまり衣のすそを広げて、女性を覆うことは、妻として了承することを意味した。古代のアラブではもちろん、今なおそういう習慣が残されているところもあるという。
ボアズはナオミに「あなたの今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています」(10節)と語りかけている。「先の誠実さ」は、ルツが夫の死後、故国を離れて異国の地まで姑のナオミに着いて来てナオミの生活を支え仕えたことを指している。「今回の誠実さ」は、彼女が貧しい者でも、富む者でも、若い男たちの後を追うのでもなく、自分の夫マフロンの名を相続地に残すために、かなり年上のボアズを夫として選んだことを指している。ボアズは家族を守ろうとするその誠実さを評価したのである。
3.神の導き、人の誠意、そして思い
ナオミにとっての懸念は、ルツの結婚だけではなかった。土地の買い戻しのこともあった。ナオミには働き手がなかったので土地を維持できなかったし、まとまったお金も必要だったのだろう。ユダヤには、人が貧しくなって所有地を売る場合、その親類がこれを買い戻すことができる買い戻しの権利があった(レビ25:25)。ナオミの願いは、ボアズがルツと結婚し、さらに土地を買い戻してくれることであった。そうすれば、ルツは夫を得て幸せになり、同時に生まれてくる子にエリメレクの名と土地を継がせることができる。ただ、ボアズはルツにとっても意中の人ではあったが、ボアズよりももっと近い権利を持つ親類がいた。買取の権利のある人との交渉は、4章に展開されるのであるが、ボアズは、筋を通そうとした。
ルツ記は、同時代の士師記の記録に比べると、人間の常識的な判断や考え方が大切にされながら物事が進んでいく。ある意味で誠実な物事の進め方が、読み取れる物語である。しかし、人間の誠意だけで物事がすべて動いていくわけではない。物事が誠実になされると同時に大切なのは、神が私たちの働きをどのように導いてくださるか、ということである。ナオミはルツに言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい」(18節)。物事はなるようにしかならない、という考えもあるが、物事はすべて神の導きによって決まって行く。だから、今手がけていること、懸案中のことがあれば、それがどうおさまるかわかるまで待つ、神がどのように働いてくださるかを見届ける気持ちを持つことが大切だ。今日も、あれやこれや、一つ一つの事柄に、神の業を見させていただくことに、心を向けていこう。