イザヤ書20章

「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年」(1節)イザヤ預言の第二部(13-23章)の歴史的背景を記す部分で、BC711年の出来事である。反アッシリヤ同盟に加わったアシュドデ(ペリシテの五大都市の一つ)は、アッシリヤに派遣されたタルタン、つまり王に次ぐ最高司令官の報復によって、滅ぼされてしまった。このときのアッシリヤの王は、サルゴン2世であったとされている。

そこでイザヤは、神に命じられたように、裸になり、はだしで歩き、エジプトに頼る事の愚かさを人々に伝える。「裸になり、はだしで歩く」これは、捕虜の姿をイメージさせる。エレミヤ(エレミヤ13:1-7)やエゼキエル(エゼキエル4:4-6)もそうであるが、しばしば主の預言者たちは、神のことばを自らの行動を通して目に見える形で表現した。いわゆる行動預言というものだが、イザヤの場合、これが3年間であるから、さぞ誤解され、気でも触れたと思われたことだろう。しかしその異様な行動を通して、「助けを求めて逃げてきた私たちの拠り所はこの始末だ」(6節)と、アッシリヤの攻撃を防ごうとエジプトやエチオピアに助けを求める結末の愚かさを語り伝えようとしたのである。

イザヤの預言は、BC669年アッシリヤの王エサル・ハドンによって下エジプトが、BC663年にアシュール・バーン・アプリによって上エジプト(エチオピア)が占領されることによって成就している。しかし当時、ユダ王国の人々は、エジプトが滅びるなど考えもしなかった。結局人生には、考えもしないことが起るのであり、私たちの人生の基盤が何にあらねばならないか、を教えられる。歴史の教訓に学ばなくてはならない。

私たちには、あらかじめ神が示された事柄を理解できない霊的な鈍さがある。どんなに目に見える形で、わかりやすく示されても、気づかない霊の頑なさがある。いや、語られている神のことばに耳を傾けようとせず、与えられている聖書を開いて読もうとしない愚かさがある。神のことばにはいのちがあって、これを求める者を裏切ることがない。しかし私たちの心は何よりも真っ先にそこへ向かおうとはしない。

神を信じることは、神の主権を認めることであるし、自分自身が神に造られた人間に過ぎない、とへりくだりの心を持つことである。また神を信じるというのは、いつでも神の権威を認め、神のことばに耳を傾け、神に従うことを選び取る人生を歩むことである。そのためには捨て去らなければならないこともある。諦めなければならないものもある。あるいは奮い立たなくてはならないこともある。だがそれは、最善の道であって、決して捕虜としての辱めを受けない道であることを忘れてはならない。神を畏れ、語られている神のことばにいつでも耳を傾け、目に見えるところよりも、神のことばが最善であることも信じ、従うことを第一として歩ませていただこう。

 

「イザヤ書20章」への1件のフィードバック

  1. 聖書通読で今日はイザヤ書の19から読んでいます。以前はサラッと流し読みにしていましたが、今回はもっと深く知りたくネットで検索してこちらを拝読いたしました。感謝です。悔い改めて主に立ち返り、砕かれた心をもって神様に従う大切さを改めて学ばさせていただきました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です