イザヤ書3章

日々何を頼りとして生きているだろうか。イザヤの時代は、自分のいのちの支えとして、軍隊、裁判官、預言者、長老、法律家、占い師、と様々なものが頼りとされた。しかし、1節、人が頼りにするものを、神は除かれるという。それは、まことの神を知るため、だれがあなたのいのちの支え手であるかを悟らせるためである、と。

神を支え手としないならば、期待はずれのことが起こるだろう。指導者を頼りにしても、神は真に知恵ある指導者を取り去られる。そして気まぐれで、中身のない指導者が代わりに与えられる。その結果、国は無政府状態となり、混乱に陥り、支え手であるものが支え手ではなかった、という苦渋を味わうことになる。真の支え手である神を頼りとしないならば、伴侶を与えられても、支え手としての伴侶ではない、教師を与えられても導き手としての教師ではない、ことになる。実に不幸ではないか。しかしこれらは皆、イスラエルが主にそむいたため、神を信頼しなかったからだ、という(8節)。自分で自分の滅亡を定めてしまったわけだ(9節)。

では、その様な状況にもう救いはないのか。イザヤは言う。「義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる」(10節)私たちは一度歯車が狂ってしまえば、もう先はないと思ってしまう。実際、どんなに自分の人生を修復しようとしても、益々坂を転げ落ちるのみで、回復の望みはどこにもないように思えてしまうだろう。厳然たる現実の前に、圧倒される思いで、頼りなき支え手に振り回されることになる。しかし、そのような絶望感を感じることがあっても、神を敬うならば、素晴らしい報いがあるという。そして神を退け続けるならば、それ相応の裁きがある。

問題は、苦難の中にあって、神を退け続けることである。人は徹底して神を信じることができない。順調な時はもちろん、逆境の時においては、苦しい時の神頼みとは言うが、実際には、神を信じることができずに、神に向かって毒づいてしまう。そうではなく、神を信頼し、神の義を願うならば、神は素晴らしい助けを与えてくださる。

一方、私たちが目を覚まさずに、世と世の欲と罪に浸りながら生きていくならば、蒔いた種を刈り取ることになる。13節以降は、そのような者たちへの神の裁きが語られる。神は支配者たちを裁かれる、「シオンの娘たち」は、当時、影響力をふるった罪深い女性たちのことなのだろう。神を覚えず、気の向くまま浪費三昧に生きた女たちを神は裁かれるという。彼女たちが、ネックレス、ブレスレット、香水など、どれほど身を飾りたてようとも、もはや男を引きつけることは出来ない。病に冒され、美しさは跡形もなくなり、夫も何もかも失われ、ただ恥辱と屈辱に泣き伏すだけであるという(16-26節)。

神は正しい方である。矛盾に満ち義は失われたと思う状況の中で、確かに正しい裁きを行われる。確かに、帳尻が合わされる。頼りとすべきものを頼りとする。神に立ち返り、神をこそ頼みとし、神の義を求めて歩む歩みへと導かれたい。

 

 

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