エレミヤ書12章

エレミヤの祈りは実に率直だ。11章のアナトテの人々の陰謀の出来事をきっかけとした祈りである。明らかな敵意を向けられて、彼は祈らざるを無い。「なぜ、悪者の道は栄、裏切り者を働く者がみな安らかなのか」(1節)。というのも、悪者は、まるで神様が保護し、祝福しているかのようにあらゆることに成功していく。しかも、彼らも、口では「神様感謝します」と言うが、その心は神様を信じているわけではない(2節)。脅かされている状況で、エレミヤは言う。あなたは私の状況をよく御存じです。彼らは、私をほふり場に引かれていく子羊のように扱いました(11:19)。そういう彼らを、それこそ「ほふられる羊のように引きずり出して、虐殺してくれませんか」(3節)と。実に率直だ。4節「彼は私たちの最期を見ない」ギリシャ語の七十人訳聖書では、彼を神と解している。神は私たち(貧しい者たち)を見捨てている、の意味なのだろう。こんな思いを抱くのはエレミヤだけではない。いつの時代にも起こりうる問題だ。ヨブもそうであったし(ヨブ記21:7)、またアサフもそうであった(詩篇73篇)。

5,6節は神の答えである。これまでの疑問、苦しみ、悩みは、徒歩競争のようなものだ。これからは騎馬競争になる。つまりほんの序の口だ、故郷のアナトテで不平を言っているような状況では、これからのエルサレム炎上ではどんなことになるのか、という。確かに、歴史は、悪者に向けられた神の裁きが、エレミヤの想像を絶していたことを証している。

7-13節を、エレミヤの嘆きと取るか、神の嘆きと取るか、難しいところである。新改訳は漢字の一人称を当て「私」としているから、エレミヤの嘆きと解している。つまり6節の「信じてはならない」に対して、エレミヤが応答し、アナトテの同胞と相続地を見捨てる歌を歌ったと解釈するわけだ。しかし、7節には「私の心の愛するものを、敵の手中に渡した」、10節には「多くの牧者が、私のぶどう畑を荒らし」とある。これは、エレミヤが自分の個人的な関係や、自分の所有地を取り上げて嘆いた、とするよりも、ユダとエルサレムについての嘆きと理解することもできる。つまり、6、7節で、さらに恐ろしい裁きが起こり、貪欲な権力者も大参事の瀬戸際にいる、と語る、神の嘆きそのものが語られていると読んだ方がよい。

神は裁かれないというのではない。むしろ「根こぎに滅ぼしてしまおう」(17節)と明言される。悪者に対する神の態度は一貫している。14節「悪い隣国の民」は、アラム、ペリシテ、アモン、モアブ、エドムのことである。アモスの預言と重なり(1-2章)、ユダもその隣国も、バビロンに捕囚の民として、根扱ぎに連れ去れると語っている。しかし15節、ユダは神のあわれみのうちに、捕囚から連れ戻されると語られる。その際に残される、あるいは救われるのは「道を良く学び、『主は生きておられる』」と誓う、信仰のある正しい者である。神は決して正しい者をないがしろにはされない。エレミヤの不平に応える神のことばの確かさに信頼することとしよう。

 

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