エレミヤ書8章

1節「その時、人々の骨を…彼らの墓からあばき」とは、死者に対する最大の侮辱である。死者の財宝を手に入れるというよりは、死者の体に侮辱を加える行為である。なぜそんなことがなされるのか、と言えば「彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象にさらす」(2節)ため。つまり、彼らがより頼んだ神の無力さと結末を周知させるため、である。

16、17節では、バビロン帝国の殺戮の激しさが語られる。ダン(16節)は、イスラエル最北端の町であり、バビロン帝国の脅威に真っ先にさらされた。死んだ者たちの墓まで掘り起こされ、生き残った者たちも徹底して殺戮される侵略と破壊が起こった。それは実際的に考えてみるなら、大変な恐怖である。今の平和な日本からでは、なかなか想像しようにも想像しえない情景だ。以前、ルワンダ内戦の映画を見たことがあるが、銃でも刀でもなく、なたで次から次へと人をなで切りにする恐怖が画面一杯に再現されていた。それは想像を絶する大量殺戮である。神の裁きとは言え、エレミヤが神に啓示された出来事が実際に起こるとしたら、誰がそれに耐えられることだろう。

だから、エレミヤも言う。「私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。」(18節)「私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。」(21節)。神に与えられた幻の悲惨さに、あまりにも悲しい思いになり、口もきけないほどである。裁きとは言え、それはあまりにも悲惨である。どうして神は、何かの手を打ってくださらなかったのか。どうして助けてくださらなかったのか。預言者エレミヤの苦渋が語られる。

裁きを執行する前に、何かの手を打って欲しい、そう願うのが当たり前のことだろう。しかし、「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。」(4、5節)。神は何もなさらなかったわけではない。その心に良心を与え、聖書を通じて警告も発してくださった。しかしそれでも、民が悔い改めなかった。そして、自ら神の裁きに飛び込んでいるのだ、という。

人間の愚かさが語られている。人間は、神との関係に理性を働かせることができない。全く正しいことに無感覚になり、悪の道に盲目的に突っ走っていく。それは、戦いに突入する軍馬のようである、という(6節)。また、鳥が自分の帰る時を本能で知っているのに、人間は本能すら失っている(7節)とする。人間の力では引き戻すことのできない人間の愚かさがある。21節は、預言者の悲しみが語られるところである。それは9:1のエレミヤの嘆きの独白に続いていくのであるが、預言者として語り続けても報われない、働きの虚しさ以上に、民が悔い改めずに滅びに突っ走って、失われていくことの悲しみを語っている。21節「傷つき」は、「破れ」を意味する。心が傷ついたではなく、破れたである。民一人ひとりをわが身のように思い祈り、とりなす、預言者の姿がある。

 

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