コリント人への手紙第二 13章

<朝のディボーション>
パウロは、コリントの教会を訪れようとしている計画について触れている。そして、自分がこれから直接会おうとしている、二種類の人々について、あらかじめ自分の訪問目的を伝えるのである。第一に、2節、罪を犯している人たちに対して(1-10節)、そして、忠実な兄弟たちに対して(11-12節)である。
 まず、コリントの教会には、聖書的に見て罪を犯していることがはっきりしている人たちがいた。分裂分派の問題あり、不道徳の問題あり、そして聖なる正餐の時をらんちき騒ぎにしてしまう問題があった。パウロは、そういう人々に、今度会ったら「容赦はしない」と語るのである。何か非常に厳しい言い方でもあるが、それは、主の教会を建てあげようとする、主に対する熱心さの故なのだろう。やはり教会というのは、暖かく受容力があっても、物事をいい加減にするようなところではない。何でも甘く受け入れて、OKではない。子育てにもメリハリがないといけないのと同じである。しかしどうだろうか。バプテスマを受けた、教会に長く通っている。しかし、自分が育てられる必要があると自覚をもって、教会生活を送っている人は少ないのではないか。そういうことをちゃんと意識していける人は、信仰を成長させる人になるのだろう。
 ともあれ、まずは乳飲み子のように食べること、愛情を受けることが仕事であるという段階がある。続いて、子供が小学校にあがるように、学ぶことが仕事という段階がある。みことばを食して、みことばを学び、信仰を深め、信仰を強くし神の働き人として整えられていく時期がある。そして、社会に出て行く段階というものがある。神さまの働き人として奉仕する者となってい段階である。いつまでも学んでいるわけではない。学ぶと同時に働いていくということである。そういう意味で、クリスチャンというのは常に、成長を続ける、立ち止まることはありえない。いつも神に向かって歩みを進めているのである。
パウロは言う。5節。「信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」毎週機械的に教会に通うだけの信徒になっている、ということはないか。あるいは、自分の都合に合わせて、教会に足を運ぶだけの信徒になってはいないか。信仰を持つということは、キリストに従うことであるし、キリストと共に生きることである。そして霊的に成長していくことである。食べる者から学ぶ者、そして奉仕する者として強くされていくことである。
<夜のディボーション>
 「あなたがたがそれに不適格であれば別です」(5節)。つまり、神の子として、食べる者から学ぶ者、そして奉仕する者という成長路線にいない人、そういうこととは関係がない人、つまりパウロのことばでは信仰に不適格である、そういう人であれば別であると。ただ、バックスライドしているのではない、もともと信仰とは関係がない世界の人であるなら、それは別だ、そういう不適格な人でないことを望んでいるということである。
 イエスは、毒麦とよい麦とのたとえ話をしている。また終末には羊とやぎの群れが区別されることを語っている。クリスチャンもいろいろ。神様としっかり向かい合い、キリストの弟子として歩んでいる人と、そうではない人がいる。神様を信じているといっても、その中身は違うことがある。たとえばキリスト教の異端であるエホバの証人の方たちも、自分たちのことをクリスチャンであるという言い方をするが、その信仰は全く違う。同じことばを使いながら、中身は全然違うことがある。信仰は吟味されなくてはならない。リビングバイブルで5節を読んでみるとこうある。「よくよく自分を吟味しなさい。ほんとうにクリスチャンだと言えますか。クリスチャンとしてのテストに合格していますか。自分の内に住まれるキリスト様と、そのあふれる力とを、いよいよ強く実感していますか。それとも事実とは裏腹に、ただクリスチャンのふりをしているだけですか。」
クリスチャンのふりをしている、クリスチャンとしての体裁をつくろっている、そういう信仰の不適格者の人は、別。そういう人には成長しなさいとは言わない。成長路線に戻りなさいとは言わないということである。確かにキリストの弟子となる決心をしてもいないのに成長もなにもない。キリストと共に生きることを決意している人なのかどうかを吟味せよというわけだ。
 最後に、11節。パウロは忠実なクリスチャンたちに向けて語っている。喜びなさい。なぜか?私たちは神を信じる者だからである。天地万物をお造りになり、この世界を支配しておられる神を信じる者だからである。パウロは、この神が味方であるならば誰が敵対できようかと言う。実に、私たちはどんな時にでも、喜ぶ理由がある。前向きに物事に向かっていく理由がある。そういう意味で、あなたはクリスチャンなのだから、喜びなさい。神を信じている者らしく、何事にも喜びを持ってあたっていきなさい、という。
そして第二に、完全な者になりなさいという。信仰を完成させなさい。食べる者から学ぶ者、そして奉仕する者となっていく。やはり、いつまでも食べているということは異常だ。いつまでも学んでいるのも健全ではない。奉仕する者となっていく。
そして第三に慰めを受けなさい、という。信仰者として成長するためには、やはり神さまに支えられるということが必要。神さまの慰めを受けながら、強くされていく、というのが本当である。実際、信仰者として歩むことは試練の多いことである。長い試練を通らされることもある。そういう時にどうするか。だいたいは人の家を歩き回って慰めを求める。電話やメールで誰かに慰めを求める。そうではない、神さまから慰めを受けなさい、とパウロは言う。わたしは信仰の成熟の証拠は、その人が何に支えられているかにあると思う。成熟した人は、直接聖書から慰められる、神さまに慰められる人である。
第四に一つ心になりなさい。私たちの中には協調性を学ばなくてはならない人もいるだろう。やはりその人の性質というものが、教会の奉仕の中で、出てくる。何につけてもまず反対せずにはいられない人というものはいるものである。しかし霊的に成熟すると、物事を建設的に話せる人になっていく。もちろん、反対しなくてはいけないこともある。しかし、たとえ反対するにしても、物事を建設的に進められるように関わっていくというのが、クリスチャンのあり方。ただ反対意見だけを言うなら子どもでもできる。しかし大人は、物事をさらによいものにするために反対意見を言う人である。
そして最後に平和を保ちなさい。トラブルを持ち込まないということだ。教会は、人間の集まりだからトラブルはつきものだ。しかし、トラブルが起こったら、それをますますひっかき回してしまうのではなくて、回復させる方向へと動いていく。
このように努めていく教会に、愛と平和の神はとともにいてくださるという。神がともにいてくださる教会でありたいものだ。そして神の御業を確かに見ることのできる教会とならせていただこう。

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