ホセア書10章

1節「イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多く実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。」何もかも自分の思い通りに行く時には、神など求めない。神とは何物だ、とすら思うものではないか。しかし、人間がひと度何も持たない、無力な造られた者に過ぎないことを謙遜に自覚させられるなら、神に心の目が注がれる。「悲しむ者は幸いです、その人たちは慰められるから」(マタイ5:4)とあるように、苦しみは災いではなく、永遠の神を見いだすことにおいて、幸いなのである。

ホセアがこの言葉を語ったのは、物質的には豊かではあったが、宗教的な堕落がひどい時代であった。ホセアは言う。「彼らの心は二心だ」(2節)世の楽しみに浸り、真にその楽しみを与えてくださるお方が忘れられてしまった時代である。神は私たちが楽しむように、と世にあるものを造られた。大切なのは世にあるものではなく、備えてくださる神である。神をないがしろにして、私たちの幸せもない。それがわからないようであれば、神はこれを取り去る以外にない。またこの時代は、王の暗殺が相次ぎ、政治的にも不安定な時代であった。おそらく、ペカ王が暗殺された北王国末期のことなのだろう。だから、3節、「私たちには王がない」という民の声が取り上げられる。結局、主を認め恐れることがなかったために、日常の安定を保障するはずの国家体制も揺るがされていたのだ。有能な指導者が必要だ、と言われるが、指導者を立ててくださるのも神である。

神を覚えず、偶像に走るイスラエルの民にさばきが語られる。5節、「サマリヤの住民は、ベテ・アベンの子牛のためにおののく」彼らが拠り所としていた偶像が、彼らの災いとなる。

9節以降、ホセアは、イスラエルの民に馴染み深い歴史的な事件、ギブアの罪を取り上げる。それは士師記19章に描かれている、ちょうど、「イスラエルに王がなかった時代」の出来事である。彼らは「イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない」(士師19:30)と悪を取り除こうとした。神の裁きも同じであるとする。

神の期待は、「正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」に要約される。パウロは、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」(ガラテヤ6:5-8)と語った。

大切なのは、日々、自分の生活の中に、豊かに備え、祝福してくださる神を認めていくかである。神を恐れ、正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れるならば、神が、報いてくださる。神が環境を整え、私たちを引き揚げてくださる。主を覚えて歩ませていただこう。

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