ホセア書9章

ホセアは「イスラエルよ」と呼びかける。おそらく秋の仮庵の祭の時である。ホセアはイスラエルの国全体に語り掛けた。イスラエルの国全体が、神に対して心を閉ざし、異教の神に仕えた、それがそもそもの問題であったという。彼らは、カナンの土着の宗教であるバアル礼拝に傾倒した。それは、豊穣の神、バアルへの信仰が、今の自分たちの幸せを保障している、と考えたからである(1節)。しかし、神は、それは偽りの繁栄であるという。まことの神であるご自身を認めないイスラエルに「実りはない」と語られる。「麦打ち場も、酒ぶねも彼らを養わない。新しいぶどう酒も欺く」(2節)。バアルが与えると期待するようなことは何も起こらない。むしろ凶作となり、外国の侵略によって収穫は踏みにじられる、と。確かに、天地を創造し、この時代と歴史を支配する神が主権をもってそう語られるのなら、そこに何の希望と祝福があるだろうか。

3節以降は、その捕囚の宣告、裁きの宣告である。神に背いて、バアルを礼拝した罪のために、彼らは、捕囚の地で、「汚れた物」を食べることになる、という。彼らは自分たちが忌み嫌うものを食べなくてはならない、ということである。また、礼拝を正しく行うことができなくなる。もはや供え物のパンを神殿に持ち運ぶこともなく、パンはただ、食べるためだけのものとなる(5節)。そしてイスラエルはエジプトの有名な埋葬地の一つ、も賦のようになる、と言っている。結局、彼らから主の礼拝は永遠に失われてしまうのである。

7節、「刑罰の日が来た、報復の日が来た」「来た」は完了形である。将来確実にその日が来る、ということだ。警告に耳を貸さなかったイスラエルにアッシリヤ捕囚が迫っていた。

10節以降、後半は、イスラエルの背信の歴史を振り返っている。神は、イスラエルにいつも期待を寄せていた。「荒野のぶどうのように」「いちじくの木の初なりの実のように」見ていた、という。しかし、彼らは偶像の神バアルを愛し、イスラエルをまことに守る方、支えられる方に目を向けようとしなかった、と断罪する。だから、「エフライムの栄光は鳥のように飛び去り、もう生むことも、はらむこともない」という。

14節は、ホセアの祈りである。「はらまない胎と、乳の出ない乳房を彼らに与えてください」不幸を祈願するホセアの祈りは理解しにくい。しかし、警告に心を閉ざし続けてきたイスラエルが、今、飢饉と家族への災いによってバアル礼拝の虚しさを悟り、神に立ち返り、さらに悲惨なアッシリヤ捕囚へ進むことがないように、という思いを込めた祈りである。だが神の決断は、収穫の祝福もあり得ないし、国の存続もあり得ない、と手厳しい。捕囚は避けられない、とホセアは断言する(17節)。

私たちは誰もが幸せになりたいと考えている。しかし、天地創造のまことの神を認めないところに、真に持続可能な幸せはありえない。すべての祝福の根源である神を認めずに、私たちが何かを築こうとしても、それは砂上の楼閣のごとく、不安定なものである。真の神を認めること。もしそのように生きていないのならば、真に悔い改めるべきこと、それが、私たちの祝福を確かなものとする。キリストの十字架にある罪の赦しに立って、神のあわれみは深いものであることを、今日も覚えて歩ませていただこう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です