マタイの福音書 08章

マタイは、5-7章でイエスのメッセージを取り上げる。それは、王国の倫理である。8-9章においては、イエスの業(奇跡)を取り上げる。王の力を示すものである。8章では、イエスの5つの業が手早くスケッチされている。
 まず、何よりも注意を向けられるのは、この偉大な王は、ご自分の民一人一人と向かい合われる、ということではないか。ご自分の王国の民を十把一絡げに扱われるのではなく、一人一人と向かい合われ、その必要に耳を傾け、その必要を満たそうとする。
 だから「多くの群衆がイエスに従った」(1節)という状況の中で、ツァラアトに冒された人がみもとに来てひれ伏して言うと、これに耳を傾け、その必要に応えられようとするのである。またカペナウムに入り、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願すると、その声に耳を傾け、その願いを聞かれるのである。さらに、ご自分の弟子のしゅうとめが熱病に伏しているとなれば、その家で、病人を癒されるのである。
 マタイは、これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった、という。つまり、イエスが旧約聖書に約束されたメシヤであることを、示している。だからイエスは、単なる魔術師としてではなく、「風や湖までが言うことをきく」(27節)人として描かれる。また、「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか」(29節)と悪霊に語らせているように、終末においてサタンの業を打ち滅ぼす「神の子」(29節)として紹介されるのである。イエスには、単に素晴らしい力、恐るべき力があるというのではない。イエスは神の子であり、ご自分の被造物を支配し、また人間の力の及ばない目に見えない霊の世界をも、また神の永遠の時の流れからすれば一時である今の時のすべてを握っておられる、いわゆる万物の支配者であり保持者であることが語られている。
 だからこそ、この方に対する信仰は、究極的な解決になるのであり、この方の前に信仰を持って進み出る者は、その解決を得る、ということなのだろう。
百人隊長は、13節。「あなたの信じたとおりになるように」と語られている。信仰というのは、神の言葉に対する信仰である。神の約束を信じる信仰である。神を信じたって何もならない、信仰を持ちながらそう思うこともあることだろう。しかし、そのようなときには、私たちは、神の約束のことばを忘れている。「おことばを下さい」(8節)という神の言葉への率直さを失っている時である。ある人には明らかに信仰がない。また信仰が薄い、と言われるような人もいる。しかし、信仰がないというのも薄いというのも変わらない。大切なのは、神の約束のことばを確かとみなし、これにより頼む信仰を持つことである。それがたとえ小さなものであれ、神はこれを偉大とみなされる。試練にある時にこそ、私たちは信仰を働かせなくてはいけない。いや、そんな時でなければいつ信仰を働かせる機会があるだろうか。もうだめだ、もうどうしようもない、そんな風に思える時にこそ、信仰は、究極の解決手段として選択されるものとなる。
私たちの人生は、しばしば順風であって、毎週日曜日に礼拝に通うだけで、特に不足することもなく、心配事もなく、人生を歩んでいけるということがあるかもしれない。いわゆる迫りのない人生というものがあるかもしれない。しかしそれでは、「あなたの信じたとおりになるように」ということばも迫ってはこないだろう。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」という神に対する迫りもありえないだろう。神を信じていくということは、私たちの生活の場で何事かが起こってくるということである。今日も神に対する信頼を明らかにする、そんな歩みを導いていただこう。

「マタイの福音書 08章」への1件のフィードバック

  1. 何日か聖書を読まずにいると、神様のお言葉から遠ざかってしまうように思います。
    神様は、どんなときでも、私たちに必要なものを備えていてくださり、そして祝福してくださる存在ですが、決してそれを軽視するようなことがあってはいけないと改めて思います。神様の言葉をしっかりと受け止めて、今日も生きて行きたい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です