マタイの福音書 10章

 「イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。」王国の倫理を教え、王の権威を語った後に、マタイは、王のしもべたち、働き手について語る。すでに、「収穫の主に、収穫のための働き手を送ってくださるように祈れ」(9:38)とマタイはイエスのことばを記録しているのだが、その働き手は何をするのか、どういうものなのかを説明する。
彼らの使命は、まず何よりも、「汚れた霊どもを制する権威をお授けになり、霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいや」(1節)し、「天の御国が近づいた」(7節)と宣言することにあった。明らかにこのしもべたちの使命は、霊的な事柄にあり、終末を意識したものである。使徒の働きはまさにその働き手たちの活動の記録というべきだろう。選ばれた12人は、漁師、取税人、熱心党員と背景は様々であるが、イエスの弟子であるということで一つなのである。
そこでまず彼らは働きの考え方を説明されている「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」この働きは奪う働きではない。自己利益を追求する働きではない。与えるものであり、祝福を祈るものである。イエスの弟子になり、働き人になるということは、完全にこの世的な発想から抜け出さない限り、何をやっているのかわからなくなるようなところがあるのではないか。神が与えてくださる。その恵みを分かち合う。それが原則である。
そして与えるに豊かな神は、常にご自身の働き人の必要を満たしてくださるお方である。神が私たちの後方支援となってくださる、ということだろう。そういう感覚がないと、福音宣教の働きを続けることはできない。つまり、神があらゆる必要を満たしてくださる、ことを信じることによって出来る働きである。
また第二に、この働きは祝福を与える働きではあるが、人のよさが売り物の働きではない。「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(16節)「人々には用心しなさい」(17節)とあるように、弁えを必要とする働きである。確かにすでにイエスは、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」(6節)と警告している。私たちは、「狼の中の羊」(16節)にたとえられ、私たちのなすことは、「剣をもたらすこと」(34節)、「十字架を負うこと」(37節)にたとえられている。イエスの弟子であるということは、安易に考えてはならないのだろう。それなりの覚悟をもって、またそれなりの意識を持って臨まなくてはならない働きである。
最後に、神は、そのような働きに携わるに、恐れる必要はない、と語る。確かに与えられる働きであるのだから、どのような事態においても、神は知恵をも、必要な物をも、また必要な人間関係をもつなげてくれるだろう。神を畏れていさえいれば、何事も畏れるには足りない。神はご自身を畏れる者を、ちゃんと心にとどめていてくださる。神が私たちを「たくさんの雀よりもすぐれた者」とみなし、今日も配慮と導きを与えてくださることを覚えて歩ませていただこう。

「マタイの福音書 10章」への2件のフィードバック

  1. 私たちのなすことは「剣をもたらすこと」という意味がすこし難しく感じました。信仰を持つこと、神様を信じることで、そうではない人と敵対するということでしょうか?

    そうだとしても、私は神様を第一に愛する人でありたいです。

    1. 結局、信仰というのは神の存在を認め、神に従って生きることです。神は漠然とした存在ではなく、人格を持っておられる。意思を持ち、考えを持っておられるお方です。となれば、そこに、神の最善に従う決断を迫られることもあります。しかし、人間というのは、限界のある者ですから、神の最善に従うことが必ずしも良いとは思えないこともあるのです。それは、剣として感ぜられるのではないでしょうか。エルサレムのビア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれる、イエスが十字架に辿られた道の最後の方に、聖墳墓教会がありますが、その中に、胸に剣を刺し通されたマリヤ像が祭られています。十字架を受け入れることは、イエスはもちろん、母マリヤにとっても、剣をもたらされることでした。それは、イエスの十字架の意味を理解し、受入れようとする私たちにとっても同じです。私たちが自分たちの自己中心な罪を認めることは、剣を胸に受けるに等しく、そのような時をもたずして、キリストの十字架にある罪の赦しを受けることもできないのです。そういう意味では、福音は十字架の恵みを語るものでありながら、全ての人に、自分の心を精査し、刺し通し、深い悔い改めを促す剣をもたらすものです。ある人々は、そこで神の剣を素直に受けて、新しい人生へと歩むのでしょうが、ある人々は、自己中心さを認められず、捨てられず、その剣を拒否することになるのではないでしょうか。しかし、その剣を受ける第一歩なくして、いわば神の御前に遜り、自らを罪人と認めることなくして、人間的な成長もありえないと言えるでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です