マルコの福音書12章

イエスの宮清めの事件の後、祭司長、律法学者たちは、イエスを殺そうと考えるようになった(18節)。イエスは、たとえをもってその心を指摘する。ぶどう園の農夫の物語である。農夫が遣わしたしもべたちは、これまで旧約聖書の時代からバプテスマのヨハネまで、遣わされてきた預言者たちのことである。ユダヤ人は、預言者を受け入れず、悔い改めようとしなかった。むしろ、エリヤやエレミヤの例に見られるように人々は預言者たちを捕らえて辱め、打ちたたき、これに従おうとはしなかったのである。愛する息子は、イエスご自身を指している。つまり、このたとえは、イエスの受難を予告しているのである。そして、続く律法学者との問答において、イエスは単にこれまでの預言者たちと同様に扱われるのではなく、神のいけにえとして受難することを語っている点に注目すべきである。イエスの死は、単なる妬みや敵意によるものではなく、神のご計画であり、目的であった、ということだ。というのは、ユダヤ人が祭壇にささげるいけにえは、傷のないものでなければならなかった(出エジプト12:1-8)。そこでこれらイエスを罠に陥れるための問答は、イエスが十字架にささげられるべく傷のない神の小羊であることを証していく。

こうして「カイザルのものはカイザルに、そして神のものは神へ」「神は死んだ物の神ではない」「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という名言も残されることになる。このような方が十字架にかけられたのである。律法学者たちの質問に応えて、イエスが結論づける。「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのだろうか」(37節)つまりメシヤをダビデの子と理解するだけであっては不十分だということだろう。ダビデ自身が、自分の子孫から出るキリストを主と呼んでいる。来るべき方は地上の権力を超越したお方なのだ。つまりは、この地上の政治的な救い主という以上の意味を持つ、まさに、全歴史の万民の救い主であると言っている。イエスの十字架は、単にこの時代の陰謀による事件だったのではなく、神の小羊を永遠の罪の赦しのためにささげる神のご計画だったのだ、という点をよく理解するようにしたい。

ところで、当時パレスチナは、ローマの支配下にあり、三つに分割統治されていた。北側のガリラヤとベレヤ、東北のバシャン、そしてユダヤとサマリヤである。それぞれの地方を、ローマ皇帝に任命された3人の王が統治していた。ところが、ユダヤとサマリヤを任されたアケラオ王は、能力不足で、結局、この地方だけは、ローマ帝国の直接統治区域とされていた。そしてユダヤとサマリヤの地方は、特別に軍隊が駐留し、この地方に課せられる税金も、ローマ皇帝(カイザル)に直接治められていたのである。このような税金制度に、強く反対するユダヤ人グループがいる中で、イエスに「カイザルに税金を納めるべきか納めるべきでないか」という質問が発せられたのである。しかしイエスはこの質問を上手くかわしたばかりか、カイザルの支配が及ばないもう一つの世界、天地万物をお造りになった神の支配の下に私たちがあることを明確にしている。私たちは、目に見える世界だけで生きているのではない。はっきりと神の支配の中にも生きていて、神の恵と義に養われて生きている。人間として生きることは、目に見えない神の前に生きることである。

「マルコの福音書12章」への1件のフィードバック

  1. 農夫が預言者のことを指していると気付かなかったので先生のブログを読んで納得しました。私たちは目に見える世界だけで生きているのではなく神様の支配下にいるということが心強く感じました。

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