ヨハネの福音書2章

イエスが生きていた時に、イエスがなさろうとしていたことを正確に理解していた人はいなかった。イエスの十字架の救いが、すべての弟子たちに了解されたのは、イエスが復活した後のことである。「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(22節)と聖書を回顧的に書き進めている。

そこでヨハネは二つのエピソードを取り上げる。水をぶどう酒に変える奇跡。イエスの生涯の中で最初に行われた奇跡である。そして一般に「宮清め」と呼ばれている事件。イエスが神殿で商売をしている人たちを追い散らした事件である。

まずカナの婚礼の話であるが、ユダヤの結婚式は盛大に行われ、その宴会は一日ばかりか1週間続くこともあったという。この婚礼で、ぶどう酒が足りなくなる不測の事態が生じてしまった。それは、イエスの一行が、この婚礼に余分な客として招かれていたためであったのかもしれない(2節)。イエスの母マリヤがイエスにぶどう酒を求めたのは、主の能力にマリヤが個人的に気づいていたこともあったかもしれないが、この事態がイエスの責任であると感じていたこともあったと考えられる。

イエスはマリヤの求めに応じられた。この水瓶の水はユダヤ人が手を洗ったり、また、食器を洗ったりするためのものであった。80リットルから120リットルの水瓶が6つ。おおよそ2400人分のぶどう酒にこれが変化した。そのスケールの大きさものみならず、水がぶどう酒に変わった質的変化に注目すべきである。11節にあるように、このしるしによって弟子達は信仰を持った。それは、ただ単にしるしを見たというよりも、ぶどう酒に変わった水を味わいながら、そこに物事の本質を変える力を持つ神の存在を感じたからであろう。自分たちとともにいるのは、全能の神である、そのような確信に弟子たちは満たされたのである。私たちの人生も、水瓶の中に閉じ込められた味気のない水のようなものかもしれない。しかし、イエスが私たちの人生に触れてくださると、それは、水瓶から自由に流れ出し人々を潤す人生へ変えられる。神の力に変えられる人生がある。

次に、イエスは、神殿の両替人や商売人の店を蹴散らす大変な騒動を引き起こされた。イエスは、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と語られた。本来、いけにえの動物は、遠方から来る巡礼者の便宜を図って売買された。それがいつの間にか金儲けの手段となり、普通の値段の10-12倍の値段で売られていたのである。神の神殿は、こうした腐敗と、あくどい商売の横行する場となっていた。そして、そこでは形骸化された礼拝が行われていた。だからこそ、その宮は裁かれなければならなかった。パウロは神が、私たちの身体、そのものを神殿とされていることを語る(1コリント6:19)。だから私たちも、自分自身の在り様に注意せねばならない。イエスキリストは単に、両替人たちのテーブルをひっくり返したのではなく、彼らの精神的な価値観や道徳観をひっくり返したのである。そしてそこで真に悔い改めて、自分の行いを新しくしようと決意する者に、神はその祝福を注がれる。水を最高級のぶどう酒に変えたその力でもって臨まれる。イエスの力に触れられる一日としよう。

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