ルカの福音書 19章

 19章は、エルサレム入場に至る記事となる。
 エリコの町に、イエスを一目みたいと思う男がいた。取税人のかしらで金持ちのザアカイである。一見舞台も代わり、新たな章立てになったようにも思えるのだが、18章の金持ちの話に続く内容を持っている。イエスは「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」(18:24)と語った。しかしそれは、全く不可能ではない。裕福な者が神の国に入る一例が取り上げられるのである。「人にはできないことが、神にはできるのです」(18:27)と言われることが起こる実例が取り上げられる。
 ではそれは、どのようにして起こったのか。5節、寂しい自分の心に注目してくれるイエスに出会うことによって起こるのである。嫌われ者の自分など見向きもしないだろうと思っていたそのザアカイにイエスが目を向け、イエスが自分を知っていてくださったという現実に触れて、起こってきたことである。
 私たちの心に大きな変化が起こるのは、私たちを心から心配してくれている人に出会った時ではないだろうか。深い人間関係ほど人を癒やすものはない。同じように、目には見えないが、私たちの存在を心から心配し、私たちのために最善をなす神を知ればこそ、私たちはこの世のものに執着する心から解放されていく。なぜ物やお金に執着するのか。それは確実に私たちの心を満たすからである。しかし、それは満たすように見えるだけであって、人の心の奥深くを癒やすものではない。物やお金はあくまでも代用品であって、ただ、神だけが満たす空白を人は持っている。
 「ザアカイ、急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(5節)。イエスのことばがザアカイに大きな変化をもたらした。そして、彼は、自分の財産を捨てるのである。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(8節)。律法では、だまし取ったものは2倍にして返すことが定められている(出エジプト22:7-15)。しかしザアカイはそれをさらに2倍にした。財産を捨てるということはそういうことであろう。先の若い青年は何もかも失うことであると考えたようであるが、ザアカイは、神が要求することに答えたのである。神は、私たちに悔い改めと変えられた生活を歩むように期待されているが、私たちの心をねじ伏せてまでも、また私たちのものを身ぐるみ剥いでまでも、その要求を突きつけられるお方ではない。しばしば教会では10分の1献金という言い方が誤解されやすいが、しかし、それもまた、10分の1を神におささげするということは、それだけでよいのか、というところではないだろうか。
 何よりも、神が私たちの友となり、私たち共に歩むことを拒まれない。いな、むしろこれを積極的に喜びとする、という現実に立てば、私たちは神以下のものは捨てられるのである。そして私たちに与えられているものは、皆、正しく管理し用いるべきことを教えられるのである。11節以降のミナのたとえは、明らかに、ザアカイのレッスンの補足である。
「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった」(12節)。読者がユダヤ人であれば、この物語に一つの歴史的な事実を思い起こしたであろう。それは、ヘロデ大王が紀元前4世紀に死んだ時のことであるが、彼は息子のアケラオスにユダヤを遺している。アケラオスは、相続を承認してもらうために、ローマへ行かなくてはならなかった。ユダヤ人はアケラオスが支配者となることを望まず、カエサルにこのことを上申するために15人の使者を派遣したのである。結局カエサルは、アケラオスに「王」という称号なしに、相続を認めた。イエスのたとえは、当時の身近な話題を例に語られている。そして、イエスは、この話題に重ねて、イエスの昇天から再臨にいたるまでの終末的なスケールの大きさの中で、イエスを王としてみなす人々が担うべき忠実さの問題を語られるのである。
 それぞれ3人のしもべは、同じ額のお金1ミナを預けられている。それはローマの貨幣で100デナリ、1デナリは一日の労賃に相当するから、1ミナは、約3か月分の賃金ということである。それは、マタイの福音書に書かれているタラントのたとえに比べれば(18:23-35)それほど大きくはない。1タラントは60ミナに相当するから、少額であると見なされることもあるだろう。しかし王は、三人のしもべにそれで商売せよ、つまりお金を仕事に生かして利益をあげよと命じた。重要なことは、自分たちが与えられた以上のものを主人に返さなくてはいけない、ということである。任された者の忠実さが問われるところではないだろうか。
 ところで、10人のしもべのうち、報告を受けているのはたったの3人。最初のしもべは10ミナ、次のしもべは5ミナ、いずれもその働きにしたがって報酬を受けている。これらの者は忠実に働きを行った。報酬の約束もされていないにもかかわらず、また主人が帰ってくるという保障もなしに。他の7人はどうしたのか。おそらく報告すべき成果もなかったので現れなかったのかもしれない。しかし10人のうち、少なくとも1人は、明らかに主人に従わず、その結果持っているミナまで取り上げられてしまうのである。機会を浪費する、ということは、報酬を失うことである。仕える特権を失うことである。もし、私たちが神に与えられたものを生かさないのならば、それを持っている必要があるだろうか。神は、もっとそれをよく用いる人へと譲られるのである。いわば、自ら捨てるのではなくて、神に剥ぎ取られるということが起こる。
 問題は、このしもべは、自分の主人に対する不信感に満ちていたことだろう。そして自分を守ることに汲々としていたことではないか。裕福な者はしばしばそうであったりする。人も神も信じない。そして持てるものを正しく管理し、用いることを知らない。むしろ少しでもそれらが自分の手から離れていくことを恐れるのである。
今私たちは、ルカ19:14-15の間の時代に生きている。ユダヤ人はイエスが十字架につけられる時に、この者には王にはなってほしくないと叫んだ。しかし、その後イエスは天に戻られ、再び来られると聖書は語る。イエスが王位を受けて帰ってきた時に、つまりイエスの再臨の日まで、私たちは与えられているものを正しく用いて、それで商売するように、つまり、有効に活用するようにと期待されている。パウロは「管理者には、忠実であることが要求されます。(Ⅰコリント4:2)」と語った。私たちの上におられる神を覚え、神に委ねられたものを正しく用いる者であろう。富は、神との関係にあって、生かすべくして捨て去るべきもの、いわば投資すべきものである。

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