出エジプト記4章

モーセは、イスラエルの解放者として召されたが、神の前に、戸惑い続けていた。40年前のモーセとは違っていた。当時の彼は、自分がイスラエルを救うのだ、と考えていた。しかし、今の彼は、そんなことはできっこないと考えている。モーセは多くの言い訳をし、この責任を逃れようとしていた。

そんなモーセに、神は、三つのしるしを与えられた。杖、ツァラアト、そして水のしるしである。古代近東で蛇は、知恵、豊穣、癒やしのシンボルであり、礼拝の対象でもあった。杖を蛇に変え、その蛇を操るのだから、第一のしるしは、神が、モーセにエジプトの力に打ち勝つ力を与えたことを意味している。次にツァラアトに冒された者は、イスラエルの交わりから断ち切られた(レビ13:45,46 )。だから第二のツァラアトのしるしは、イスラエルを支配する力が与えられたことを意味する。第三の水を血に変えるしるしは、十のしるしの最初のしるしとして行われた。エジプト人は、ナイルの水を神とし、これに頼って生きてきたのだから、このしるしは、パロとエジプトの神々を討ち滅ぼす力が与えられたことを意味する。しかしそれでもモーセは動こうとしなかった。これらはモーセが、神に遣わされたことを証明するものであったが、モーセは自分が神の使命を担うには力不足であると主張する。神はモーセに怒りを燃やされた。神がモーセに期待されたのは、モーセが自分の力でこの大業に臨むことではなく、神の力を証ししながら、神の民を導いていくことである。神の働きに就くのは、抜擢されることとは違う。能力を認められて取り立ててもらうことではない。むしろ、神の栄光が現されるように、神と人に仕えて行くことである。神のことばの伝達者、神の御業の宣伝者として立っていくことであり、忠実さと信仰がその働きの根幹である。

だから神は、私たちの性格や能力、育ちや実績を超えて私たちを選ばれる。不思議なことに、ヨセフはこういう点で躓くことはなかった。しかしエジプトの教育を受けたモーセは躓いている。知性が邪魔をし、神の召しに応答することを難しくしたのである。神の召しに応じるには、欠けがあれば神がそれを備えてくださるという単純な信仰が必要なのだ。

実際神は、従順な者を神の不思議によって用いられる。神は信仰によって石投げ器と石を用いるダビデを、ペリシテの戦士ゴリヤテを倒すために用いられた。また、従順なペテロの網に大量の収穫の機会を与えられた。さらに、素直に少年が差し出す二匹の魚と五つのパンを五千人の胃袋を満たすために用いられた。神は無から有を生み出すお方であり、全能の力をもって、一切の必要を満たし、その召しを全うさせてくださる。人は自分の弱さや無力さをしっかりと自覚しなくてはならない。しかし、神の働きに携わるにあたっては、神がご自身の力強い御力をもって、その召しを完成させてくださる、と信じなくてはならない。なおも決断できないモーセに、神は、アロンの助けがあることを示される。モーセはアロンと一緒に出ていく決意を固めた。こうしてモーセはエジプトに帰って行った。

その途上、神がモーセを殺そうとする不可思議な出来事が起こっている。具体的に何があったのかは想像するまでであるが、その間、チッポラが、息子に割礼を授け、切り取った包皮をモーセの両足につけ「血の花婿」と呼んだ。解釈は様々になされており、この行為は警告として理解するのが通説である。というのも割礼は、神に喜ばれないものをすべて取り除き、これからの働きのために神に献身することを意味した。だからすべて神の御旨にかなった行為をするように、神が警告されたのだ、というわけである。

神の働きに携わるならば、神がすべてをなしてくださるだろう。しかしそれは、神に献身した人によって進められる。神は完全にささげきった人によってご自身の力を現されるのである。まくらな心では神の働きは務まらない。無能であってもよいが命をかける覚悟はしよう。

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