使徒の働き19章

パウロは奥地を通ってエペソに来たという。いったいどこをどう歩いてきたというのか。当時、皇帝街道からエペソに向かう道は、三経路あったとされるが、そのいずれなのかは、わかっていない。ともあれ、パウロは念願のエペソ伝道へとやってきた。
エペソは「アジヤの光」と呼ばれ、小アジヤでは重要な植民都市であった。現在はトルコ領西端の一寒村アヤソルク駅の南西2キロに古址をとどめているに過ぎないが、当時は、交通の要所で、アジヤ州の首都として栄え、経済・文化・宗教の中心地でもあった。当時の人口は約25万、ユダヤ人が多く植民し、会堂が立てられていた。またエペソには、すでに幾人かの弟子たちがいた。しかし、彼らはヨハネのバプテスマしか知らず、聖霊のバプテスマを知らなかったという。つまり、使徒2章に描かれたペンテコステの出来事を知らなかった。彼らは、主イエスの名によって、悔い改めのバプテスマを受け、それによって聖霊を受けた、とある。この記事は、回心の後に聖霊の賜物を受ける教理的な説明の根拠とされることが多い。今なおそんな話を聞くが、これは時代背景において理解すべきことで、そうした教理とは実際何の関係もない。今日私たちが授けられるバプテスマは、主イエスの御名による悔い改めのバプテスマであると同時に聖霊のバプテスマである。聖霊を受けることなしに、キリスト者でありうることはない(使徒11:17)。この時代は、まだ新約聖書も流布しておらず、救いの理解が断片的で、このように後付けで物事が起こってもおかしくはなかった。二つのバプテスマがあるわけではない。彼らが新たに受けたのは、ヨハネではない、主イエスの名によるバプテスマであった(5節)。
さてパウロは、ここで約二年半滞在し、初めの三ヶ月、ユダヤ人に妨害されるまでは、会堂で伝道した。その後、修辞学者ティラノの所有する講堂に移り、2年にわたって伝道した。パウロは未明から第5時(午前11時)まで労働し、皆が休憩する講堂の空き時間、第5時から第10時(午後4時)まで、福音を語った。このような精力的な活動によって、エペソからアジヤ全域にわたって主の言葉が広まった。ただパウロは、単純にエペソの伝道に専心していたわけではない。実際、パウロは、コリント教会のトラブルに巻き込まれていた。彼は、この地より三通の手紙を書いている。不品行な者たちからの分離を説いた第一の手紙(Ⅰコリント5:9)。そして、今日コリント人への手紙第一として聖書に収録されている第二の手紙。その後、事態に改善の兆しが見られず、思い切ってコリントを訪れた後に、エペソを離れる前に書き送った「悲しみの手紙」と呼ばれる第三の手紙である。その長さを見ても、また取り扱う内容の深刻さからしても、多くの時間を取られたことは推察できる。さらにパウロが投獄されて獣と戦ったのはこの時期であった(1コリント15:32)。また自分の生活を支えるための副業もしていた。つまりエペソの伝道は、コリント教会の牧会、迫害と投獄、副業という大変な重圧のもとで進められていたのである。そんなパウロの働きが主に用いられて多くの人が信仰へと導かれていった。真の悔い改めが生じ、生活を変えるインパクトが生じたのも、主が働けばこそである(19節)。主にある労苦は無駄にはならないのである。
さて、23節、パウロが滞在を引き延していた間に、「ただならぬ騒動」が起った。エペソは名高い「アルテミス神殿」(24節)のお膝元であり,多くの参詣者を集めていた。アルテミスはギリシア神話のゼウス神の娘で、アポロンと双子の姉妹。狩猟の女神、出産と肥沃の守護者であり、純潔と処女性の象徴として崇拝されていた。エペソのアルテミスは、土着化し、本来のアルテミスとは違うものと考えられていたが、「全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光」(27節)と叫ばれるほどであった。その神殿は古代七不思議の一つとされ、火災によって焼失したが、発掘調査の結果、アテネのパルテノン神殿の4倍大で、神殿の奥行103メートル、間口43メートルの広さ、直径1.8メートルの大理石円柱が100本立てられ、そのうち36本には高さ3メートルの所まで等身大の女人群像が浮彫にされていた。アルテミスの像は、その神殿の中にある内殿に安置されていた。「天から下ったそのご神体」(35節)という表現から、黒い隕石を刻んで造ったものと考えられている。
毎年アルテミスの月(太陽暦の3-4月)に行われる祭には、多くの参詣人や観光客が訪れ、莫大な富をもたらしていた。ことに銀細工人組合は銀製の神殿模型の上にすえられた女神アルテミスの銀の像を製作し莫大な利益を得ていた。だから伝道の成功は、神殿に付随する観光産業に痛手を与えたのである。起こるべくして起こった騒動である。しかし、主の働きであろう、騒動は、静められた。そして異教の地にキリスト教信仰が芽を出し、教会が建てあがっていく。ただ主の働きに加えられる歩みをさせていただこう。

使徒の働き18章

18章は、コリントの伝道、そしてエペソの伝道、アポロの救い、といった第二回伝道旅行終盤の出来事を記録する。コリントもエペソも、いずれもパウロが訪問した都市の中では、最も重要な都市で、パウロはそれぞれかなりの期間に滞在した。それはこれらの都市に教会を確立し、周辺地域への宣教拠点とするためであったのだろう。
コリントは、ギリシア本土とプロポンネソス半島の地峡の西側に位置し、古くから商業都市として栄えていた。BC146年、ローマに敵対し、徹底的に破壊されたが、それから100年後のBC46年にユリウス・カイザルによってローマの殖民都市として復興されている。その後、地中海における交通の要所として、早くから貿易と商業の都市として栄え、特にBC27年に皇帝アウグストウスによってアカヤ州の首都、ローマの総督府とされてからは、アレキサンドリアやエペソに次ぐ大都市となった。ギリシア文化、ローマの政治の中心地として、経済的には繁栄を極めたが、宗教的、道徳的には堕落した町であった。実際、ローマ、エジプト、シリヤの神々が祭られ、偶像礼拝が盛んだったのである。また市の南の丘の上にあったアフロディトの神殿には、ストラボンによると千人の聖娼が、女神アフロディトに仕え、不道徳がはびこっていた。劇作家アリストファネスは、「コリント風にする」のギリシア語、コリンテイアゼスタイを、「不品行をする」の意味に、プラトンは、「コリントの娘」を「いかがわしい女」の意味に用いている。「コリントへの旅は誰にでもとはいえない」との諺さえあった。経済的には栄えていても、道徳的に乱れている都市、何か象徴的であるが、そこに神は教会を設立された。
パウロは、ここでアクラとプリスキラという信仰を共にする同業者と出会っている。また、シラスとテモテがマケドニヤの教会からパウロに軍資金を持ってきて、パウロの伝道生活を支えたようである。パウロはみ言葉を教える事に専念した。コリントでの宣教はチームでなされたのである。しかしさらに重要なのは、彼らの一致の中に、主が働かれたことであろう。
パウロの宣教に対する反対は根強いものがあった。だからパウロの心には、コリントで伝道を継続することへの恐れがあった。しかしそんなパウロに神は、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。~この町にはわたしの民がたくさんいる」と励まされている。パウロたちのチームワークの中に、主が働かれたことによって、約1年半にわたる宣教活動が続けられ、コリント教会の設立の基礎が築かれたと言える。ルカが、ガリオのエピソードを付け加えたのは、キリスト者は、ローマの総督が自分たちの問題に介入することを恐れる必要のない事実を強調するためであったのだろう。使徒の働きは、あくまでも、当時の読者であるキリスト者に宣教を励ますために書かれたことを、ここにも確認できる。
さてルカは、コリントからエルサレムへの後半の長旅をわずか4節で済ませ、23節から、第三回伝道旅行の記録に入っている。しかし実際のところ、これがエルサレムへの旅なのかどうかは不明である。新改訳2017は、欄外注に「エルサレムには補足」こと断り書きを入れている。つまり、原文に「エルサレムに」という言葉はないが、通例の理解として補足を加えて読んでいるのだ。だからパウロは実際のところ、単にカイサリアの教会に挨拶しただけなのかもしれない。ともあれ、この間特記したことは、パウロが、ケンクレヤで髪をそったことである。この習慣は、ユダヤ人が過去の祝福に対する感謝を表すために、あるいは、将来の祝福を求める祈願として、神に対して誓願を行うもので、おそらく、ここでは、前者、コリントで守られたことへの感謝を示すものなのだろう。しかも、ルカは、パウロが、自分がユダヤ人であることを忘れなかった姿を描いているようである。
23節からは、第三回伝道旅行の記録であり、パウロは迷わずエペソに向かった。その前にアポロのエピソードが加えられる。彼は、やがてコリントの教会で重要な人物となるだけではなく、パウロに並び、人々を引き付けるリーダーとなっていく(1コリント3:5-9)が、もともと使徒ではない、パウロの同労者プリスキラとアクラという夫婦によって、聖書の正しい真理に導かれた人物であった。アポロを導いた兄弟姉妹は、信仰の真理をきちんと把握し、霊的な導きを与える力を持つ信徒であった。これは大切な点である。これが初代教会の原動力になったのだろう。人を信仰に導くのは、何も牧師、伝道師に限られた仕事ではない。信徒一人ひとりの業である。そういう自覚がないと、本当に宣教の働きは進んではいかない。日本の教会の問題は、宣教が牧師、伝道師の仕事と思われている点ではないだろうか。そうではなく、信徒一人ひとりが、正しい信仰へ導く力を与えられていくことが大事なのである。アポロを育てたプリスキラとアクラのように、「神の道をもっと正確に説明する」ことのできる信仰者であろう(使徒18:26)。そのように整えられるために、日々神とよき時を過ごし、聖書に精通する努力が必要である。それは一朝一夕によって身につく力ではない。日々の積み重ねであるが、努力する者をやはり神は用いられることをわかっていきたいものである。

使徒の働き17章

パウロはギリシアに宣教を展開していくが、その行く所どこにでも、ユダヤ人が現れ、彼の働きを妨害した(1テサロニケ 2:2 )。それはパウロが、世界に点在する離散ユダヤ人を中心に宣教したのだから、当然の結果でもあった。つまり、離散ユダヤ人は、当時それこそ全世界に広がっており、会堂を持っていたのである(歴史的記録によれば、イエスの弟子トマスによってインドまで伝道がなされ、インドのケララ州には会堂が建てられていた)。そのような世界に広がるユダヤ人の会堂をパウロは、律法学者の資格を持って渡り歩いて宣教を進めたのであり、結果として迫害にもさらされたわけである。
ともあれ、パウロは、ギリシアへ入り込み、エグナティア街道を通ってテサロニケへ向かい、暴動に巻き込まれたので、即座に、ベレヤへと移動した。ベレヤは、エグナティア街道から南に離れたところにあるが、比較的繁栄した町でユダヤ人植民も多く、会堂があった。彼らは非常に熱心で、パウロが語ることを熱心に聴き、果たしてその言うとおりであるかどうかと聖書を調べたという。語られたことをきちんと受け止めて、反芻するように、聖書を読み調べる聞き手がいることは、敵意の目でテサロニケを追い出されたパウロにとっては励ましであったことだろう。
その後、パウロは、アテネに向かうと、なんとも、そこにいる人々は、「何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」そんな人たちであった。イエスの種まきのたとえでは、道に種が蒔かれることにたとえられる、そんな人たちである。道は、踏み固められた場所である。たくさんの人が行き来し、種が落ちたとしても根を張ることができないほどに、堅く踏み固められている。結局は、カラスが飛んできて、種をついばんでしまう、そんな場所である。アテネの人たちの心も踏み固められた道のように、様々な耳新しい思想が通り過ぎる場であって、決して、根付くことがない。キリスト信仰に対する芽が出ることがない、そんな場所であった。
聖書は毎日読む必要がある。身体が食物を必要とするように、魂も霊の食物を必要とする。頭が知識を必要とするという以上に、心が養われる必要があるのだ。だからただ情報を吸収するように聖書を読むのではなく、霊的な糧を得るように、神のことばに耳を傾け、味わい、神とともに良き時を過ごすような読み方が必要なのである。アテネの人たちも聞く耳はあったが、パウロの話にキリストを見出すことはなかった。
さてルカは、パウロの説教を三つのポイントでまとめている。一つは、神は万物の主であり、神殿も人間の宗教的儀礼も必要とはされない方であること(24-25節)、人は神に造られたものであり、それゆえ神を必要としていること(26-27節)、最後に、そのような関係にあるからこそ偶像礼拝は愚かなことであること(28-29節)だ。そこで「神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石の像と同じものと考えてはいけません」(29節)と語り、悔い改めを勧めている。日本人も、アテネの人たちと同じように、偶像の神を拝む国民性を持っている。人間が手でこしらえたものを、神として大事に拝んでいるところがある。そして日本昔話を読めばわかることであろうが、神は、人間の手で作られながら、人間によい施しをし、人間と心を交わす存在として認識される。それはほとんど空想の世界である。だが、聖書の神は、確かに存在し、近代の神学者バルトが「人間は人間であって、神は神である」と語ったと言われるように、神は、人間と心を交わす愛のある存在であっても、人間に造られるようなものではなく、根本的に区別され、万物を超越した存在、むしろ人間をお造りになり、万物を有らしめたお方であることを理解すべきだろう。
「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」とパウロは語る。この数年、毎朝5時に教会に出かけ、教会の執務室で聖書を読み、学び、祈ることを21年続けて来て感じることがある。この時期は、まだ夜が明けず、オリオン座が綺麗に見える。もう少したてば、もっと空の色が黒くなる。そして星明りがもっと綺麗に見える。しかし、あと数か月もたてば、春が来て、朝焼けが目を楽しませてくれるようになり、早起き鳥のシジュウカラが鳴き始める季節になる。そして夏になれば、もう空は青空で、早起き鳥のシジュウカラはとうに出かけていて、カラスや蝉がなく時期になる。そして色々な花々が移り変わっていき、また夜空が楽しめる季節になる。そういう季節の変化を感じながら、思うことは、私たちは神の中に生き、動き、また存在していることだ。私たちは自分が一人で生きているかのように思っているのだが、神の細胞の中に組み込まれて生きているというべきか、あるいは宇宙と連動して生きているというべきか、そんな思いにさせられることがある。人間というのは、もっと謙虚にあらねばならないのであろう。私たちは一部に過ぎない。私たちをお造りになり、世界をお造りになり、人それぞれに決められた時代とその住まいを定められた神を覚え、今日一日を歩む、そんな意識を持ちたい。

使徒の働き16章

パウロが宣教地として最も多く足を踏み入れたところは、現在のトルコ地方に当たる。一般に第一次、第二次、第三次伝道旅行と呼ばれる経路のすべてでこの地方を通過している。その際にとられた共通経路が、主としてガラテヤ州南部の「ピシデヤのアンテオケ⇔イコニオム⇔ルステラ⇔デルベ」である。そこには、BC6年皇帝アウグストが建設した「皇帝街道」があった。ローマからエジプトにいたる重要な幹線道路で、沿線にはローマの植民都市が点在していた。パウロがこの経路を取ったのは、旅の安全さや便利さのみならず、福音の伝えられやすさを考えてのことだったのかもしれない。ともあれ、この皇帝街道を中心に伝道が発展したことを理解すれば、簡単にパウロの伝道経路は覚えられるだろう。第一次伝道旅行は、パンフリヤ州ペルガに上陸し、北上してガラテヤ州南部の「皇帝街道」に入り、その沿線で宣教を進めた(使徒13:14以下)。第二次伝道旅行では、陸路を取り、シリヤ州、キリキヤ州を経て「皇帝街道」に達した。第三次伝道旅行では、皇帝街道からアジヤ州へと入り、エペソ宣教が中心に進められる(使徒19:1)というように。
さて、15章の36節から第二次伝道旅行の記録は始まっている。50年の春、パウロは先に伝道した諸地方を再訪する計画を立てた。目的は、エルサレム会議の決定事項をシリヤ、キリキヤ、そのほか、パウロの第一次伝道旅行をした地域の教会へ伝えることであり、テモテがチームに加えられた。
おおよそ1700キロの道のり。東京から高速を乗り継いで、九州桜島まで出かけ、折り返して、福岡あたりまで戻ってきたような感じであろうか。徒歩にすれば44日間の旅行であったとされるから、そのペースたるや大変なものである。パウロはデルベからルステラへと移動、ここで数週間を過ごした。この町の青年テモテを伝道旅行に伴うために、割礼を受けさせたからである(使徒16:3)。ここでパウロが余計なトラブルを避けるために、テモテに割礼を受けさせたのは興味深い。またパウロは、「町々を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた。」(3節)。すでに述べたように、宣教は教化を基本としている。信じるべき事を明確にし、教育し、信仰者の共同体を固めていくことである。
16章において、パウロは、陸路を通り、皇帝街道に入っているが、アジヤでみことば語ることを聖霊によって禁じられたとある。アジヤとは、エペソ方面のことなのだろう。この時、パウロの一向は、アパメア付近(ディナール)にいたと考えられている。アパメアは、西にアジヤ州、北にガラテヤ・ビテニヤ州、東にカパドキヤ州、南にパンフリヤ州の各州に向かう中継地であった。パウロは、当初西のエペソを目指していたが、聖霊がこれを妨げた。そして思いがけない、ヨーロッパ宣教(マケドニヤ地方とアカヤ地方)へと導かれていく。確かに東に進むのでは、アンテオケに戻ってしまい、南では、別れたバルナバの一行と合流してしまう可能性があった。そして、北のビテニヤ地方へと向かうのである。ビテニヤには、新興都市のビザンチウム(コンスタンティノープル、イスタンブール)がある。ところが、それもイエスの御霊がお許しにならなかった、という。そして迷いに迷ってトロアスまで下った時に、パウロは、幻を見るのである。一人のマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡ってきて、私たちを助けてください」と懇願する夢であった。パウロはこの幻を見て、新しい宣教地のビジョンを確信し、ただちに、マケドニヤへと向かった。こうしてヨーロッパ伝道が開けていく。道が閉ざされることで、新しい道が開かれていく。しばしば、私たちの人生には、病気になったり、反対や法的規制など物理的障害が起こったり、と様々な理由で進路が阻まれていくことがある、と感じることがあるものだ。しかし、それで、フラストレーションに陥ったり、恐れたり、抵抗するようなことがあってはいけない。ここで、神が、アジアを目指していたパウロに、ヨーロッパの道を開かれたことに注目しよう。常に、神の思いは、私たちの思いを超えるものであり、一つ一つに神の導きがある。不可抗力の出来事が、パウロを、新しい神のみこころへと沿わせていったのである。
そして神が導かれたピリピにおいて神の御業がなされた。ピリピはマケドニヤ州においては、首府のアンピポリスを凌駕するマケドニヤ第一の古代都市である。神はそこでテアテラ出身の富裕な商人ルデヤの心を開いて、パウロの話を聞くようにした。また占いの霊につかれた少女をいやしたことで投獄されるが、それをきっかけに、看守が家族と共に信仰を持つことになった。それは実に小さな実りであり始まりであったが、大きな宣教の第一歩であった。パウロはまさにこの三人の回心のために遣わされ、この三人を基礎に出来たピリピの教会と温かい友好関係を持つようになっていくのである。後に書き送られたピリピの手紙に、これら三人の名前は出てこない。しかし、それだけ親しい、宣教協力の展開があった、と考えるべきなのだろう。ピリピの教会の遺跡は、それが四つの大バシリカと八角形の礼拝堂を持ち、五~七人の監督を持つ大規模教会に発展したことを示している。祈り場と「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(31節)」というメッセージから始まった教会が実に主の恵みによって、どのように導かれたかに注目すべきである。私たちの思いを超えた働きを導かれる神の働きに期待して教会を建てあげさせていただこう。

使徒の働き15章

キプロス島の各町を訪れた後、パウロは、現在のトルコ(当時のローマ帝国のパンフリア州)へ海路を通って移動、ペルガという町へ上陸した。パンフリア州は、険しいタウロス山脈と地中海に挟まれた地域で、平地であり、雨が多く、沼地を形成しており、マラリアなどの熱病も発生しやすい地域であった。パウロはガラテヤ伝道に関して「私の肉体が弱っていたためであった」(ガラテヤ4:13)と述べているが、それは彼がペルガでマラリアに冒され、ピシデヤのアンテオケに着いてから発病したことを指しているのだろう。パウロとバルナバは北に進み、タウロスの峠を越え、サガラッスス、イズバルタを過ぎ、その後、反対にあって、イコニオンへと向かっている。
イコニオンは、標高1000メートルの高原地帯で、気候もよく療養するにはちょうどよかったのだろう。しかしそこでも反対にあい、彼らはリステラへと向かった。そこで、パウロは、生まれながら足の不自由な人を癒す奇跡を起こし、これによって、町の人々から人間の姿を取った神と崇められる事件に巻き込まれている。それは、ゼウスとヘルメスが、町を訪れ、人々の冷遇に怒り町を滅ぼした故事を背景とする出来事であった。また町の人々は、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだ。それは古代の美術品で、ゼウスが背丈のある、堂々とした仁慈にあふれた姿で、ヘルメスは、小柄で足の速い、神々と人間どもの父(ゼウス)の伝令官として形作られたことを背景としている。ともあれ、パウロは、ルカオニアの人々が自分たちを神とすることを許さなかった。人を神とするのは、「過ぎ去った時代」(15節)のことで十分である。日本にもそういう時代があった。私たちは歴史に学ばなければならない。聖書は、人間が人間に過ぎず、人間をお造りになった神を覚えて謙遜になって生きることを教えている。神の偉大さを覚えるならば、私たちはもっと神に聴かなくてはならない。
ところで、パウロは、称賛されたのも束の間、今度は石打ち、半殺しの目にあっている。ローラーコースターのような人生であるが、パウロは、一々そういうことに動じていない。翌日、パウロは、デルベへ向かった。デルベは、ルカオニア地方の南東部へ50キロほどの町である。現在では、古址に過ぎないが、パウロはそこにある期間とどまって伝道し、多くの信者を得た。ガイオは、その信者の一人である(使徒20:4)。パウロとバルナバはここからもと来た道を引き返し、リステラ、イコニオン、アンテオケの町々を再訪、信者を励まし、海港アタリヤに下った。なぜパウロは引き返したのか?一つにパウロは、入信したばかりの兄弟たちの信仰を励ましたかったのである。「励ます」は珍しいことばで、堅くする、補強する、を意味する。すでにあるものを強めていくことだ。既に述べたように、彼らの方針は、強まる宣教への妨害に対して、新しく誕生した教会の基礎を固めるために、できるだけ長く、その地に留まる、その地に関わるというものであった。パウロは、霊的な強化のために、彼らを正しく導き、補強するために戻っていったのである。
また、その先には、コンマゲネ王国があった。その王たちはミトラ教の保護者で、キリスト教の宣教を受け付けず、パウロはここからきびすを返して、西を廻って帰路につかざるを得なかった。さらにもう少し東に進んでタウロス山脈を越えれば故郷のタルソに帰ることができたのであるが、そこは厳しい山道であった。ルステラで、仮死同然の石打ちにあった傷だらけの体では厳しい山道を行く体力もなかったことだろう。ともあれ、パウロは言う。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」(22節)と。傷だらけのパウロの姿を見ながら、このことばを聞いたならば、さぞ背筋を正される思いがしたのではあるまいか。パウロは、ピシデヤをとおって、パンフリヤへと到着した。アタリヤは、パンフリヤの海岸、ケストロス川の河口に位置し、小アジヤ最大の海港である。人口、2万五千を数え、風光明媚な港である。パウロとバルナバはこの港から乗船し、560キロの海路を東に進んで、シリアのアンテオケに帰り、ここに四ヵ年近くの歳月を費やした第一回伝道旅行を終えた。彼らは教会に伝道の状況、特に異邦人のために福音の門戸をひらかれたことを報告した。この旅で、パウロの指導的立場は確立した。バルナバとパウロという呼び方が途中からパウロの一行になり(使徒13:13)、パウロの名前が前面に出るようになる。以降、パウロの伝道旅行と称されるようになったのであろう。しかし、宣教は、個人プレーではない。パウロは常にチームで行動した。パウロは宣教を分かち合った。それは、私たちではなく、私たちの働きと共におられる主が、人を癒し、和解をもたらし、いのちを与えるからである。宣教が進むのは主の恵み故なのである。