詩篇102篇

心を打つ詩篇である。「悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの」と表題にある。恐らく、13-16節を読むと、これは、捕囚期末期の作と思われるもので、シオンの再建を願う詩人の思いが描かれている。

戦争も敗戦による捕囚も知らない私自身が、どれほど国を失い、移住を強制され、当てのない解放を待ち望む人たちの気持ちが理解できるだろうか、とも思うのであるが、祖国の再建を自身の回復として願う、一つ一つのことばが心を打つ思いがする。

実際、悩みの最中にあっては、自分が煙のように消えていくことを思わずにはいられない(3節)。肉体のみならず心も病んで、食欲もなく、何を食べてもおいしいとは感じない。(4節)。骨と皮だけになるほどに、うめき続けてやせ衰えてしまう(5節)。そのどん底の気持ちを分かってもらえる人はいない、という孤独感に、まんじりともせずに朝が開けるのを待つこともある。(7節)。それは、神の怒りの故である、神が私を捨て去られたからであると思わずにはいられない(10節)。まだ人生半ばであるというのに(23節)、わたしの人生は夕方の陰のように伸び尽くして、しおれている。(11節)。6節「荒野のペリカン」は、新共同訳では、「荒野のみみずく」である。原語のカーアートは、荒地の鳥らしいがよくわかっていない。多少訳語の違いはあるが、望みのない状況が良く伝わってくる。

「しかし、主よ」12節は、そのような著者のどん底の気持ちからの転換点となる。彼は、神の永遠性、つまり神の時の支配を思い起こすことで、心の向きを変化させている。確かに、自分と地上を見つめるだけなら、自ら置かれた状況に望みを見出すことは難しい。しかし、望みえない時に、神の見えざる御手の動きを確かに見て取ることができるならば、そこには新たな望みがある。主の哀れみに期待することができるからだ。なお、18節、ここで言う「後の時代は」どうやら捕囚期再建の時を超えたものである。22節、「国々の民や、王国が共に集められるとき」というのは、終末的なビジョンを指示している(黙示録7:9)。

そもそも、この詩篇は、メシヤ詩篇として親しまれ、ヘブル書の著者も、これがキリストを物語るものとして、解釈し、引用している(ヘブル人への手紙1:10-12)。つまり、荒野のペリカンのように孤独に苦しんでいるのは、キリストご自身であり、十字架の受難を物語っている(1-11節)。しかし、永遠の主は、キリストを地に捨てておかず、キリストの王国を再建なさる、というわけである(12-22節)。そこで、23-24節については、ヘブル語本文に二つの異なる読み方があり、25-28節全体を新改訳が訳すように、著者の神に対する祈りのことばではなく、著者に対する神の語りかけのことばとするものもある。七十人訳聖書(ギリシャ語)は、その解釈を指示し、これがメシヤ詩篇として読まれることをよしとしている。

この詩篇は、直接的には捕囚期に祖国の再建を夢見て、志半ばに世を去らなければならない落胆と、しかし続く永遠の主の業の完成に対する期待と信仰をもって次の世代がその祝福に与るようにという願いを描いたのかもしれないが、そこに、二重預言的に、イエスの十字架の御業と神の御国の完成への期待が象徴的に語られているというわけである。ともあれ、イエスが、かつて十字架で成し遂げた御業を思い、そのイエスの終末的なビジョンがなおも生きて導かれていることを思う時に、私たちは、イエスの足跡を辿るその先に祝福があることを思わずには言られない。いかなる困難も苦しみも、また志半ばということがあろうとも、永遠の神のご計画の中に生きていることを思う時に、私たちの悩みはもはや悩みではなくされる。時代は変わり、プレーヤ―も変わるが、完成されていく主の御計画のあることが私たちの喜びでもある。

「詩篇102篇」への1件のフィードバック

  1.  悩みで眠られぬ夜を涙で過ごし、孤独と焦りの中で耐え難い日々を戦い続けた事を昨日のように思い出します。
     神様と聖書のこの詩篇の箇所から慰められ、救い出されたことを感謝し、50代半ばを迎えました。本当に苦闘の連続であったけれど、私が戦ったのではなく、神様が先駆けとなって戦ってくださったのですね…

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