詩篇102篇

102篇 完成されていく主のご計画

おはようございます。心を打つ詩篇です。窮した者の心の内に共感する思いがする詩篇です。しかしこの詩篇は、メシヤ詩篇、そして初代教会の人々が宣教の困難にあって支えとした詩篇です。個人の祈りとせずに、教会の祈りとすべき、その深さを理解しましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

心を打つ詩篇である。「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの」と表題にある。詩篇102篇は、文学的ジャンルから言えば、哀歌、厳密に言えば、6,32,38,51,102,130,143篇の七つの悔い改めの詩篇の一つに数えられる。恐らく、13-16節から、捕囚期末期、シオンの再建を願う詩人の思いを描いたものなのだろう。戦争も敗戦による捕囚も知らない私に、国を失い、移住を強制され、当てのない解放を待ち望む人たちの気持ちをどれほど理解できるだろうかと思うところだが、不思議にも、祖国の再建を自身の回復として願う、一つ一つのことばが心を打つ思いがする。それは、形こそ違えども、人間の苦しみには共通するものがあるからなのかもしれない。

2.窮した者の祈りは顧みられる

実際、悩みの最中にあっては、自分が煙のように消え去るはかなさを感じるものだろう(3節)。肉体も心も病み、蝕まれ、食欲もなく、味を感じることもない(4節)。骨と皮だけになるほどに、うめき続けてやせ衰えてしまう(5節)。そのどん底の気持ちを感じてくれる人もいない。ただ孤独感の中で、まんじりともせずに朝が開けるのを待つだけ(7節)。なぜこのようなことになってしまったのか。それは、神の怒りのせいである。神が私を捨て去られたからである、と思う(10節)。突然余命宣告を下されて、人生の舞台から引きずり降ろされてしまう痛み(23節)。私の人生は、夕方の陰のように伸び尽くし、青菜のようにしおれていくだけだ(11節)。望みの失せた状況が良く伝わってくる。

「しかし、主よ」12節は、そのような著者のどん底の気持ちからの転換点である。彼は、神の永遠性、つまり神の時の支配を思い起こすことで、心の向きを変えられていく。You will never find a rainbow if you are looking down.(下をうつむいてばかりいたら、虹が出ていることも気づかないでしょう)と語ったのは、喜劇役者のチャプリンであるが、単純な真理に私たちは気づかないでいる。つまり、自分と地上を見つめるだけなら、自ら置かれた状況に望みを見出すことは難しい。しかし、望みえないことがあっても、天を見上げて、そこに全能の主がおられることを覚えるならば、望みを持つことができる。あわれみ深い主に期待することができる。

3.メシヤの祈り、宣教の祈り

そして注意すべきは、18節、「このことが後の世代のために書き記され」とあるように、自分のための祈りではなく、祖国再建の祈りとする詩人の心を掴むことだ。個人が苦しむので個人の解放を求めるのではない、同じように、苦しみ、気持ちにある国家の解放を祈るものであることだ。それは、連帯の祈りである。

さらに22節、どうやら、それは単なるイスラエルの回復をも超えている。終末的な全世界の救い、黙示録7:9にあるキリストの下に全ての民族が集められる終末的な栄光を祈っている。実際この詩篇は、メシヤ詩篇として親しまれ、ヘブル書の著者も、これをキリストを指し示すものとして、解釈し、引用している(ヘブル人への手紙1:10-12)。つまり、初代教会の人々は、この詩篇において、荒野のペリカンのように孤独に苦しんでいるのは、志半ばで十字架の受難に与った、キリストご自身と受け止めた。そしてイエスの意思とビジョンを受け継いだ、彼らもまた志半ばの苦しみにあって、この詩篇に支えられながら御国の完成を願ったのである。宣教的使命に立ってこそ、この詩篇は深く理解されるのである。

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