詩篇51篇

表題にあるよう、この詩は、ダビデがバテシェバのことで罪を犯し、預言者ナタンにその罪を指摘され、罪を認め悔改めがなされた時(2サムエル11、12章)に歌われたものである。悔い改めの詩篇の四番目にあたり(6、32、38、51、102、130、143篇)、中でも最も偉大なものである。

まずダビデは、神のあわれみを求めている。もちろん自分が神の厚意を受けるに全く値しない者であるとはわかっていても、放蕩息子がそうであったように、神との父子関係が反故にされているわけではない。神の子として彼は生きなくてはならなかったのである。だから神の前に謙虚に罪犯した者として進み出、自分の罪の問題を取り扱わなければならない。そこでまず自分の罪をはっきり認め、それを拭い去るように願っている。ダビデは衝動的で迂闊だった、あるいはバテシェバにも問題があった、と責任逃れはしていない(4節)。ダビデが罪を意識した時の心の内面に注目しよう。その罪は「いつも私の目の前に」あった。罪は私を苦しめ続けた。心を暗くし(6節)、喜びと楽しみを奪い去った(8節)。心と体を打ちのめし、砕いた。御霊を殺し(11節)、救いの喜びを奪い(12節)、神のもとから迷い出させてしまった(13節)。罪を自覚するのは、確かに私にも悪いところもあったからだ、という程度のことではない。そもそも私は、神をあざけるものである。私はいばらであり、いちじくであり、悪い木である(マタイ7:17,18)、性根の腐り果てた者である、神の願うところとは深く隔たって生きている者である、という認識である。罪によって喜びと楽しみが奪われ、心と体が打ち砕かれ、自分の内から御霊が去った悲しみを味わう中で、初めて、人は自分の本性に気づきを得る。罪の故に、十字架を負わされ、神に見捨てられたと思うような辱めと悲しみと苦しみに打ち捨てられてこそ、その十字架を共に荷ってくださる神の愛を知ることができる。人は自分の罪の現実と向かい合わない限り、神と出会うことはできない。

神の前に砕け散る時に、知恵を教えてください(6節)。罪を除いてきよめてください(7節)。洗ってください(7節)。楽しみと喜びを聞かせてください(8節)。ゆるがない霊を新しくしてください、と新しい心の方向性が生じる(10節)。罪が多くのものを奪い、多くの苦しみを与えたと思えば、もはや罪を繰り返す人生は歩みたくはない、と思うだろう。そして、罪が人の本性であり、変えがたいものであるとするならば、神の奇蹟を願う他はないのである。神の偉大な御業が自分の内になされることを求め、その救いを味わってこそ、同じように神に背き救いを求めている罪人に祝福を告げる者となることができる(13節)。イエスは、ペテロに「立ち直ったら兄弟を力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と命じられた。回復の経験は他の人に主の恵みを伝える力となる。

「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心」(17節)。実に50篇の後にこう書かれているのが興味深い。形式的、偽善的な礼拝からの決別を勧めるのが先の詩篇であった。51篇は、単に個人的な罪の悔い改めと救いの喜びの感謝に終わらない。18,19節は、どうもエルサレムの城壁が壊され、いけにえが行われなくなったときの事を物語っている。つまり、イスラエル人が捕囚から帰って来た時に国全体の罪の告白の詩とするために、捕囚と再建の時代に生きた世代が、ダビデのオリジナルの詩に付け加えた、とされる箇所である。もはや個人の悔い改めは国家的な悔い改めの詩と書き換えられて愛唱されたというわけだ。礼拝において感謝をささげる、と同時に、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心をささげる。それは私たちに変革をもたらす神の力を求めることに他ならない。そこに、礼拝の力強さ、祝福の深さもある。礼拝を豊かなものにするのは、私達の深い罪の自覚と悔改めにある。

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