エゼキエル書18章

18章 個人の責任の原則(18:1-32)

おはようございます。世の中では、親の借金が子に引き継がれることはあるものですが、神の呪いが引き継がれることはありません。神の語る原則をよく理解したいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の呪いは、引き継がれない

2節「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」とは面白い言い伝えですが、当時よく口にされたもののようで、エレミヤもこれを取り上げています(エレミヤ31:29)。言いたいことは、今、神の審判を受けて捕囚の身となり、バビロニヤに連れて来られたのは、先祖たちの罪の故で、自分たちの問題ではないのだ、というわけです(出エジプト20:5)。

しかし、神はその考えを否定します(3節)。「見よ。すべてのたましいは、わたしのもの」(4節)。つまりすべての人は、神様ご自身に対して責任があるのだ、と。罪を犯したその人がその報いを受けるのだし、と(13節)。だから、正しいことを行う人は、その正しい報いを受けることになる、と言うわけです(9節)。

神は具体的に説明します。正しい人の子ども、つまり二代目が無法者ならば、父親とは関係なく、その罪の責任はその二代目が問われることになる、と(10-13節)。さらに正しい人の孫、三代目が、二代目の悪に倣わず正しい生き方をするならば、どうなるのか、彼は二代目に向けられた神の呪いを継承することもなく、彼自身の正しさの故に生きる、と言います(14-18節)。つまり、人はそれぞれ、自分の生き方の報いを神に受けるのであって、神の呪いが次の世代に継承されることはありません。神はそれを明確に否定し、罪を犯したたましいが死ぬ、と断言するのです(20節)。

当時の人々にとって、この説明は、従順な王ヨタム(2歴代27章)、不従順で邪悪な息子アハズ(2歴代28章)、従順で改革者となった孫ヒゼキヤ(2歴代29-32章)といった、王家の例からも明らかでした。

2.悪者に対する福音

親子3代の例をあげて、個人に対する神の裁きの原則が語られた後で、エゼキエルは、21節後半から、悪者に対する福音を語ります。悪者は悪者としての報いを受ける、これが原則です。しかし、悪者であっても、自分の非を悟り、罪を悔い改め、正しい人となって公議と正義を行うなら、彼は必ず生きて死ぬことはない、と言います。彼はその正しさのために生きるのです。逆に24節、正しい人が、その正しさを捨てて、神への反逆を重ねるのならば、彼は生きることができない、と言います。常に神は、個人に責任を問われるわけですから、その最終的な結果は個人のあり様でどうにもなる点が重要でしょう。人は先祖の罪からも自由であるし、自分の過去からも自由になれるのです。神は、罪人の過去よりも、これからを問題にされるのです。

イエスの弟子たちが、ある盲人の前で、この人が盲目に生まれついたのは、この人が罪を犯したからか、それとも先祖が罪を犯したからか、と尋ねたことがあります(ヨハネ9章)。それに対してイエスがお答えになったことは、この人でも先祖でもなく、神の栄光が現れるためである、でした。神は、その人の家がどうであったか、その人がどんな人生を歩んできたのか、を問題にはされないのです。むしろ、今これからどのように生きようとしているのか、そのその人の思いをくみ取られると言うべきでしょう。そのように人間の悔いや、迷い、そして願いをご覧になる神であればこそ、私たちも心を開いて、自分の本当の願いを祈ることができるはずです。神は、「誰も死ぬことを喜ばない(32節)」のです。むしろ、あなたが悔いている背きも恥も放り出せ、そして新しい心と新しい霊を得よ、と言うのです(31節)。

この神の温かいお言葉に励まされて、もう何十年も心の片隅に置きっぱなしのお荷物を思い切って捨て去って、今日、新しく人生を踏み出してみようではありませんか。

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