エレミヤ書12章

エレミヤ書12章 神の嘆き
おはようございます。今日の箇所は、聖書翻訳が研究の積み重ねの中で、変化していくことがよくわかる箇所です。新改訳第三版と2017では、7-13節の主語の解釈が変わっています。しかしそれによってより神を身近に理解できるものとなっています。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.なぜ悪者は栄えるのか?
11章のアナトテの人々の陰謀の出来事をきっかけとした祈りがささげられる。それは実に率直で、なぜ悪者が栄えるのかを神に問いかけている。ただヨブのようではない。彼は基本的に主の正しさを認めた上で主と論じようとしている(1節)。悪者は、まるで神が保護し、祝福しているかのようにあらゆることに成功していく。しかも彼らも、口では信心深いようなことを言うが、心から信じているわけではない(2節)。そのような悪者に脅かされる状況の中で、エレミヤは言う。あなたは私が窮地に立たせられていることをよくご存じです。まるで私は屠られる羊のようです(11:19、12:3)。それこそ彼らを同じようにしてください(3節)と。実に率直だ。4節「彼」について種々の議論があるものの、新改訳2017は、ギリシャ語の七十人訳聖書の解釈に沿って彼を神と解している。神は私たち(貧しい者たち)を見捨てているというわけだ。いつの時代にも起こりうる感覚だろう。ヨブもそうであったし(ヨブ記21:7)、アサフもそうであった(詩篇73篇)。
2.エレミヤに対する神の答え
神がエレミヤに答えている(5、6節)。そのような悩みは、いわば徒歩競争のようなものだ。これからは騎馬競争になる。つまりほんの序の口だ、故郷のアナトテで不平を言っているような状況で、ダビデがマハナイムの森を彷徨ったような状況に耐えられるのか。神はこれからエレミヤとイスラエルに起ころうとしている危機について語り掛ける。確かにエレミヤはこの後、バビロンに捕虜として連れて行かれそうになったり、クーデターを起こした指導者にエジプトへ連行されたり、運命の嵐に翻弄されることになる。なんてことだ、と言うわけではないか。新改訳は、第三版まで7-13節をエレミヤの嘆きとして捉え「私」と訳してきた。しかし2017では、主の嘆きとして「わたし」と訳し変えている。エレミヤの嘆きを嘆く神がおられる、というわけだ。主に論争を抱いても勝つことはできないが、安心して論じることができるのは、このような神のご性質を思えばこそである。
3.神の処罰
神はイスラエルを「根こそぎ滅ぼす」(17節)と明言される。悪者に対する神の態度は一貫している。14節「悪い隣国の民」は、アラム、ペリシテ、アモン、モアブ、エドムのことである。アモスの預言と重なり(1-2章)、ユダもその隣国も、バビロンに捕囚の民として根こそぎ連れ去れると言う。しかし15節、ユダは神のあわれみのうちに、捕囚から連れ戻され回復される、と言う。その時恵みを受けるのは「道をよく学び、『主は生きておられる』」と誓う、正しく主を礼拝する者である。神は決して神の恵みに応答する者を見逃されることはない。エレミヤのみならず、私たちも同じである。恵み深い神に信頼することとしよう。

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