エレミヤ書13章

13章 神の思いやり

おはようございます。長引くコロナ禍、それに伴う様々な疲弊、不安を抱える方々も多いことでしょう。しかし、すべてが神のご計画の中にあるとするならば、やはり、神の前に遜り、神の助けに寄り縋り、祈り続ける信仰者が必要です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.自分を失う

13章は、神の御前に悔い改めようとしないユダの頑なさに対する警告の続きとなる。エレミヤは二つの実物教育をもって、これをわからせようとする。

一つは、ユーフラテス川に隠した新しい帯を腐らせるものだ。地理的にユーフラテス川まではかなりの距離がある。そこでエレミヤが二度も足を運ぶのは考えられないとして、これを近隣の小さな川、ベラース川と考える説がある(新英訳)。しかし、約50年に渡る彼の長い預言活動からすれば、遠くまで出かける余裕はあったことだろう。しかも衣類の耐用年数は、約10年であるされる。帯は、数日、数か月でぼろぼろにはならない。なぜ神はこのような手の込んだ方法でご自分の意思を伝えるのかも不思議であるが、この実物教育の意図は9-11節に示されている。神は、真新しい帯を腰につけ自慢する人のように、ユダとエルサレムを誇りとするつもりであったが、もはやそれができないと言う。心打つのは、神が裁きを告げる言葉の中で、ユダあっての自分を語っている点である(11節)。失われるのは、ユダの名、栄誉、栄ではなく、ユダと共にある神の名、栄誉、栄えである。

続くもう一つの預言は、酒で壺を満たすものである(12-14節)。引用された諺は、酒がふんだんに振舞われる祭りの際に、酒好きのユダヤ人が自分を酒壺に例えて「すべての酒壺に酒が満たされる」と語る戯言である。神はこの戯言を取り上げ、すべての住民に神の怒りの強い酒を満たし、互いに争い事が起こるようにし、自滅させると言う。

2.求められる悔い改め

これらの預言は、実際バビロン捕囚が起こる前に、悔い改めを促すために語られた。15節からは同じことが詩文形式で語られる。「王と王母」(18節)は、実際にエホヤキン王とその母ネフシュタを指す。エホヤキンは18歳で王位に就き、わずか3か月で母ネフシェタと共に、バビロニヤに人質として連れ去れた悲劇の王である(2列王24:8-15)。「ネゲブの町々が閉ざされる」とは、北から攻めてくる敵によって南への退路が断たれることを意味する。結局、アッシリヤに対抗するために、同じ北方勢力のバビロニヤと同盟を組んだのが誤りであった。アッシリヤに代わってバビロニヤが攻めてくるというわけだ(21節)。

「なぜこんなことが起こったのか」、ユダの国家的悲劇は、個人にとっても災いをもたらした。それは、個人の心の頑なさ、罪の深さにもよるからだ。そして頑なであり続けるならばもはや悔い改めも難しい(23節)。そのような頑迷な時代に何が求められているのか。それは、「主が生きておられる」という声の回復である(12:16)。そしてそのためのとりなしの祈りだろう。かつてイスラエルが疫病の禍に苦しんだ時に、神は、ダビデの罪の告白と祈りに心を動かされた(2サムエル24:25)。祈り会に集い、共に祈りをささげよう。

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