エレミヤ書7章

7章 まことの神を認めていく
おはようございます。聖書を読むことにはある程度の蓄積が必要ですし、蓄積ができてこそ、聖書を読むことも楽しくなります。それまでの辛抱ですが、ぜひ、毎日少しづつでも、聖書を深く読む努力をしてみてください。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.エルサレムと神殿の終焉
 エレミヤは主の神殿に立って語る。時は、大祭の頃であったようで、多くの民がエレミヤの声を耳にした。イスラエルの民は、主の宮がある限り、自分たちは安全であると考えていた(4節)。神がご自身の宮を壊されるだろうか、というわけである。しかし、エレミヤは、かつてエリの時代、シロの神殿に起こった例をあげて、その考えが間違っていることを断言する(12節)。かつてイスラエルの民がカナンを征服し、会見の天幕をシロに定め、それが宮と呼ばれるようになった頃(士師18:31)、そこで行われる祭儀は盛大化し、内容も世俗化するようになった。エリの子たちの醜聞は(1サムエル2章)、まさにそのような状況を象徴していたが、エレミヤの時代も同じだったのである。エレミヤは、イスラエルの民が、祭儀的宗教に陥り、神ご自身のみことばといのちに結び付いていない信仰を批判し、かつてイスラエルに下された裁きが同じように下ると警告する(14節)。
2.形ではない
 何が問題だったのか。神は言う。「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、彼らに全焼のささげ物や、いけにえについては何も語らず、命じもしなかった(22節)」と。一瞬耳を疑うようなことばだが、確かに、神は、エジプトからイスラエルを連れ出し、シナイ山に到達するまで、一切そのようなことは語らず、ただ主を認め、主を恐れ、主の御声に聞き従うことを命じたのである。つまり、信仰の本質は、「聞けイスラエル」にある。そして「わたしが命じるすべての道に歩め」(23節)にある。
 マラキ書以降、神が沈黙された400年の時代、イスラエルの信仰は、祭儀的、律法主義的宗教に変質してしまったと言われる。だが、既にエリ、そしてエレミヤの時代も同じであった。イエスが神殿を「強盗の巣」(11節)と呼び、宮きよめをした出来事も新しいことではなかった。「わたしに聞かず、耳を傾けず」(26節)は、繰り返し語られて来たのである。しばしばキリスト者になれば、毎週礼拝に出て、毎日聖書を読み祈り、献金をささげ、奉仕に精を出すように教えられる。出来ていればマル、そうでなければ不良信徒、と言われることもある。だが、形ばかりのことであれば、それがいかに丁寧に、華美になされようと神はこれに「哀歌を歌え」(29節)と言うのだ。大切なのは、神のことばに聞き、神のいのちに触れ、内から沸き上がる自然な信仰生活や教会生活の歩みがあるかどうか、である。
本章の預言は、BC608年、ヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコに殺された直後、長子のエホヤキムが王位に就いた時代のものである。パロ・ネコにエホアハズが廃位されるまで彼が王位に選ばれなかったのは彼自身に問題があったからだと言われる。まさに神のことばに「両耳が鳴る」シロの時代の再現が、そこにあった(1サムエル3:11)。

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