ガラテヤ人への手紙1章

ガラテヤ人への手紙1章 他の福音に驚くパウロ
1.ガラテヤの教会の問題(1:1-10)
コリント人への手紙と同様にガラテヤ人への手紙も論争的な手紙です。コリント人への手紙では、経歴や弁舌の巧みさ、さらには霊的経験などを誇る、興行師的な偽教師が問題となっていました。ガラテヤ人への手紙では、また異なる性質の偽教師が問題となっています。
まずパウロは、自分自身の使徒性から語り始めています。自分は、12使徒たちのように、地上のイエスと親しい時を過ごした経験こそないものの、イエスから直接任命を受けた使徒である、と(使徒9:4-6)。その意図は、自分が語っている福音も、イエスから直接受けたものである、ということです。ですから、パウロは、6節、「私は驚いています…あなたがたが、ほかの福音に移っていくことに」さらに8節「私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです」と語り、イエスから直接受けた福音から、ガラテヤの人々が離れていくことに異議を唱えているわけです。
2.パウロが宣べ伝えた福音(1:11-24)
そこでパウロは、11節から、自分がどのように福音を受け、それを伝達するようになったのか、を語り始めています。パウロは、それを誰かに伝え聞いたのではありません。イエス・キリストの啓示によって受けた、と言います。啓示は、ギリシア語でアポカリュプシス、人々に隠されていた事柄が、神によって明らかに示されることを意味します。
もともとパウロは、無神論者ではなく、熱心なパリサイ派のユダヤ教徒でした。しかし、彼の時代に、イエスをメシヤと認める信仰がにわかに起こり、急速に拡大しました。当初パウロはその信仰を、忌まわしい異端であり撲滅すべきものと考えました。そして実際に狂ったようにキリスト教徒を捕まえては牢にぶち込み、迫害していくのです。ところがある日、キリスト者を捕らえようとダマスコに向かう途上、復活のキリストに出会うわけです。そして、イエスの十字架の死は、敗北の死ではなく勝利の死である、全ての人類の罪の赦しのために、神にささげられた尊い命の犠牲であったことを、アポカリュプシス、つまり神の側から一方的に示されたのです。こうして彼はキリスト教徒に改宗しました。18節以降パウロはその後の3年間の軌跡について語ります。言いたいことは、彼は、改宗者となった後、誰からもキリスト教信仰について手ほどきを受けたことはない、ということです。つまり、パウロは、直接イエスから使徒としての召しを受けた後、本書で問題となるエルサレム会議に至るまで、イエスから直接福音を受けたきりであった、と自分が理解している福音の純粋性を強調しているのです。自分の側に変化はなかった。しかし、ガラテヤの教会になぜか変化が起こっている。それはどうしたことか、と言います。実際には、コリントの教会がそうであったように、ガラテヤの教会においても、パウロがガラテヤの地を去った後、偽教師と呼ばれる人たちが入り込んで、教会をかき乱したというわけなのでしょう。パウロは語気荒く語っています。自分が伝えた福音に反するものを伝えるなら、その者は神の審判を受ける、なぜならそれは、神から直接受け、そこに何ら混ぜ物をせずに、そのまま語っているからだ、というわけです。これから、6章に渡り、パウロが神に直接受けたという福音について理解を深めてまいりましょう。では今日もよき一日となるように祈ります。

クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「コリント人への手紙第一は、何番目に書かれたものでしょうか。答えは、②二番目でした(1コリント5:9)。では今日の聖書クイズを一つ。パウロは、ガラテヤの手紙を書く前に、少なくとも何度ガラテヤを訪問していたと考えられますか?①1度、②2度、③3度、答えはまた明日。では今日もよき一日となるように祈ります。

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