ヨエル書3章

3章 未来にある希望

おはようございます。神は未来を与えてくださるお方です。神は人とは違って、人を大事にし、その損失を償ってくださるお方です。大切なのは信頼して付き従うかどうかです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨエル書の文脈

ヨエルの預言活動は、蝗害を契機とするものでした。1章は、いなごの大群によって国土が荒廃していく様子が描かれていました。実際、いなごは、春エチオピア方面から紅海を渡り、パレスチナに飛来し、10年から15年おきに大量発生すると言われています。その時には日中でも暗くなるほどの大群で押し寄せ、文字通り作物をことごとく食い尽くしていくのです。ヨエルは、2:28以降、この自然災害を、他国に侵略されるイスラエルの惨状に重ね合わせ、終末的な神の裁きについて語ります。

3:1-8は、具体的にイスラエル史のある特定の時代について語っているというよりも、一つのたとえとして理解すべきものでしょう。注目すべきことは、イスラエルに侵略し、略奪し、暴利を貪った諸国に対して「裁き」があることです。つまり、神は正しいことを行われることを言いたいわけです。実際、神が、戦争において売り渡された少年少女の動揺と不安、そして涙を決して見過ごすことはない、ということは、読者に対する希望です。神は、人が人を粗末にモノ扱いするような事態を決して許されないのです。

2.新約引用と解釈

さて、2章でも述べましたが、ペテロはこのヨエル書をペンテコステの日の説教で引用し、その日に起こった聖霊降臨の出来事を、イエスによる終末の時代の幕開けであるとしました(使徒2:15-21)。確かにヨエル書の3章に描かれた、さばきは、いわゆる最後の審判というべきもので、「太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う」(15節)とあるように、黙示録にも描かれたファイナルシーンを思い浮かべさせるものです(黙示録6:12-14)。となると、3章の後半は、さらに象徴的に描かれたもので、エルサレムも文字通りの地名といよりも、終末的霊的な場として受け止めて読むのがよいのでしょう。そしてメッセージの中心は、3:1-8と同様、権力を振るい、力に任せて搾取の限りを働いたすべての者に神の裁きがあり(18節)、忠実に生きた者には豊かな報いがあることを示すところにあります(16節)。終末の最後の裁きも、神に忠実に生きる者にとっては、何も恐れるものではありません。

3.終末思想

こうして3章は、全体的に神の正義について語るものだと言えます。1章において、干ばつと飢饉から書き起こしたヨエルは、3章において甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れる描写をもって(18節)その筆を置くことで、実際には、今、世にあって様々な災害、搾取の犠牲となり、何もかも失い、望みを持てないでいる者に対して、神にある希望があることを覚えさせようとしているのです。ヨエルは、2章において「わたしはあなたがたに償う、あなたがたは食べて満ち足り」(2:26)という語り掛けの具体的なイメージを「その日には、山に甘いぶどう主が滴り、丘には乳が流れ」(3:18)と螺旋を描くように増幅して描いていると言えるでしょう。

神は人に未来を与えてくださるお方です。私たちの損失を豊かに償ってくださる主を信じて、このコロナ禍においてもなすべきことをなし、乗り越えてまいりたいところです。

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