出エジプト記4章

 モーセは、イスラエルの解放者として召されたが、神の前に、戸惑い続けていた。40年前のモーセとは違っていた。当時の彼は、自分がイスラエルを救うのだ、と考えていた。しかし、今の彼は、そんなことはできるはずがない、と考えている。実際、自分は神と語り合う経験をしたとしても、誰も彼を、神が立てたリーダーとして認める者はいないだろう、彼はそのように考えた。そしてモーセは、イスラエルの民が文句なしに彼がリーダーであると認めるしるしを行う力を求めた。モーセにとって「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。」(2:14)となじられたかつての経験は決して忘れることのできないものであった。しばしば旧約の預言者たちは、同じようなしるしを与えられている。しかし、新約のバプテスマのヨハネにそのようなしるしは決して与えられなかった。またイエスご自身、自らそのようなしるしを行うことを拒んでいる。だから、しるしがあることが神の人というわけではなく、ここにおいて神は、モーセのこの個人的な心の必要に丁寧に応えられた、というべきなのだろう。神はそのようなお方である。
さて神は、モーセに、三つのしるしを与えられた。杖が蛇に変わり、ツァラアトの手が癒され、そして水が血に変わるしるしである。古代近東で蛇は、知恵、豊穣、癒やしのシンボルであり、礼拝の対象でもあった。杖を蛇に変え、その蛇を操るのだから、第一のしるしは、神が、モーセにエジプト人が崇拝する偶像の神々に勝る力を与えたことを意味している。次にツァラアトに冒された者は、イスラエルの交わりから断ち切られた(レビ13:45,46 )。だから第二のツァラアトのしるしは、イスラエルに対する権威が与えられたことを意味する。第三の水を血に変えるしるしは、十のしるしの最初のしるしとして行われた。エジプト人は、ナイルの水を神とし、これに頼って生きてきたのだから、このしるしは、ファラオとエジプトの神々を討ち滅ぼす力が与えられたことを意味する。しかしそれでもモーセは神の召しに応じようとしなかった。いや、応じるにはあまりにも力不足の自分を覚えるばかりであった、というべきなのだろう。モーセは言う。「主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」(10節)彼は、神の召しに従うに、過去の失敗の記憶に臆病になるばかりではなく、本質的に変え難い性質あるいは適性の問題を覚えずにはいられなかったのである。確かに指導的立場に立ち、物事を動かそうとする時に、それにふさわしい特性を身に着けていなくては、何もなしえないと考えることは常識的に正し判断だろう。多くのリーダーシップはそこで躓いているのであるから。神に対するそのような態度は、よろしくはないとしても、理解できないことではない。ペテロも同じように、主の召しを拒んだのである。
だが神がモーセに期待されたのは、モーセが自分の力でこの大業に臨むことではなく、神と共にあってこの大任を果たすことである。役立たずの自分を通して神の力が語り、神の民が導かれることである。神の働きに就くことは、世間でよくあるような力や能力を認められて抜擢されることとは違う。むしろ、神の栄光が現されるように、無に等しい者が、神と人とに仕えて行くことである。神のことばの伝達者、神の御業の宣伝者として立っていくことであり、忠実さと信仰がその働きの根幹である。モーセに不足していたのは、能力ではなく信仰であった。
神は、私たちの性格や能力、育ちや実績を超えて私たちを選ばれる。不思議なことに、ヨセフはこういう点で躓くことはなかった。しかしエジプトの教育を受けたモーセは躓いている。知性が邪魔をし、神の召しに応答することを難しくしたのである。神の召しに応じるには、欠けがあれば神がそれを備えてくださるという単純な信仰が必要なのだ。
実際神は、従順な者を神の不思議によって用いられる。神は信仰によって石投げ器と石を用いるダビデを、ペリシテの戦士ゴリヤテを倒すために用いられた。また、従順なペテロの網に大量の収穫の機会を与えられた。さらに、素直に少年が差し出す二匹の魚と五つのパンを五千人の胃袋を満たすために用いられた。神は無から有を生み出すお方であり、全能の力をもって、一切の必要を満たし、その召しを全うさせてくださる。人は自分の弱さや無力さをしっかりと自覚しなくてはならない。しかし、神の働きに携わるにあたっては、神がご自身の力強い御力をもって、その召しを完成させてくださる、と信じなくてはならない。なおも決断できないモーセに、神は、アロンの助けがあることを示される。モーセはアロンと一緒に出ていく決意を固めた。こうしてモーセはエジプトに帰って行った。
その途上、神がモーセを殺そうとする不可思議な出来事が起こっている。具体的に何があったのかは想像するまでであるが、その間、チッポラが、息子に割礼を授け、切り取った包皮をモーセの両足につけ「血の花婿」と呼んだ。解釈は様々になされており、この行為は警告として理解するのが通説である。というのも割礼は、「父祖の神」に繋がる者であることのしるしであり、神に喜ばれないものをすべて取り除き、これからの働きのために神に献身することを意味した。だからすべて神の御旨にかなった行為をするように、神が警告されたのだ、というわけである。
神の働きに携わるならば、神がすべてをなしてくださるだろう。しかしそれは、神に献身した人によって進められる。神は完全にささげきった人によってご自身の力を現されるのである。なまくらな心では神の働きは務まらない。無能であってもよいが命をかける覚悟はしよう。

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