創世記24章

サラがヘブロンで死んだ時、アブラハムとイサクの二人は別の地、ネゲブに住んでいた(23:2、24:62)。これはアブラハムとイサクが行商をしていたためであろう。イサクは40歳で、まだ独身であった。アブラハムは、最年長のしもべを呼び出し、イサクの嫁探しを始めた。そこでアブラハムは一つの方針を示している。それは、同郷の者との結婚である(4節)。イサクの妻となるべき女性は、カナン人であってはいけない。「生まれ故郷」に拘ったのは、考え方や習慣を同じくする意味があるのだろう。いわば、信仰を同じとする意味もあったようだ。信仰は、一つの考え方であり、価値観である。外国では信仰の違いは、家庭を築く際に大きなものとして意識されるのだが、日本人の場合はあまり重視されない。仏壇も神棚も一緒に受け入れるような混合主義的な文化では、無理もないことだろう。
だが聖書的に見れば、信仰を持つことは、神の前に生きることを意識し、やがて神の前に立つことを覚えながら歩むことで、その逆は、神を求めず、神なき世界で完結して生きようとすることに他ならない。天の栄冠を目指して生きる者と地上の名誉を目指して生きる者とでは生き方のベクトルが真逆で、その差は、時間とともに明らかになる。アルプスに降り注ぐ雨は、日本海側に降ったものは日本海へ、太平洋側に降ったものは太平洋へと最初の差は1メートルであっても、最後の結果はまったく大きな差となるのと似ている。かといって、すでに結婚してしまった場合、またその差を感じて苦しんでいる場合にはどうしたらよいのか。ペテロは言う。「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」(1ペテロ3:1)。神の恵みは深い。このような結婚もまた主のご計画の内にあると受け止めて、伴侶のために信じ祈っていくことなのだろう。
さてアブラハムのしもべが、結婚相手を見定める方針が興味深い。それは、「配慮できる人物」かどうかを見ることであった(14節)。アブラハムのしもべは、判断のポイントとして、自分に水を飲ませてくれるだけではなく、自分が所有するらくだにも水を飲ませてくれる女性、つまり「親切でよく気がつく女性であるかどうか」に注目している。結婚というのは、二人だけの出来事ではない。結婚の際に多くの人は二人だけの関係、つまり相性が合うかどうかを中心に考えるのであるが、実際の結婚生活は、二人が持っている様々な関係を巻き込んでいく。そして結婚の争いのもとは、しばしば、相手方の両親や兄弟との関係であったりする。だから、そういう関係に配慮できる人を結婚相手と選ぶのは知恵あることなのだ。
また、らくだが飲む水の量は半端ではない。アブラハムのしもべは、贈り物を携えていたとある。らくだの数も相当なものであったことだろう。しかし、リベカは、「泉に降りて行き、水がめに水を満たして、そして上がってきた」(16節)とあるように、リベカはただ単に配慮のできる女性ではなく、何度も坂道を上り下りして、他人のらくだのために水を汲んで飲ませるほどに、忍耐強い仕事のできる働き者であった。女性にとって幸せのポイントは結婚相手が怠け者ではないこと、口先の人間ではないことと同様に、男性にとっても、何事にも一生懸命、忍耐強く取り組み、仕事をきっちりこなす女性は、結婚相手として考慮すべき大事なポイントである。ある老女が「光りものの好きな男は止めておけ」と言っていたことを思いだす。外見に心を惑わされるようでは失敗する。表面ではなく、その人が持っているものをしっかり見定めることだ。
最後に、このしもべの信仰の歩みに注目しよう。彼は、ある意味で、無理難題を負わされたも同然の旅に出ている。しかし、彼は負わされた十字架を素直に受け入れ、神の助けを求め、旅の間、神を見上げ、神の導きに目を注いでいた。そして、52節、彼は、自分の旅を導き、目的を遂げさせてくださった神を覚え、神を礼拝している。すべてを備え、整え、導いてくださるのは神である。チャレンジと思えるすべてのことにおいて、主がしてくださることを、「黙って見つめる」(21節)そんな霊の目を養うこととしよう。

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