創世記26章

 イサクの生涯が描かれる。イサクの住む土地に飢饉が生じた。カナンの地に住む人々が、エジプトへ移住し、飢饉を逃れるということは、当時よくなされることであった。しかし、神はエジプトへ逃れようとするイサクをとどめ、ゲラルの地に住むように命じた。そしてその地において祝福すると約束されるのである。
 だがその地は、イサクにとって簡単に主の祝福を信じられるような土地ではなかった。
というのも、身の安全を脅かされる場所だったのである。土地の人々は、イサクの妻に興味を抱いていた。それでイサクは、ゲラルに住んでいる時に、土地の人々が自分を殺さないように、リベカを自分の妹であると偽ったという。アブラハムの物語とよく似ている。もちろん別物として理解すべきものなのだろう。むしろ、罪が世代循環をすることを示すよい例である。私たちは良くても悪くても、家族と共に過ごした過去の影響の中にある。家族の離婚、死別、性的・精神的虐待、依存症、破産、裏切り、あるいは成功といった過去の影響を強く受けている。血筋は争えない。だからこそ、神の子として新生することは、過去の影響を打ち破る決定打として作用する。新しい人生を得ようとするならば、新しい命が必要だ。普通に考えれば、生物学的に親の胎から生まれれば、親によく似た性質を持った子として育っていくだろう。しかし、罪を悔い改め、イエスを受け入れることによって、神の力による新しいいのち、心、品性が備えられていく。神の子として天の父の性質を宿し、神の柔和さ、聖さ、愛に生きる力を与えられていく。もはや古い世代循環が終わり、新しい世代循環が始まる歩みの中に入れられるのである。さらに教会という新しい家族を与えられていく。キリストの十字架の血縁による新しい家族の一員とされ、そこで新しい影響を受けながら育つ祝福に与るのだ。
 イサクは、まさにアブラハムのその祝福の継承者であった。そして、こうした新しい命に生きる祝福は、彼を通して地の全ての民に分かち合われるのである(4節)。神がアブラハムに約束されたことばがそのまま、イサクにも繰り返される。しかもこれが逆境において繰り返されたことの意義は大きい。約束は確かなのである。
さてイサクは、主の計らいによって、その地に留まり祝福を得た。彼はエジプトへ下ることも可能であった。いやエジプトに下った方が彼にとっては、本当に安心できたはずである。しかし、彼は神のことばを信頼し、その地に種を蒔き、その祝福の実を得た。イサクが不安を覚える状況の中で、主を信じたことは明らかである。確かに、自分の判断によらず、主の言葉に従う者を主は守られる。
イサクを襲った第二の試練において、イサクの行動は、ロトと争いを避けたアブラハムを思い起こさせてくれる(17、22節)。成功の秘訣は、神のみことばに聞き従うこと、争わないこと、つまり主の祝福の豊かであることを信頼すること、とアブラハムとイサクの例を通して繰り返し語りかけているようである。確かに、神の恵みは豊かである。よい土地を横取りされても、神はイサクを新しく祝福された(24節)。
神に従う道は、平穏無事な毎日とは限らない。信仰を持てばよいこと尽くめになるわけではない。むしろ、争いごとに巻き込まれることもあるし、人の悪意に立場をなくすることもある。そして争うのもやむなしこともしばしば、ということもあるだろう。実際イサクは祝福されたとは言うが、その味わった苦労も大変なものである。彼は水のない土地へと追い出され、自ら新しい井戸を掘り起こさなくてはならなかった。こうして先に父が築き失われていた古井戸を掘り起こしたのだが、そのことでも争わねばならなかった。しかしたとえそのようなことがあっても、恵み豊かな神を信じて、神に従う時に、主の祝福の約束は変わらず、返って敵対する者が私たちに歩み寄って来るようにしてくださる、というのがこの物語ではないか。アビメレクは、イサクの人生の歩みの中に主の祝福を見た。そして契約を結ぼうとした。考えられない力の逆転が生じている。
主と共に歩む人生は、私たちの想像を超えた人生へと私たちを歩ませていく。だから、不安や思い煩いの一切を主にゆだね、主の約束を掲げ祈り、どのような祝福へと私たちを導いてくださるのか見ていくことにしよう。恵み豊かな主に従うことが最善である。

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