哀歌1章

哀歌1章 素直に敗れを受け止める

おはようございます。今日から哀歌に入ります。節数からしてこれが技巧的なアルファベット詩であることは、予測がつくことでしょう。実に重要な、深く心に留めるべき詩です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神のみこころに沿った悲しみを歌う詩

ヘブル語の旧約聖書をギリシャ語にした70人訳聖書では、その序文に、「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが荒廃して後、エレミヤは座して泣き、エルサレムのために哀歌を歌って言った」と記されています。そのため、この哀歌は、伝統的に、エレミヤによって書かれたものと考えられてきました。既に私たちは、52章にわたる、エレミヤの預言を読んできたのですが、エレミヤはその預言通りの結末になった状況に接して、悲しみの歌を歌ったと言うわけです。しかしそれは単なる嘆きや後悔を歌っているのではありません。使徒パウロが言うように(2コリント7:10)、救いに至る悔い改めを生じさせる、神のみこころに沿った悲しみを歌うものとなっています。それは、いのちを与える重要な詩ですから、誰もがこれを記憶し、歌うことが期待されたのでしょう。各章は、ヘブル語の22のアルファベット順に冒頭が揃えられた、実に技巧的なアルファベット詩となっています(3章は3節ごとにアルファベット順となるので66節)。

2.打ち破れた女エルサレム

エルサレムは女王にたとえられている。その女王は、1-11節では、三人称単数で描かれ、今や見捨てられ、寂しく座っている。まるでやもめのように、悩みさすらっている。彼女に残されたのは、過去の繁栄の記憶だけである。しかし、その記憶が濃ければ濃いほどに、痛みも深い。今の打ち敗れた悲惨さが、身にしみてくるというものなのだろう。9、11節、12節以降、彼女の心の悩みが、一人称で言い換えられている。というのも、既に述べたように、これが、読者が自らの罪を告白し、神に祈る書とされるためでした。いわゆる「呪いの詩篇」が、神の前に正直になり、私たちの怒りの感情が取り扱われる効用を持つように、哀歌は、罪に打ち破れた者が、詩人とともに、回復の祈りを祈ることを助けるのです。

4節「シオンへの道は喪に服し」、既に昨日理解したように、彼らが巡礼の旅を楽しみ、目指したエルサレムの神殿は破壊され、そこにあった祭儀用の器物は跡形もなく没収され、失われて、彼らの礼拝も安息も取り去られたのです。しかしそれは、彼ら自身の罪のため、神に背を向け、神を捨て去った罪の故でした(8節)。その結果なんと惨めな状況に陥ってしまったのか。「卑しい女(11節)」「荒れすさんだ女」、「病んでいる女」(13節)詩人は自らの現状を、様々に言い換えています。

コロナ禍にあって思うことは、今や教会は、人集めのイベントから解放されて、まさに礼拝と祈りという教会の本来的な機能を守ることに集中させられていることです。しかし、果たしてこの礼拝と祈りは、どれだけ大切にされ、神に喜ばれる献身的なものとして守られて来たのでしょうか。いよいよ霊とまことによる礼拝と、まことのとりなしの祈りが盛んになり、そのことのゆえに教会が注目され、人を引き付ける時を過ごしたいものです。

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