詩篇101篇

101篇 神の家族であること

おはようございます。神の家族がどのようなものであるのか、私たちがどのような交友関係を持ち、どのようなお付き合いを大切にすべきか、を考えさせられる詩篇です。はっきり言ってクリスチャンも色々、神の助けの中で、よき交わりを求めていきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

ギリシャ語七十人訳聖書では、第四巻の大方はダビデの作と解釈しているが、実際には、捕囚期後の編集であるとされ、ダビデの作とされるものは少ない。そこにヘブル語聖書においても「ダビデの賛歌」と表題が残っており、ダビデが作ったことを否定しえない詩篇がこの101篇である。おそらく、ダビデが王位に着いた初期のもの、ちょうど、オベデ・エドム家に安置された契約の箱を取り戻そうとした時に書かれ(2サムエル6:9-11)、捕囚帰還後、再発見され、編集、収集されたと考えられている。宗教改革者ルターは、ドイツ語訳に「ダビデの、統治者たちの鏡」と表題を付けたとされる。

さて、ダビデは、サウルの宮廷での経験や、それまでの様々な経験の中で、自分自身がきよくなるばかりか、家庭の中でも、王宮の中でも、皆が、神の御心にかなった歩みがなされることを願った。実に家庭が全ての出発点である。

2.家庭の中で全き心で生きる

「私は、全き道に心を留めます。…私は、家の中を、全き心で行き来します。」まずダビデは、自らが家庭の中で、全き心で歩む決意をしている。家庭は、一番「我」の出やすいところである。ありのままに自分を出しやすいところだろう。自分が罪人であるのが一番わかる場所は家庭である。家族は正直であるし、ごまかしはきかない。そのような中で、自己中心さを捨てて、すべての悪から遠ざかろうというわけである。陰で人を中傷するようなことがあれば、それを拒否する、それは出来なくもないかもしれないが、家庭にすら宗教的偽善を持ち込みかねない、紙一重の行為である。つまり、真実に「全き心」でむことが大切なのであって、神の前で聖い歩みというのは、単に罪を犯さないということではなくて、まさに、真に「全き心」を持って歩む、神の前での正しさが生活ににじみ出てくるような歩みをすることなのだろう。「全き心」は、ヘブル語では「ベタム」、新共同訳では「無垢な心」、口語訳では、「直き心」と訳されている。完全、全体、無罪を意味する。世の中矛盾だらけで、うそ偽りの心を持つ人は多いが、自分自身は、完全な心を持つ、無罪の心を持つ、そのように認められるような歩みをする、それがダビデの願いである。

3.全き心の者たちとの交わりを求める

さらにダビデは、「私の目は、この国の忠実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために(6節)」と語る。つまり自分のみならず、同じような志を持った者たちとの交わりを求めている。実に教会はそのような場と言うべきだろう。教会は神を礼拝する民の集まりであるが、その特徴は、別の言い方をすれば、神の前に完全無垢な心を求める者たちの集まりである。彼らは、卑しいものから遠ざかり、曲がったわざ、つまり偽りや不正から距離を取ろうとする(3節)。また、陰口を聞く者、そのような者を友としない。奢った、高ぴしゃな話し方をする者とも連れ添わない(5節)。嘘を言ったり、簡単に人を裏切るような人たちを寄せ付けない(7節)。教会はそのような場であるのだから、道理や道義に背くような者は、その門をくぐらせることはないのである(8節)。ただ、そのような思いがありながらも、その張本人となってしまったのがダビデである。願っていることがありながら、気づいてみればそれとは全く反対のことを行ってしまうことがあるのが罪人だろう。「いつあなたは、私の所に来てくださいますか」(2節)。神の助けなしに、このような崇高な願いにすら自ら近づくことができない現実を弁えながら、信仰の道を歩ませていただこう。

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