1列王記19章

エリヤは、王妃イゼベルに仕える異教の預言者を捕らえ、キション川に連れ下り、そこで彼らを殺した。ところが、これを知ったイゼベルは、悔い改めるどころか、激しく怒り、エリヤへの殺意を燃やし、エリヤを殺そうとする。エリヤはイゼベルに差し向けられた使者のことばに恐れて立ち上がった。どういうわけだろう、それまでは、ただ一人、神以外の何物をも恐れず、力強く神の裁き司として立っていたエリヤが、すたこら逃げ出してしまうのである。現実的に考えてみると、神の御名をかざす以外は、何も持ちえない、丸腰の弱い自分を思い知らされるところがあったのかもしれない。エリヤは自分の死を願った。こんな脅威にさらされ続けるよりは、早く死んでしまいたい、というのだろう。エリヤは一転して負け犬になってしまう。だが誰もエリヤを笑うことはできない。エリヤもまた「私たちと同じような人」(ヤコブ5:21)だからである。

神を味わいながら、神を見失う、こういう弱さが私たちにはある。あのバプテスマのヨハネも、ヘロデに捕らえられ獄中に長く閉じ込められている内に、大胆にイエスをメシヤとして紹介した自分に自信を失っている。獄中からイエスに遣いを送り、あなたこそ来るべき方なのか、と確認させている。神の御名を呼び求めながら、神に祈りながら、神を信頼しきれずにいる私たちの現実がある。だが幸いなことに、神は、そういう弱い私たちを決して見捨てられることがない。ただ単に、強き者、信仰的な者にのみ力を現される神ではなく、弱い人間と心を交わし、励まし、これを導かれるお方である。

多くの人は、自分の経験の中で、神をイメージしており、聖書のまことの神の姿を理解しようとしない。世の中には、うまく仕事をすれば評価されるし、失敗すれば外される。そういう緊張関係の中で、始終上司の顔色を伺いながら行動することがあるだろう。けれども、神はそのような関係をよしとするお方ではない。むしろ優しい身内のようである。つまり、私たちのよさも悪さもみな分かった上で祝福を約束してくださる方である。

だからエリヤが自分のいのちを救おうと逃げ出し、その途上疲れはて、座り込んで死を願った時に、神は、エリヤが大胆で勇敢で従順な勝利者であった時と変わらぬ心遣いを示されている。かつて神は、アハブを恐れなかったエリヤに、ケリテ川でパンと水を与えられた。そして今、イゼベルを恐れ逃げ出し落ち込んでいるエリヤにも、同じようにパンと水を用意されている。神の愛と真実さはとこしえに変わることがない。エリヤは天来のパンで力づけられ、次の導きへと出てゆく。

エリヤは神の山ホレブへと着いた。ホレブは、イスラエル人には霊感を得る場所として知られていた。風、地震、火これは、いずれも神の顕現の象徴的現象である。しかし、そのたびに記者は「その中に主はおられなかった」と言う。主がおられたのは声としてである。神は、私たちに態度を変えられないばかりか、声を聞かせてくださるお方である。つまり、私たちに必要な助言を与え、導かれるお方である。そして一人では立てないと語るエリヤに強力な助け手を起こされた。まことに生きておられる神に信頼して歩ませていただこう。

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