2コリント人への手紙4章

パウロは、先の3章で新しい契約に仕える務めの素晴らしさを語った。それは、律法に心を責められ苦しみ、悲しむ者に対して、キリストにある新しいいのち、救い、を伝える素晴らしい働きである。本来パウロは、そういう働きにはふさわしくない者であったが、ただ神のあわれみによってその働きを任じられた。そんな自覚をもてばこそ、いいかげんなこともできないし、忠実に応える他はない、というのがパウロの考えである。パウロは、まさに目に見えない神の前で、振舞うことを意識した人間である。

ただ、そのように、良心的に宣教者として歩みつつも、救いに応答する人は、少ないことがある。耳を傾けてくれない人がいたりするものだ。パウロは、その理由について語る。それは、聞く者の側に原因がある、と。問題はパウロの宣教にあるのではなく、この世の神に思いをくらまされて、福音を拒む者の頑なな心なのであると。

実際、5節、パウロは、自分にいかなるやましい動機もないことを強調する。おそらく、パウロは使徒として、自分自身の権威や重要性に腐心して、福音宣教に熱心なだけである、という批判があったのだろう。しかしパウロは、キリストの主権が確立されるように仕える者に過ぎない、と自分の立場を明らかにする。というのも、キリストを知ればそうならざるを得ない、からだ(6節)。パウロは、ここでコロサイ人の手紙(1:15-20)のようなキリスト論を展開することはしていないが、目が開かれてキリストの圧倒的な素晴らしさを教えられるなら、この栄光に満ちたキリストの素晴らしさを純粋に語らざるを得ない、と考えているのである。

確かにキリストの素晴らしさに比べたら、私たちは、土の器に過ぎない。当時の市場では、ほとんど価値のない、ただ同然の値段で売られていた土の器に過ぎないのである。私たちは、キリストという宝を、土の器の中に入れている。しかしそれ自体が重要なのだ、という。というのも、私たちの福音宣教で実を結ぶとしたら、それは、私たちの力ではなく、神から出たものであることが明らかとなるためである、と。パウロは、福音宣教において徹底して、目に見えない栄光の神の存在を意識し、その働きを意識している。だから、たとえ自分が弱められようとも、死に至らせられようとも、神のいのちが自分の弱さを通じて、死を通じて伝えられるのだ、と断言する。

重要な点ではないか。私たちは自分が弱められれば、もう自分の働きはダメである、と考えやすい。もっと力があれば、もっと能力があれば、といつでも思いやすい。しかし、力がなくても、能力がなくてもよい。それは、神の素晴らしさがいよいよ現れるためなのだから。だから背伸びせず、ありのままに、純粋に、自分に委ねられた福音を伝える努力をすればよいことになる。そして自分が死に直面するような危険にあったとしても、それは、イエスを証する最高の機会である、とする。何か12節は、ピリピ人の手紙1:21「私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」を思い出すことばである。実際、このコリント人への手紙第二が書かれたのは、エペソでの投獄や、獣と戦った経験(1コリント15:32)もまだ記憶に新しかった頃である。パウロは、迫害の困難の中にあって、どんなに死に瀕しようが、それが、いよいよ、キリストの復活のいのちの可能性を増すばかりであることを語る。

こうしてコリント人への手紙を読む時に、いかにパウロが、福音宣教に注力していたかを思わされるところがある。パウロは目に見えないものに注意を向ける。それは、ただ見えるものに対して本質的に見えないものではなく、今は見えているものに対して、やがて見えて来るはずの見えないものへの注意である。キリスト教信仰というのは、ビジョンの信仰である。ただ見えないものではなく、見えて来るものにこそ心を留めて行く必要がある。それこそ私たちの希望である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です