イザヤ書59章

なぜ、神の助けが来ないのか。それは「主の御手が短い」からではない。「その耳が遠い」からでもない。罪の故だとする。罪が私たちと神との間の隔てとなり、神の約束の成就を遅らせている、という(2節)。58章では、イザヤは私たちに罪の現実があることを指摘した。ここ59章では、その罪が私たちに対する神からの祝福の障壁となっていることを指摘している。本来は神の尊い働きにささげられるべきものであるのに、自分の欲望を満たすためにひたすら使われ、盗みをし、人を打ち叩きもする手。神を賛美し人を励ますものであるのに、嘘、偽りを語り、毒を吐く口(3節)。神に近づくためにあるのに、快楽と遊興を求めて彷徨い歩く足(7節)。イザヤが使う代名詞は、5-9節では、「あなた」から「彼」へと変化する。それは、三人称を使い、罪の現実を客観視して語る、預言書の詩文的な側面の現れなのだろう。また、10節以降、一人称の「私たち」へ変化するのは、自らも罪人に含め、自らの罪を直視する真摯な預言者の姿を物語っている。
罪ある現実と、その悪循環の中で、私たちは神に出会うことも、神の祝福も見いだせないでいる(9節)。そうであるからこそ、神は、私たちに危害を加える者を罰することもない。私たちの罪が、神の前で、不利な証言をし、私たちが神の祝福を受けることを妨げるからだ(12節)。私たちの行いは、どこまでもついてきて、私たちを訴え、神の哀れみから遠ざけようとする。
「主は人のいないのを見、取りなす者のいないのに驚かれた」(10節)。そのような罪人の状況に向かっていく人がいない。罪人のために、神の御前でとりなす者がいない。これは罪の悪循環を繰り返す人間いとっては、実に絶望的な状況ではないだろうか。
後半の17節からは、神の二つのイメージが対照される。すなわち、裁き主としての神と、贖い主としての神である。イザヤがここで強調するのは、悔い改めることの重要さである。神は怒るだけの神ではない。正しいだけの神でもない。神は、裁き主であると同時に贖い主であるが故に、「ご自分の御腕で救いをもたらし」ということを可能にする(16節)。そして「そむきの罪を悔い改める者のところに来る」(20節)。
神は約束する。「今よりとこしえに離れない」(21節)。神は、私たちの罪を指摘するだけではない、これから積極的に救いだそうとする。ただ後ろ指を指して、批判しているだけではない。私たちに追いついて、駆け下りて、その罪から救い出そうとする。私たちは、いつも聞かされてはいる。神は罪の悔い改めを求めていると。しかし、神は知っておられる。私たちが、悔い改めることも、立ち返る事もできずにいるのみならず、私たちのためにとりなし、神に向かわせる者が誰もいないことを。そのことに驚いておられる。そして自らを遜らせて、私たちのもとへと駆け下りて、悔い改めを助けようとされておられる。さらに語られる。「私は今よりとこしえに離れない」この神を信じよう。悔い改めを求める神ではなく、悔い改めを助けられる神を信じていこうではないか。神は愛である。

イザヤ書58章

1節、「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ」(1節)わかっているようでわからないのが自分の罪である。それは、語られ、指摘されなくては、気づかないことがある。角笛のように耳を突き刺す如く。57章の偶像礼拝の罪に続いて、偽善の祈りと断食について語られる。「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。どうしてそれを認めてくださらないのですか。」(3節)自分では熱心に神に従っていると思う。奉仕も、ささげものも、誰よりも多くしていると思っている。しかしそれは、つもりなのであって、実際はそうではない。形式的なものであり、神に対する愛もささげられた心もない祈りである。ただ見せかける断食である。神を愛するが故に、時を忘れ、神とともにある断食ではない。

そういう意味では、私たちの礼拝はどういうものだろうか。礼拝という形は整っていても、そこに心がなかったとしたら、そのような礼拝が神に受け入れられるのだろうか。毎回、神に出会う礼拝とはいうものの、神には全く出会わず終いの礼拝もある。神に対する恐れも、崇敬もない礼拝がある。「これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか」(5節)と改めて問われるならば、恥ずかしい限りの現実があったりする。

8節、不思議な「そのとき」である。神の前に整わない心を持つ状態にあるそのとき、神は、あなたの心を光で照らし、速やかにその心を癒してくださる、という。形式と偽りで固められ、そのことにすら気づかずにいる者が、主のみことばに聴いて、信じて従うなら、そこに新しい命が注がれる、という。8節の「あなたの義」は、もちろん人間の義ではあるはずがない。神が与えられる義のことだろう。神の義が私たちの導きとなり、守りとなる、ということだろう。

大切なのは、信仰というのは、気づきが無ければ始まらないことでもある。神の恵みと憐れみによって自分自身の罪に気付かされる、自分が抜け出すべき愚かさの現実に気付かされる、そしてそこから抜け出す力を主が与えてくださることに気付いていく。

11節、「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」罪を指摘するだけではない、正しい道を歩む力を与えてくださる主がいる。主の恵みと愛と熱心さにこそ、私たちは気づかねばならないし、心を向けなくてはならない。神は祝福の神である。

だが、その祝福を受けるには、やはり私たちの決断と行為も必要なのだ。それは、単なる禁欲主義でも、体裁を整える形式主義に逆戻りすることでもなく、善を行わせてくださる神を認め、神を信頼し、神に喜んで聞き、従おうとする心をまず持つことである。そうすれば、やがて行いも付いてくる。そして神は確かに「地の高い所」(申命32:13)を歩ませる祝福を与えてくださることだろう。主に従おう。

 

イザヤ書57章

56:9からの続きである。神は呼びかける。「貪欲な犬ども」「悟ることも知らない牧者」本来ならば、イスラエルの民の魂を見守り、養い導くはずの指導者が、その務めを怠り、自分の利得を求め、怠惰に酒色に耽っている。「義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない」(7:1)悩ましい時代である。義しい人、誠実な人が報われるわけではない。善と悪が戦えば、善ではなく悪が勝つ時代である。宗教的にも政治的にも不誠実な時代が語られる。
5節、「あなたがたは、谷や、岩のはざまで子どもをほふっているではないか」これは、子どもを犠牲としてささげるモレク崇拝と関係のある指摘である。6節「谷川のなめらかな石がお前の分け前」これも当時の偶像礼拝の行為を指している。谷川の水際、あるいは水無川にある石に、油、ブドウ酒、穀物をささげて拝む土着信仰があった。そしてしばしばそれは、性的な戯れと結びつく行為となった。9節では繰り返し、人身犠牲を行うモレク礼拝がイスラエルの脅威になっていたこと、また霊媒に頼る民の姿が描かれる。結局、真の神に対する恐れがない時に、宗教的な混迷は避けられないのである。
人が人として扱われず、神が神として認められない時代があった。しかし、イエスの時代もまた同様であった。真の牧者が滅びることをよしとし、正義が踏みにじられることに無関心であった時代である。歴史は繰り返すのである。
イザヤは、そんな時代であればこそ、私たちに語り掛ける「わたし」を代弁する。そして真の神である「わたしに従う」人生と、偶像に従う人生の違いを語る。また15節、真の神がどういう方であるかを明確に語る。第一に、真の神は、「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方」である。神は至高なる方、永遠性を持ち聖なる方である。しかし同時に、「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」と至高性の中に踏ん反りかえっている方でもない。イエスがそうであったように、地の低さに降りてこられ、人の中に住み、人の苦しみをつぶさに経験された方である。それは、「へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」目的を持っていた。「へりくだった」は、誰かに低くされたことを意味する。「心砕かれて」も、逆境によって、あるいは何かの重荷によって砕かれている状況を意味する。つまり低くされてしまい、自分も世間も見捨てるような者に神は目を留められる。その衰えた生命力を再び燃焼させ、再び正しい判断と行動へと導くためである。
16節「わたしはいつまでも争わない」神は、ご自分を捨て去った人に、背を向けるのではなく、むしろ自ら関係を回復させようと、遜って近づいてくださるお方である。私たちを癒そうと、言ってくださるお方である。そのようにしてくださる神がおられる。人間は、何よりも霊的な存在である。そうであれば、正義と誠実さと愛に満ちた人生を生きることが祝福でもある。神の霊の祝福の中にこそ生きる道を見出したいものである。

イザヤ書56章

批評的な立場の読み方からすれば、第三イザヤと呼ばれる部分に入ることになるが、このブログでは、全体的に統一性のあるものとして、この箇所をイザヤが書いた預言として読んでいくことにする。実際その方が信仰的に得るものが大きい。

そこで注目されるのは、神の懇ろな愛の告白である。ある意味で恋人を口説くかのように、熱心に神がご自身の愛について語っている。しかも、それは、「外国人」「宦官」に対する愛である。神は言う。「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。」(56節)。外国人も、宦官も、元来は、主の集会には加わってはならないとして、忌み嫌われ、排斥されていた者たちである(申命23:1)。しかし、神は、そのように思い込んでいてはいけない、むしろ実子よりもあなたは愛されている、という(4,5節)。

新約聖書の使徒の働きには、この箇所を読んでいた宦官の物語がある。宦官は、その職務上、去勢された者たちであった。そういう者たちは、神の恩恵に与ることができない、と当時の人達は考えた。彼は明らかに差別され、否定された人生を生きていたのであり、そうであればこそ、魂の飢え渇きもあり、この箇所に目も留めさせられたのであろう。「ああ、私は枯れ木だ」と言ってはならない、救いをもたらす「苦難のしもべ」がいる、これは一体何を言っているのか、彼は思いめぐらしていた。そこにピリポが現れ、イエスの福音を知らせる(使徒8:34)。ピリポはまさに神に遣わされた伝道者であり、語った。イエスこそが、自分は除かれた者、神の恵みに死せる者と諦め、落胆していた外国人や宦官を主の会衆に加えてくださるお方である、と。

ただ主の会衆に加えられる別の意味での信仰的な条件がある。主に連なること、主に仕えること、主の名を愛すること、安息日を守り、契約に堅く立つこと、そして祈りを楽しむことである。

ここで取り上げられる外国人や宦官は象徴的なものだろう。というのも、私たちは皆、主の集会に加わってはならない者である。まさに神に忌み嫌われるような人生を歩んできた者である。神に対する無神経さ、忌まわしさ、浅ましさを持つ。自分の胸に静かに手を当てて、心の中を正直に覗くなら、そんな現実の一端を思わされるはずだ。神に呪われはしても祝されることはない者ではないか。しかし神は言う。「言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。「ああ、私は枯れ木だ」と。あなたは言ってはならない、あなたはそのような者ではない、と懇ろに語り迫られる神がいる。大切なのは、主を認め、主との交わりが許されていることを楽しみ、主を愛し、主に仕えることだ。目には見えないが、確かに私たちに寄り添い、私たちを愛されている方がいる。私たちは一人ではない。神に愛されている。

9節以降は、神の群れに敵対する者達、具体的には、イスラエルの指導者たちに対する叱責のことばである。彼らは善悪を区別することができず、危機に会っても警告することができない。

イザヤ書55章

イザヤは、呼びかける。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。」水、穀物、ブドウ酒、乳は、すべて霊的な罪の赦しと祝福の象徴として語られている。それらは皆ただで与えられる。というのも、主のしもべであるキリストがそれらの代価をすでに支払ったからである(53:5、12)。

人は、真に自分を満たさないもののために、お金を費やすものだろう。お金を稼いでは、様々な遊興、レジャーや嗜好品に費やすが、それは決して人を満たすことはない。一層飽くなき欲求の悪循環に陥るのみである。発想を変えてみよう。人間の根本的な欲求は、神によって、しかも無代価で与えられる、とイザヤは言う。神の前に出て、聞く(3節)、ただその一つの行為、つまり神とよき時を過ごすことによって、人の魂はこよなく満たされる、という。確かに、イエスも語った。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37,38)人の心を真に満たすものは、キリストのいのちであり、永遠の命を約束するみことばである(ヨハネ5:24)。

イザヤは悔い改めを呼びかける(7節)。悔い改めは悪を前提としている。私はそんな悪を指摘されるような人間ではない、だからこんな呼びかけは関係がない、と思うかもしれない。しかし、考えてみよう。私たちの当たり前が当たり前ではないのだ。遊興と嗜好に耽るだけの生き方に何の正しさと善があるだろうか。私たちがこの世に生み出された目的は、ただ自分を楽しませるだけではないはずだ。人は互いに手を取り合い、支え合って生きていかなくてはならない。

人間は神がこれを造られた目的を理解し、その目的に沿って生きるべきものである。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる」(8節)と語る神と、その思いを知るためによき時を過ごすことが、人間にとって決定的なことである。また、天はどれほど高いのか、と言われれば、それは測定不可能である。神の思いも測定不可能であり、知り得ぬことを心得つつ、神に従うことが大切である。

今の自分の人生が、いばらやおどろで満ちている、と思われることがあるかもしれない。そうであるとしたら、そのような人生は、もみの木とミルトスに満ち溢れる人生と変えられる、と言う。ミルトスはてんにん科の植物であり、何かよいことめでたいとこがあると装飾に用いられるので、「祝いの木」とも言われる。だからおどろの代わりにミルトスが、というのは、死とのろいに代わっていのちと緑の祝福がということだ。神を認め、神を呼び求め、神の思いと道に生きる人の人生はそのようになる、という。神は気休めに物事を語られることはない。神に信頼してもよい所以である。

ここで語られていることは、もはやバビロン捕囚からの解放の恵みという歴史的出来事を超えている。それは、明らかに罪の赦しとキリストにある神との和解の恵みを語る。広く時代を超えて今の私たちに直接適用できる、神の祝福への招きがある。