イザヤ書61章

イエスが公の宣教活動を開始し、ナザレの会堂で、朗読した箇所である(ルカ4:18)。イザヤの預言は、捕囚からの解放を前提としている。しかし、イエスは、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と宣言し、このことばを、捕囚期ではなく、自分の時代に適用した。しかも、イエスがそのようにしたのは、イスラエルがローマ帝国の属国となっていた時代である。つまり、イスラエルが政治的に解放されたわけでもないのに、このことばが実現している、という。となれば、イエスは明らかに政治的な解放を意味してこのことばを適用したわけではなかった。むしろ、個々の内的な救いを意図している。私たちの解釈もイエスの解釈を援用するものである。
既に神は、一人一人の悔い改めを導くお方であることが語られた(59章)。しかしここに至ってイザヤが語っているのは、悔い改めた民の新しい歩みを導く神の熱心さである。
当時の人々は、悲しい出来事があれば灰を被り、その悲しみを表現した。しかし、神はその灰を、飾りに変えてくださるという。悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに、賛美の外套を着けさせる、という。「樫の木」は、青々とした生気と強さの象徴である。イザヤは言う。「廃墟を建て直し、荒れ跡を復興する(4節)。「荒れ跡を一新する」「あなたがたは、恥に代えて二倍のものを受ける」(7節)。大切なのは、イザヤが語り、イエスが実現したというこのことばをどう受け止めるかである。悲しみ、憂い、恥じ、苦しみのどん底にある時には、なかなかこのことばが受け入れられないことがある。しかし逆に、本当にどん底にある時に、このことばが素直に受け入れられ、力を感じることもあるだろう。人間の心は不思議なものである。天邪鬼にならずに、素直に向かい合いたいところではないか。
ただ、具体的にどういう意味かを考えたい。イエスの時代に適用された、ということは、その日常性に適用されたことなのか。それとも、あくまでも終末的な意味で理解すべきところなのか。10節の「救い」も「正義」も原語のヘブル語ではツェダカーである。つまり同義語的に使われている。救われるということは、神の義が明らかにされること、神の正しさが貫かれることに他ならない。となれば、それは終末的にも今の時代のこととしても捉えることができるだろう。神の救いが起こるということは、私たちの願うことがそのまま起こるというわけではない。私たちは、どうしてもこうあらねば、私にとっては救いではない、と思う頑固さがある。しかし、神の義が行われることであるとするならば、心を低くして、神が、どのようにこの廃墟を、ご自身の熱心な愛によって建て直されるのか、神のなさることを見ることが大切である。神の恵みが私たちの生活の内にどのように実現するのかは、わからない。しかし、確かに私たちに救いは起こる、と信じる。神はすでに良き業を初めておられる。種は蒔かれた。芽を出し、実を結ぶのは先である、と信じていく。それが私たちに求められていることである。神に希望を持ち続けよう。