イザヤ書62章

何もかもすべてが駄目になった時に、人は一体どのようにして望みを抱くことだろうか。駄目になったものにいつまでも拘り続けていては、何の望みを抱くことはできない。しかし、そこに何か思いがけず新しい動きが出てくるなら、人は、何かを期待することができる。「あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう」(2節)この言葉の意味には深さがある。というのも、聖書において神は、初め天地創造の神として現されているからだ。そして天地創造の神は、「ことば」としてご自身を現しているからだ。神が「光りよ、あれ」と語れば光が生じる。無に有が生まれる。神のことばには力があり、何も存在しないところに何かが興り、形を現すのである。その神が、私たちに「新しい名」をつけるという。新しい名で呼ばれるということは、新しい存在となり、人々に新しい認識を持たれるようになる、ということだ。

人の評価は、なかなか変わらない。一度レッテルを貼られると、それをはがすのは容易ではない。しかし、神はご自身の口でもって「新しい名」をつけられる。新しい評価を与えられる、新しい見方を与えてくれる。あなたはもう「見捨てられている」とも言われず。「荒れ果てている」とも言われない。むしろ、「わたしの喜び」「夫のある国」、「主の喜び」と呼ばれるようになる。「若い男が若い女をめとるように」というのは、まさに若い男が若い女に夢中になるように、ということではないか。花婿が花嫁だけに意を注ぐように、あなたは大事にされるし、価値ある者とされる。だから、「黙っていてはならない」。期待を持って祈れという。自分自身が無とされたと思わされる中で祈り続けることは大変な苦痛である。私たちはへこみやすく、打たれ弱い。しかし、そんなあなたの祈りは、覚えられているのだから「黙り込んでいてはならない」という。

また、イザヤは、言う。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。」私たちの労苦が決して無駄にはならない、ということだろう。しばしば、私たちの労した実が他人に取られ、私たちは残りカスを集めていると思わされることがあるものだ。しかし神は、決してそのようにならないと誓われる。労した実は、労した者が第一に受け取るべきである。公正さを示す神が、私たちに誓うのである。私たちの報いの根拠は、強運でも、誰かの熱心なとりなしのおかげでも、私たちの苦行にあるのでもなく、主の誓いにある。私たちに公正さを示し、誓いを立てる主の存在を覚えるべきところではないだろうか。

「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」(11節)。 もうすでに報いは用意されている。もう備えられている。なすべきは、ただ、当たり前に日々を歩んでいくことなのだろう。食物が水と太陽の光を得て、刻々と静かに成長していくように、置かれた場にあって、背伸びもせず、競いもせず、ただひたすら主の恵みを愛を感謝し、主を信頼して、歩むこととしよう。