イザヤ書63章

エドムは、死海の南に位置する。ボツラは、その主要都市であり、エドムの王ヨバブの出身地である。もともとヤコブの兄エサウに起源を発し、隣接するユダの人々には友好的ではなかったので、神の都シオンに敵対する勢力の象徴とされた。だから「ボツラから深紅の衣を着て来るこの者」というのは、神に敵対する暴虐のエドムを、正しく裁かれる方のことで、その方が激しい怒りを持ってエドムを滅ぼすことを語っている。イザヤ書34章の再述であり、同時に黙示録19:13に描かれた最後の審判者イエスを思い浮かばせる内容だ。

7節からは、「わたし」が「私」になり、主であり、神である「わたし」に対して、信仰の代表者である預言者の「私」が、神のあわれみを請う祈りをするのであるが、この祈りが現代日本人クリスチャンの祈りとなることに驚かされる。

まず信仰者は、主の大いなる恵みを感謝する。主が報いてくださったすべてに感謝をささげている。主は、私たちが苦しむときには、いつもともに苦しんで、私たちの救いとなってくださるお方である、と。「主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」と。ある方が子ども時代の思い出話をしてくれた。足を捻挫した時に、祖母が、近くの川から採って来た鰌を開いて、足の裏にぺったり貼り付け、足が痛いと泣きわめく自分を背中に背負って子守歌を歌いながら慰めてくれた、と。乾燥した鰌の臭い匂いを今でも覚えている、と。戦後当時は、医者も薬もなかった。しかし、それは、何もできない中で最善を尽くしてくれた祖母の愛の匂いであった。

私たちは神がいれば、何でもすぐに物事が逆転する、物事が奇跡的に展開していく、と考えてしまう。しかし、詩人が回想するように、紅海を切り開くモーセの時代は現実なのかと思うこともあろう。何もしてくれない神に躓く思いになることはある。しかし、何もしてくれないが、深い愛と心配りをし、私たちの苦しみを共に感じておられる神がいる。

14節以降は不思議なとりなしの祈りである。「天から見下ろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください」ネパール、ブカ村、あるいはモンゴルのダタルの満点の星空が連想される。大切な強調は、アブラハムに星空の祝福を約束された神の私たちに対する熱心さにある。新改訳は、「私へのたぎる思いとあわれみ」と訳す。私自身という個に対する、神のたぎる思いとあわれみがある。しかもこれがユダヤ人の祈りではなく、異邦人の、つまり現代日本の私たちの祈りそのものと思わされるのは、16節「たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です」というくだりである。アブラハムに対する星空の祝福は、アブラハムが知りようのない私たちに対しても然りである。罪と不信によって神に背を向けるイスラエルに代わって、とりなし続ける信仰者が、望みを置くべき確信は、たといアブラハムが知らずとも、私たちもまた、星空の祝福を約束され、また、主のたぎる思いとあわれみを向けられている者であることだ。子に愛情を示し、痛みを共に痛んでくださる神に期待し、同朋のために祈る者でありたい。