イザヤ書65章

先のイザヤの祈り(63-64章)に対して、神が応答している部分である。イスラエルという民族的な枠を超えて、悔い改め、謙虚に主を呼び求める者たちすべてに対する、約束が語られる(1節)。本来は、イスラエルの民にこそ、与えられる祝福であった。しかし彼らは、神に従わず、偶像礼拝に陥り、律法を守らず、その心は神から遠く離れて生きていた。神はそのようなイスラエルに対して厳しい裁きを告げられると同時に、神を求め続ける者には、祝福を宣言される。大切なのは、主を求めるか、主を捨てるか、私たちはいずれかで神に計られる。私たちの身につけたものによってではない。生まれによってでも、財産によってでも地位によってでもなく、ただ、神を求めるか、神を捨てるか、その態度によって、私たちに対する神の祝福がどうであるかが決まるのである。ただ、それは、必ずしも、信仰者として模範的な生き方をしているかどうかを意味しているわけではない。むしろ、神の哀れみに寄りすがって、主に従って生きているかどうかである(13、14節)。

自分が何者であるかのように思うと、いつも、神は私に何もしてくれないと思うものだろう。しかし、自分が神の前に無に等しい者であると思えばこそ、神に求め続けることが赦されていることへの感謝を抱くことができる。「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福される」ということの意味は、無である自分に対する神の全き恵み、哀れみを覚える時にこそ祝福のことばとなる。

神は言う「先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠される」(16節)「まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(17節)。私たちはいつでも、これまでの苦難、これまでの出来事を思い出しては落胆している。過去の記憶に引きずられている。そんな状況でどんな祝福がありうるだろうか。曲がったものは、真っ直ぐにできない、というが、まさに、曲がりきって、よれてしまった人生に、希望を抱くことができない、ことがある。しかし神は言う。「わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」神は創造の神である。無から有を生み出す神である。神を信じていても、そこに期待を抱くのでなければ、神を求めていることにはならない。まさに、無に等しい者、罪人の頭であって何のよきも期待しえない者に神がそう言ってくださっているのだから、そのことばをそのまま感謝して受け止めたいところだろう。実に、神を信じることは、勇気とともに謙遜さを得てこそ、できるものである。

25節、象徴的な書き方である。「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い」神が与えられる祝福は、物に豊かになる、何かを所有するというものではなく、何か時を共有することにある。争いもなく、平和で静かな時を永遠に共有する、それこそが私たちの最善である。神を求め、日々その静かな祝福の中に、いな永遠の先まで味わうことのできるような祝福の中に歩ませていただきたいものである。