イザヤ書66章

イザヤ書は、黙示録と重なる興味深い書である。黙示録も、基本的に新しい出エジプトを語るものであり、終末のビジョンを指し示して、希望を与えている。

さて66章は、65章に続いて神の応答であるが、結論部分として、神の至高性を歌い上げ、神の祝福を受ける者と、裁きを受ける者が対比されて語られる。まず1節、私たちが信じるべき神は、天地創造の偉大な神であるが、遜り、心砕かれ、主のことばにおののく者に、目を留める恵みの神である。大切なのは、ただ遜るだけではない。打ち叩かれて絶望的な思いになっている者に神は目を留められる。だから「主のことばにおののく」というのも、主のことばを唯一の拠り所として生きようと願い、真摯に従おうとする態度について語っている。パウロは、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(ピリピ2:12)と語ったが、神のことばに恐れ従う態度が、私たちの生活に形作られていくことが、霊的な成長なのである。

だが、人間は、やはり罪人であるし、そういう基本がいつまでもできないでいるような者だろう。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。」(12節)。おおよそ罪人にはふさわしくない神の優しい、恵みのことばに、素直に応じて、感謝し受け止めていきたいところではないか。

イザヤは語る。「陣痛を起こすと同時に子らを生んだ」と。神の恵みは、一瞬にして起こりうる。イスラエル回復の恵みは、ある日突然起こって来る。それは、子どもの誕生を喜ぶ、平和と喜びの日になるだろうと。確かに、捕囚からの帰還もそうであったし、出エジプトも、急に神の業として物事が動いていった。長いイスラエルの歴史の中で、虐げと、苦しみの時が続く時代があったが、神が何事かを成される時は、大きく変化を遂げることがある。人の目にはあり得ぬことが、形をなす、それが、神を信じる恵みに与ることでもあるのだろう。

「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように。」(22節)初めの天地創造は、神の目によいものでありながら、やがて人間の堕落によって失われてしまった。しかし、第二の創造は、いつまでも永遠に続くものとある。ここには、終末的な示唆がある。罪と不信にまみれた私たち自身と社会の現実の中で、新しい業をなしてくださる神に対する期待を失わず、おそれおののいて、自らの信仰を完成させていくことが、私たちの務めである。神のことばを受け止めていく謙虚さが必要だ。今日も神のことばを深い信頼を持って受け止めさせていただこう。