創世記27章

かつてリベカが体内で争う子どものために神の御心を求めた際に、神は「兄が弟に仕える」という御旨を明らかにした。神はエサウではなくヤコブを選び、アブラハムの祝福を受け継ぐ者とされた。それは、ある意味で不公平のようでもある。神は、この世の秩序を無視して、主権を振りかざす、横暴な主人のように思わされるところだろう。
しかしそうではない。というのも神は、ご自身の祝福を与えるにあたり、この世の秩序を無視することはないのである。実際、兄のエサウは物質的には、父の祝福をそのまま受け継いでいる。父の祝福を受けそこなったのはヤコブである。そして後に、弟ヤコブが家族と共に、父の家に戻ろうとした際に、兄のエサウは、400人の僕を連れてこれを迎えるまでに、豊かな暮らしをしていた。兄のエサウが弟のヤコブに譲ったのは、約束の地に住まう祝福である。
だから神が主権的に与える霊的な祝福は何かと言えば、それは約束の地において、ヤコブを祝福されることであり、約束の地は、人が見捨てるようなところ、あるいは譲るような土地であれ、神が祝福するといったその場において祝福されることに他ならない。そういう意味では、天において何の祝福があろうか、と思うようなところに、確かに神の素晴らしい祝福があることにもなる。神は祝福されると約束されたところにおいて祝福を用意し、また私たちを通して、他の人々をも祝福されるのである。
当時、口頭による祝福は重要なものと見なされた。だから一度口にしたことが、たとえ自分の意図に反していたとしても、それは法的な効力を持つと考えられた。ヤコブが父を欺いて祝福のことばを得た時も、イサクが自分の祝福のことばを取り消すことができなかったのはそのためである(創世記27:23)。
しかしながら、このエピソードでは、誰もがその祝福の意味を取り違え、振り回されていたことに注意すべきである。ヤコブだけが、あまりにも人間的に器用に動いたと考えられやすいが、人間的に動いたのは、兄も両親も同じである。すでにエサウは、長子の権利を放棄していたのだから、イサクの祝福を得ようとするのは、自分の誓いを破ることである。父イサクもまた、予め神のご計画があることを知りながら、お気に入りのエサウを祝福しようとし、神の計画を妨害した(29節)。実際イサクの祝福の祈りも、子のために繁栄を祈る祈りに終始し、本来の霊的な祝福、つまり約束の地での祝福と、ヤコブを通して他民族に祝福が及ぶように祈るものではなかった。またヤコブは父イサクを積極的に欺いたが、その行動も、母リベカの入れ知恵なくしてはありえなかった(27:5-10)。リベカもまた駆け引きをし、勝利したのであるが、不当のそしりを免れ得ない一人である。こうして家族四人皆が、祝福ということばに振り回されてそれぞれの複雑な思惑で動いている。実にこの世的な家族の醜聞と言えばそれまでであるが、神の祝福を物欲的に考えて行動した結果があった。
さらに、イサクは、父アブラハムのように、自分の祝福を受け継いだヤコブの妻について心配することもなかった。イサクはヤコブを見捨て、家から追い出したのである。だが、こうした混乱を通しながらも神の偉大な計画は進んでいく。イサクの偏狂な対応が、計らずして、ヤコブを、アブラハムが幻で告げられた親族のもとへと送り出し、ヤコブの信仰を刷新し、妻を得させることになったように。実に神は、人間社会に起こるどろどろの罪の争いを通しながらも、主の素晴らしい御業を推し進められていく。
既に述べたことであるが、神の祝福の意図するところは、バベルののろいを出発点としている。それは、ヤコブの一家が相争うもとになった物質的な祝福ではなく、散らされた諸民族がアブラハムを通して一つとされる祝福である。世界が回復され和合して集うことを我が人生の目標とし、担う祝福である。物質的な祝福への拘り、思いとは違う次元の話である。そのようなものに執着するのではなく、主のビジョンに共に立つ者であろう。

創世記26章

 イサクの生涯が描かれる。イサクの住む土地に飢饉が生じた。カナンの地に住む人々が、エジプトへ移住し、飢饉を逃れるということは、当時よくなされることであった。しかし、神はエジプトへ逃れようとするイサクをとどめ、ゲラルの地に住むように命じた。そしてその地において祝福すると約束されるのである。
 だがその地は、イサクにとって簡単に主の祝福を信じられるような土地ではなかった。
というのも、身の安全を脅かされる場所だったのである。土地の人々は、イサクの妻に興味を抱いていた。それでイサクは、ゲラルに住んでいる時に、土地の人々が自分を殺さないように、リベカを自分の妹であると偽ったという。アブラハムの物語とよく似ている。もちろん別物として理解すべきものなのだろう。むしろ、罪が世代循環をすることを示すよい例である。私たちは良くても悪くても、家族と共に過ごした過去の影響の中にある。家族の離婚、死別、性的・精神的虐待、依存症、破産、裏切り、あるいは成功といった過去の影響を強く受けている。血筋は争えない。だからこそ、神の子として新生することは、過去の影響を打ち破る決定打として作用する。新しい人生を得ようとするならば、新しい命が必要だ。普通に考えれば、生物学的に親の胎から生まれれば、親によく似た性質を持った子として育っていくだろう。しかし、罪を悔い改め、イエスを受け入れることによって、神の力による新しいいのち、心、品性が備えられていく。神の子として天の父の性質を宿し、神の柔和さ、聖さ、愛に生きる力を与えられていく。もはや古い世代循環が終わり、新しい世代循環が始まる歩みの中に入れられるのである。さらに教会という新しい家族を与えられていく。キリストの十字架の血縁による新しい家族の一員とされ、そこで新しい影響を受けながら育つ祝福に与るのだ。
 イサクは、まさにアブラハムのその祝福の継承者であった。そして、こうした新しい命に生きる祝福は、彼を通して地の全ての民に分かち合われるのである(4節)。神がアブラハムに約束されたことばがそのまま、イサクにも繰り返される。しかもこれが逆境において繰り返されたことの意義は大きい。約束は確かなのである。
さてイサクは、主の計らいによって、その地に留まり祝福を得た。彼はエジプトへ下ることも可能であった。いやエジプトに下った方が彼にとっては、本当に安心できたはずである。しかし、彼は神のことばを信頼し、その地に種を蒔き、その祝福の実を得た。イサクが不安を覚える状況の中で、主を信じたことは明らかである。確かに、自分の判断によらず、主の言葉に従う者を主は守られる。
イサクを襲った第二の試練において、イサクの行動は、ロトと争いを避けたアブラハムを思い起こさせてくれる(17、22節)。成功の秘訣は、神のみことばに聞き従うこと、争わないこと、つまり主の祝福の豊かであることを信頼すること、とアブラハムとイサクの例を通して繰り返し語りかけているようである。確かに、神の恵みは豊かである。よい土地を横取りされても、神はイサクを新しく祝福された(24節)。
神に従う道は、平穏無事な毎日とは限らない。信仰を持てばよいこと尽くめになるわけではない。むしろ、争いごとに巻き込まれることもあるし、人の悪意に立場をなくすることもある。そして争うのもやむなしこともしばしば、ということもあるだろう。実際イサクは祝福されたとは言うが、その味わった苦労も大変なものである。彼は水のない土地へと追い出され、自ら新しい井戸を掘り起こさなくてはならなかった。こうして先に父が築き失われていた古井戸を掘り起こしたのだが、そのことでも争わねばならなかった。しかしたとえそのようなことがあっても、恵み豊かな神を信じて、神に従う時に、主の祝福の約束は変わらず、返って敵対する者が私たちに歩み寄って来るようにしてくださる、というのがこの物語ではないか。アビメレクは、イサクの人生の歩みの中に主の祝福を見た。そして契約を結ぼうとした。考えられない力の逆転が生じている。
主と共に歩む人生は、私たちの想像を超えた人生へと私たちを歩ませていく。だから、不安や思い煩いの一切を主にゆだね、主の約束を掲げ祈り、どのような祝福へと私たちを導いてくださるのか見ていくことにしよう。恵み豊かな主に従うことが最善である。

創世記25章

 アブラハムは晩年に、もうひとりの妻ケトラをめとった(1節)。一見サラ亡き後に再婚したかのような書き方であるが、そうではない。アブラハムの年齢からすればケトラによってさらに6人の子どもを産んだというよりは、ケトラがサラ存命中に「そばめ」とされたと考えられている。つまりこの記録も、「あなたは多くの国民の父となる」(17:4)という起源を説明するものとして加えられているのであろう。ミデヤンは、北アラビヤの民族であり、後にモーセがこの地に逃れることになる。聖書は、常に選びの神の民をテーマに、伏線を引きながら先へと話を進めている。
 さてアブラハムは、やがて迎える死の備えを忘れない(5,6節)。アブラハムはイサクに全財産を与えた。それは主の契約を継承する信仰の行為であった。また死後、不要な相続問題が起こらないようにする配慮もあったのだろう。ケトラの子どもたちには贈り物を与え、存命中にイサクから遠ざけていく。イサクはアブラハムの相続を受け継ぐ約束の子であった。イシュマエルはアブラハムの子として同じ祝福を受け継ぐ子ではあったが、相続を受け継ぐ子ではなかったのである。それはちょうど神がすべての者に恵みの雨を降らせ、よい人も悪い人も同様に取り扱ってくださるもの、イエスにあって、神を信じる神の子は、約束の子、相続を受け継ぐ子として特別に扱われるのと同じである。 
アブラハムの一生は175年。主の約束の成就としてアブラハムは「平安な老年を迎えた」。また「長寿を全うして息絶えて死」んだ。長寿を全うするというのは、「満ち足りて、人生を堪能して死ぬ」という意味である。アブラハムは、信仰によって生き抜き、信仰の勇士たちに加えられた(ヘブル11:8)。人間にとってどのように生きるかと同時に、どのように地上の生涯を締めくくるかも重要である。最終的に人は業績や働きによって評価されるのか、それとも、その人の存在そのもの、つまり持てる品性と信仰によって評価されるのか、神を知る者にとって、大切なのは、後者の方である。12節「息絶えて死に、その民に加えられた」とまとめられるイシュマエルの人生は、特段の業績も品性も評価されえず生涯を締めくくる多くの人の生き方を象徴しているようである。
 19節よりイサクが、中心人物となって語られる。イサクがリベカと結婚したのは、40歳の時であった。イサクはあらゆることにおいて祝福されていたが、世継ぎの子はなかなか与えられなかった。イサクは子が授かることを期待した。そして20年の時を待たされていく。イサクは妻のために祈願した、という。不思議なことである。神は約束されるが、約束が成就するために祈願の時を設けられる。それは、人がこのようにして、全能の神を覚え、神を生活の中心としていくことを学ばせるためなのだろう。
 神は祈りに答え、イサクには双子が与えられた。そしてリベカの祈りに答えて兄が弟に仕えると予告される。生まれた子は、エサウとヤコブと名付けられ、その性格も対照的であった。イサクは二人のうち、エサウを愛するようになった(27節)。一方リベカはヤコブを愛するようになった。それは、多分に感覚的なものであったのだろうが、リベカには、神の約束を思う思いもあったのではないか。
そんなエサウがある日、いつものように腹をすかして狩猟から帰った。「食べさせてくれ」は、「飲み込ませて」の意味で、荒々しい言い方であるとされる。後にヘブル書では、エサウは俗人として評価されているが(ヘブル12:16)、それは、一杯の食物と引き換えに、長子の権利を売ってしまったばかりか、そこに隠された霊的な意味を軽んじたためである。長子の権利は、二倍の財産の分け前を受けることができた(申命21:17)。そしてこの権利を売ることは、当時としては珍しいことではなかったようであるが、アブラハムの家系においてそれは、霊的な相続を意図する特別なものであった。創世記の著者がアブラハムの物語を書き連ねるにあたり、私たちがそこに学ぶのは、アブラハムの神観の拡大である。アブラハムがいかに神と深い交わりと関係を持つに至っていくかを教えられる。同じように、ヤコブもまた、アブラハム、そしてイサクの正統な霊的遺産の継承者として、神との交わりの深まりを聖書から教えられるのである。具体的にそれは、ヤコブが、兄のかかとを掴むところから始まり、逃れ、仕え、羊を飼い、主と戦い、主に勝つ者となった、という霊的な変遷に見ることができる。それは、ヘブル12章にある霊的遺産の継承者にも見られる私たちの模範でもあるのだ。エサウは、軽率であったし、霊的なものを大事にしなかった。神の定められたことは、時が至れば実現する。しかし、神の定められた祝福を手にするか否かは、私たちの神に対する積極的な応答による。

創世記24章

サラがヘブロンで死んだ時、アブラハムとイサクの二人は別の地、ネゲブに住んでいた(23:2、24:62)。これはアブラハムとイサクが行商をしていたためであろう。イサクは40歳で、まだ独身であった。アブラハムは、最年長のしもべを呼び出し、イサクの嫁探しを始めた。そこでアブラハムは一つの方針を示している。それは、同郷の者との結婚である(4節)。イサクの妻となるべき女性は、カナン人であってはいけない。「生まれ故郷」に拘ったのは、考え方や習慣を同じくする意味があるのだろう。いわば、信仰を同じとする意味もあったようだ。信仰は、一つの考え方であり、価値観である。外国では信仰の違いは、家庭を築く際に大きなものとして意識されるのだが、日本人の場合はあまり重視されない。仏壇も神棚も一緒に受け入れるような混合主義的な文化では、無理もないことだろう。
だが聖書的に見れば、信仰を持つことは、神の前に生きることを意識し、やがて神の前に立つことを覚えながら歩むことで、その逆は、神を求めず、神なき世界で完結して生きようとすることに他ならない。天の栄冠を目指して生きる者と地上の名誉を目指して生きる者とでは生き方のベクトルが真逆で、その差は、時間とともに明らかになる。アルプスに降り注ぐ雨は、日本海側に降ったものは日本海へ、太平洋側に降ったものは太平洋へと最初の差は1メートルであっても、最後の結果はまったく大きな差となるのと似ている。かといって、すでに結婚してしまった場合、またその差を感じて苦しんでいる場合にはどうしたらよいのか。ペテロは言う。「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」(1ペテロ3:1)。神の恵みは深い。このような結婚もまた主のご計画の内にあると受け止めて、伴侶のために信じ祈っていくことなのだろう。
さてアブラハムのしもべが、結婚相手を見定める方針が興味深い。それは、「配慮できる人物」かどうかを見ることであった(14節)。アブラハムのしもべは、判断のポイントとして、自分に水を飲ませてくれるだけではなく、自分が所有するらくだにも水を飲ませてくれる女性、つまり「親切でよく気がつく女性であるかどうか」に注目している。結婚というのは、二人だけの出来事ではない。結婚の際に多くの人は二人だけの関係、つまり相性が合うかどうかを中心に考えるのであるが、実際の結婚生活は、二人が持っている様々な関係を巻き込んでいく。そして結婚の争いのもとは、しばしば、相手方の両親や兄弟との関係であったりする。だから、そういう関係に配慮できる人を結婚相手と選ぶのは知恵あることなのだ。
また、らくだが飲む水の量は半端ではない。アブラハムのしもべは、贈り物を携えていたとある。らくだの数も相当なものであったことだろう。しかし、リベカは、「泉に降りて行き、水がめに水を満たして、そして上がってきた」(16節)とあるように、リベカはただ単に配慮のできる女性ではなく、何度も坂道を上り下りして、他人のらくだのために水を汲んで飲ませるほどに、忍耐強い仕事のできる働き者であった。女性にとって幸せのポイントは結婚相手が怠け者ではないこと、口先の人間ではないことと同様に、男性にとっても、何事にも一生懸命、忍耐強く取り組み、仕事をきっちりこなす女性は、結婚相手として考慮すべき大事なポイントである。ある老女が「光りものの好きな男は止めておけ」と言っていたことを思いだす。外見に心を惑わされるようでは失敗する。表面ではなく、その人が持っているものをしっかり見定めることだ。
最後に、このしもべの信仰の歩みに注目しよう。彼は、ある意味で、無理難題を負わされたも同然の旅に出ている。しかし、彼は負わされた十字架を素直に受け入れ、神の助けを求め、旅の間、神を見上げ、神の導きに目を注いでいた。そして、52節、彼は、自分の旅を導き、目的を遂げさせてくださった神を覚え、神を礼拝している。すべてを備え、整え、導いてくださるのは神である。チャレンジと思えるすべてのことにおいて、主がしてくださることを、「黙って見つめる」(21節)そんな霊の目を養うこととしよう。

創世記23章

 サラは、聖書において年齢や埋葬されたことが記された唯一の女性であるという。127歳で死んだサラのために、アブラハムは、「悼み悲しみ」泣いたという。「悼み悲しみ」はヘブル語でサーファド、胸を打って悲しむ、の意味である。アブラハムに復活の希望はなかったのだろうか。いや、復活の希望を語られたイエス・キリストでさえ、友ラザロの死においては、涙を流している。罪の結果である死に際して、悲しむことは自然なことである。自分の悲しみや痛みを偽らないことである。神の臨在のもとに十分悲しめば、気持ちも整理されて、イエスによって語られた復活の望みを受け入れる準備もできるからだ。
本来ならば、何の希望も起こらないところであろうが、キリストのいのちに生かされているなら、復活の望みに心を寄せることができる。人間は、肉体と魂を与えられて、この地上に存在させられるようになったのであるが、再び神は、人間に、新しい体を与えて、ご自身の御国に迎え入れてくださる(1コリント15:38)。このような信仰の確信に立つことは、自らの力ですることではない。神がそのような確信に立たせてくださる、神の恵みの業に与ることである。私たちにできることは、神に対して自分の悲しみをあるがままに一切合財、語ることだろう。そうすれば、神が恵み深く、私たちの心を不思議な形で取り扱ってくださり、永遠のいのちの希望に心が溢れるようにしてくださる。そして、死者のそばからたちあがる力を与えてくれる。死は、永遠のいのちに至る門である。人間は死んで終わりではない。永遠に生きる者であり、復活によって、神の前に立つ。そのような意識で今日一日を歩むならば、それは流して終わるような一日にはならない。
アブラハムは、サラのために私有の墓地を所有した。墓地は、人間が確かに生きた証となる。そして、これまで半遊牧民族の生活をしていたアブラハムが、ここで、初めて法的に、約束の地に所有権を持ったことに注目したい。神の約束は果たされた、ということでもある。
アブラハムが妻を葬ったヘブロンは、エルサレムの南南西30キロ、海抜約1000メートルの丘稜地帯に位置する、もともとはキルヤテ・アルバと呼ばれ、水が豊かでぶどうの名産地とされる。アブラハムの時代には、ヒッタイト人が住んでいた。ヒッタイト人を巡っては様々な説がある。しかし、アブラハムの時代、いわゆる族長時代のヒッタイト人は、パレスチナの先住民族であったらしい。ともあれアブラハムはその地に住むヒッタイト人エフロンから、銀400シェケルで墓地を買ったという。シェケルは、最もよく使われた度量衡の単位であり、三種類のシェケルがあった(王のシェケル:1シェケル約12.28グラム、通俗のシェケル:1シェケル約11.38グラム、聖所のシェケル:約10グラム)。通俗のシェケルで計算するとだいたい、4,552キロ。これは驚くべき高額であるとされる(舟喜、p182)。「それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう」(15節)とは言うものの、裕福なアブラハムにとってもどうでもよい額ではなかった、と言うわけだ。しかし、アブラハムはそれでも値切ることはしなかった。それは、約束の地をも儲かりものとして得るのではなく、相当な理由で手にすることをよしとしたからなのだろう。
大切なことは、人は、損得を考えやすい。楽をして儲けられたらよいと考えやすい。しかし、それが間違いのもとである。人間、ただ金を使ったり、それに乗っかったりするようになったら堕落である。アブラハムは、たとえ神の約束であっても、それは人間が正当な代価を払って得るものであると考えた。私たちの信仰の祖がそのような考え方をしたことに感謝したい。「顔に汗を流して糧を得」(3:19)る。そんな一日としよう。