レビ記25章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。
今日はヨベルの年について、それは、安息と土地の返却と奴隷の解放という三つの要素を持つ、イスラエルが、彼らの人生の祝福は、出エジプトがそうであったように、主の憐れみと恵みにかかっていることを思い起こす、大切な年として定められたものです。原則は私たちにとっても同じことでしょう。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ヨベルの年
 聖書には七の生活リズムがある。一週間毎の安息日に加えて、七ヶ月目の贖罪の日、そして七年毎の安息日というように。イスラエル人は、六年間農耕し、七年目には完全に休耕するように命じられた。その休耕の年が安息年である。この年、貧しい者はその土地に自然に生えたものを自由に食べてもよく、イスラエルの奴隷は解放され、負債はすべて取り消された。それは、土地が人のものではなく、「神のもの」であることを教えるためであった。
 安息年を七度重ねた49年目の翌年、つまり50年目はヨベルの年と呼ばれた。ヨベルは「雄羊の角」という意味で、この年の第七月の10日に角笛を鳴り響かせるところからその名がつけられた。そしてその本質的な意味は、かつて神の民がエジプトにおいて束縛されていたこと、抑圧的体制の犠牲者であったが、神の奇跡的な力と助けによって解放され、出エジプトをしたことを思い出すためであった。彼らは神によって自由な者となり、神の恵みの中に置かれ、神との契約関係によって神の民とされ、他国の者とは区別された、いわゆる彼らが犠牲となった周辺諸国の物質主義には屈しない生き方へと入れられたのである。だから五十年に一度の、神によって定められた時によって、すべて束縛されたものを解放することによって、彼らは、人はパンのみによって生きるのではなく、神のあわれみをもって生きることを実践することを教えられたのであった。奴隷の解放、そして財産の処分、土地の休閑といった全ての行為はそういう目的を達成するものであり、彼らはこの期間を簡素な生活を営み、かつて荒野という環境の厳しさを生き延びた時に必要とされた肉体と精神との原則を思い起こさせられたのである。
(1)安息
この年に、まず畑を休ませなくてはならない。それは、農耕の視点からすれば土地に対する賢明な方策であり、人にとっては喜ばしい余暇であった。しかしながら、安息年を七度重ねた49年目も、畑を休ませなくてはならないから、ヨベルの年には2年連続の安息となる。この定めを聞いて、「何を食べたらよいのか」と不安に思う者に対して、神は、「六年目にあなたがたのために、わたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる」(25:21)と約束していることに注意を払わなくてはならない。
 というのも、人の生活は、理屈で成り立つものではない。やはり神が私たちを守っておられる、支え導いておられる。だが人は往々にしてそういうことを忘れて自分で何とかして生きていると思いこんでいるものだ。
(2)土地の返却
しかし、土地は神のものであり、人はその借地人である。神がすべての源であり、私たちはそれを受けるだけである。私たちは神に機会を与えられているに過ぎない。だから安息を守る時間を惜しんで、仕事や勉学に精を出しても、その結果を出されるのは神であることを忘れてはいけない。イエスも、神の国とその義とを第一に求めるように教えられた(マタイ6:33)。神は祝福の神である。神を仰ぐことを忘れたクリスチャンに祝福はない。神が休みなさいと言われた時には素直に休み、すべてが神にかかっているかのように生きていくところに、祝福がある。安息はまさに、神を信頼する民を育てる意義を持つ。ただ、この土地の返却が実現しなかったことは、イザヤ(5:8)やアモス(2:6)ら、BC8世紀の預言者の宣告によってわかることである。
(3)奴隷の解放
 ヨベルの年は、束縛されている者を解放することを基本の思想とする。それは歴史的に、神の民がエジプトにおいて束縛され、抑圧されていたにも関わらず、神の奇跡的な介入によって解放されたことを思い起こさせる。だから、売却されていた土地も、自動的に売り主のもとに復帰する。負債は免除され、負債のために奴隷となっていたイスラエル人も解放される。この年、こうして奴隷も、財産も土地もすべて解放された。このために利益追求一辺倒の努力は、一時中断され、歯止めをかけられる。土地が返され、人が解放されることで、貧しい者はいつまでも金持ちに搾取されていることはなく、神のものは正しく分配されたのである。人も土地も神に属するものであって、人のものではない。人はすべてを正しく管理するように忠実な管理者として、所在させられていることを忘れてはいけない。
北米のフィラデルフィヤにあるインデペンデンス・ホールには、合衆国独立の時に鳴らした自由の鐘があるが、その鐘には、このレビ記25章10節からの引用「国中のすべての住民に解放を宣言する」が刻み込まれているという。種々の抑圧、不正に弱り果ててはならない。神は出エジプトならず、私たちの歴史において、正しい民を繰り返し解放されてきたからである。ヨベルの年は理想の教えではなく、私たちの現実に働き公儀を行われる神を覚える時である。
そしてこのヨベルに、私たちの未来の希望である真の安息も予表されている。ペテロは言う。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」(1ペテロ1:5)世の終わり、完全な安息の時が来ることを私たちは予告されている。この地上においては、罪が邪魔をし、ヨベルの年が守られることはないかもしれない。しかし、神の定めは永遠であり、神は、私たちを必ず休ませてくださる。必ず解放し、取り戻し、祝福してくださる。だから神の国と義を第一にし、神がすべての所有者であることを覚え、今日も機会に巡らせてくださる神に感謝し従わせていただこう。

レビ記24章

24章 御名を冒涜する罪と罰

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。「目には目を、歯には歯を」キリスト教信仰を持っていない人でも、よく口にすることばが、この箇所にあります。イエスはこの言葉を引用して、さらにその本来の意図がなんであるかを教えておられます。考え方をよく理解しておきたいところですね。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 24章は、祭司の聖所に関する三つの重要な働きが取り上げられる。
1.祭司の聖所に関する働き(24:1-12)
 第一に灯火をともし続けること(1-4節)。オリーブ油には燈火用、植物用、油注ぎ用の三種類があり、灯火用のものは、純粋なオリーブ油を絞ることによって得られた。その油を主の前に夕方から朝まで、つまり夜通し灯し続けるのである。聖書では、金の燭台は主なる神の臨在(ゼカ4:2、11)、教会(黙1:12-13)、忠実な証人(黙11:4)の象徴とされる。つまり、それは、キリストの救いを指し示す光である。キリスト教ラジオ番組の「世の光」放送は、その昔「暗き世の光」としてスタートしたという。まさに万人祭司と言われる今日においては、キリスト者すべてに、神の臨在とキリストの救いの光を証し続けることが求められている。
 第二に、パンを供えること(5-9節)。安息日毎に、12個の輪型のパンを焼く。そのパンは非常に薄く、厚さ約1.2センチ、指一本分の厚さで、長さは約70センチ、幅は約31センチと大きなものである。これが純金の机の上に置かれたという。机の大きさは、幅約90センチ、奥行約45センチであるから、おそらく、鏡餅のように6枚重ねて二列に置かれたのだろう。パンは毎安息日ごとに用意され、古いパンは、祭司の食用とされたが、祭司の家族が食することはできなかった。神が12部族を身体的、霊的に養われることの象徴とされた。さらに言えば、12部族が、神に代わって全世界を養うようになることの象徴である。
2.御名を冒涜する罪(24:10-23)
最後に御名の栄光を守ること(10-23節)。神の御名が冒涜された一つの出来事が取り上げられている。法規的な話が続く中で、唐突な感もしないではないが、一つ一つの戒めは、私たちの日常性に関わるものとして、理解すべき事例である。
人が神を冒涜した場合には、その罪を問われる。それはモーセの第三戒を侵すことであり、神をのろうことの償いは死とされる。それは、事前に計画された殺人行為に等しい罪とされた。つまり神を冒涜することは、意図的に人を殺すことと同様に極刑に値する罪と考えられたのである。神は象徴的な存在でも、便宜上の存在でもない。目には見えないが人格を持ち実在している。そのような神に対する冒涜は、神を否定することに等しい。イスラエルの民は、自分の子どもたちが神を恐れるように育てることを期待された。
 20節「目には目、歯には歯」いわゆる同害報復の教えとされるものである。報復は同じ程度のものでなければならない、という意味で一般には理解されている概念であるが、聖書がこの考え方で強調しているのは、報復行為において限度を超えてはいけないという点である。一時流行ったことばに「倍返し」というものがあった。人には、やられたらやり返すどころか、やられた以上にやり返す心があるものだ。報復はエスカレートするものである。しかしそのような心を持ってはいけない。報復する時には、限度を弁えなくてはならない、正しい裁きが優先されなければならない、と言っているのであって、やられたらちゃんとやり返しなさい、と私的報復を正当化しているわけではない。つまり、この教えは、報復に強調があるのではなく、罰を与えるにしても、そこに厳正で適正な正義がなければならない、ということを言っている。だから、後にイエスは、この教えを取り上げて、「目には目を、歯には歯を」と聞いているだろうが、「悪い者には手向かってはいけない。右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」と語っているが(マタイ5:38-48)、それは、人間の本質を深く洞察する新しい提案である。つまり人間は争い易い罪の心を持っているのだから、人間に正義はありえない。人間は必要以上の報復を与えてしまうものだから、報復や罰を語っているところに適正な裁きはありえない。もし正義がありうるとしたら、報復を超えた愛に立つ以外にない、ということを言っている。人間は自分たちが自覚する以上に罪深い性質を持ったものである。謙虚にそのような性を覚え、神の愛に立つ歩みへが促されいるのであり、積極的な善を示すためには、そこには聖霊による新生の恵みが必要なのである。
 大切なのは、これが、神の裁きを語る文脈の中で語られていることだ。イスラエルの民は、シェロミテの息子が神を冒涜する事件のために、主の命令を待ったとされる。モーセではない。主の裁きを待った。そういう流れの中で神は、誰が見ても納得するふさわしい刑罰をくだされた。だからシェロミテの息子が侵した罪は、ただ単に口先だけのことではなく、神を否定したのである。彼の罪は神の前で、神に対してなされた、ということである。その罪に対して神は正しい裁きをなされた。神の前にあることを意識して、神と共に歩む人生がある。聖書を読み、聖書に従って生きるというのは、そういうことではないか。ともすると神なき、世俗の中に自分を置きやすい私たちの罪深さを覚えたいものである。

レビ記23章

23章 主の例祭

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。本日の箇所は、ユダヤ人の祭りが定められているところです。今もこの祭りは祝われており、キリスト者は、その本質的な意味を十字架のキリストにある救いと結び合わせて、別の形で守るようになっています。主の晩餐やペンテコステがそうです。その意味をよく理解しておきたいところです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 「主の祭り」「主の例祭」と呼ばれるイスラエルの祝祭日について。まず遵守すべき第一の行事として週ごとの安息日が取り上げられる。神が創造のみわざを休まれ、これを聖なる日とされたことに倣うものである(創世2:3)。その日は、全ての仕事をやめ、全ての祝福の源である神を仰ぎ、神と共に休み、神を礼拝することを喜ぶ特別な日であった。安息日は、汚してはならないもの(民数15:32-36)、どの時代も尊崇されるものとして守られた(イザヤ56:2,4、エレミヤ17:21-27、エゼキエル20:14-24、ネヘミヤ10:31、13:15-22)。後の時代、安息日は、単に会堂で礼拝がなされる時としてではなく、律法が朗読され研究される時となり、さらに律法学者によって詳細多岐にわたる安息日遵守の規定が定められ、それが守られるようになった。キリスト者は、「週の初めの日」を安息日に代え、キリストの復活を記念し、その教えと交わりに与る特別な日として守るようになった。日曜礼拝は、キリストの復活を覚え、復活の主とお会いする礼拝に期待をもって集まり、その時を喜ぶ特別な日なのである。
次に一年の行事が解説される。重要なのは、過越の祭り(5-14節)、五旬節(15-22節)、ラッパの祭り(23-25節)、贖罪の日(26-32節)、仮庵の祭り(33-44節)の五つとされ、過越の祭り(ペサハ)、五旬節(シャブオット)、仮庵の祭り(スコット)の三つは、国民的な三大祭として守られた(出エジプト23:14-16)、申命16:16)。この三大祭りは、それぞれ季節の変わり目にあたる。春を告げるペサハ、夏のシャブオット、秋のスコットというわけだ。またそれらは特別な安息、聖なる会合であり、礼拝と喜びに満ちた感謝をとささげるために、民が一緒に集う時とされた。なお、「過越の祭」は、「種を入れないパンの祭り」(出エジプト23:15、34:18)「初穂の祭り」とも呼ばれている(出エジプト34:22)。「五旬節」は、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」は「収穫祭」(出23:16)とも呼ばれる先に学んだ贖罪の日(16章)は、この仮庵の祭の前に守られる。
この他、私たちに馴染みのあるイスラエルの祭りは、プリムとハヌカがある。プリムは捕囚期、ハヌカは後の時代、ハシモン王朝の時代に定められたものである。
1.過ぎ越しの祭り(ペサハ)(23:5-14)
 さて、「過越の祭り」は春の第1月(カナン歴ではアビブ、バビロン歴ではニサンの月、太陽暦では4月)14日に始まり、これはイスラエルのエジプト脱出を記念する。この日の夕暮れ、イスラエルの民は過越の子羊をいけにえとしてささげた。それは、エジプト脱出前にエジプトの初子の命が取られたことを思い出すためであった。それに続いて、パン種を入れずに作られるパンが一週間の食事とされた。パロの出国許可が下りた時に、急いで出発準備をしたことを覚えるためである。祭りの締めくくりとして、七日目の安息日の翌日に、イスラエルの民は、主にささげるための収穫の初穂の束を持参する。それは、収穫の始まりを意味した。
こうして過越の祭りは、ユダヤ人にとって、エジプトからの脱出を導いた神との契約関係にあることを心に刻む時となった。そして新約時代、キリスト者は、この過越の祭りの日に、イエスが神の子羊としてほふられ(1コリント15:20)、全人類の罪からの救いの業を開始され、イスラエルの民を救いの初穂とされたことを心に刻む時とした。そして同様の教育的・象徴的な役割を担うものとして、過ぎ越しの祭りに代わって主の晩餐を守るようになり、十字架の恵みによる救いと解放を喜ぶ時としている。
2.五旬節(シャブオット)(23:15-22)
 次に五旬節は、過越の奉献物の束を持ってきた日から数えて「七週目の安息日の翌日」と定められていた。つまりちょうど50日目に当たる(シワンの月、太陽暦の6月)。この行事が新約時代に「ペンテコステ」と呼ばれるようになったのは、50番目を意味するギリシヤ語の序数ペンテーコストスの女性形、ペンテーコステーによる。過越の祭りで初穂として奉献された大麦の束は、穀物の収穫の開始を意味し、五旬節の奉献物のそれは収穫の完了を意味した。だから、イスラエルの民は、この日、収穫における天の父からの豊かな賜物と恵みを感謝し、喜び祝う日としたのである。そして神の豊かさを覚えることによって、さらに貧しい者と外国人の必要を満たすべきことをこの祭りを通して学んだ(22節)。神は愛である。一方キリスト者にとっては、イエスの十字架と復活の出来事の完了、つまり、ちょうど主の復活の50日目に、イエスが約束された通りの聖霊が下ったことを記念する日である。ペンテコステ(使徒2章)は、救いを完成する聖霊のみ業を覚える時とされた。その本質的な意味として、天の父が、私たちに必要とされるものはすべて、とりわけ聖霊を豊かに与えられることを覚えるのである(ルカ11:13)。
3.ラッパの祭り、贖罪の日、仮庵の祭り(23:23-44)
 最後に、ユダヤ歴では第七の月(チスリの月、太陽暦の10月)にラッパの祭り、贖罪の日、仮庵の祭りが守られる。ユダヤ人にとっては、七は完全数であるので、これが一年の始まりともされる。実際、捕囚期間後、この祭りは、事実上新年の祝いの祭りとなった。そして第1日のラッパの祭りは、続く贖罪の日と仮庵の祭りに備えて集合を呼びかける意味を持った。第10日の贖罪の日は、大祭司が全国民の贖罪のために至聖所に入り、贖罪を完了する。人々はこの最も厳かな日に備えて「自分を悩ます」ことをしなければならなかった。これは祭りというよりは、断食を意味していたようである。そして大祭司は、イスラエル人が旧年に犯してしまった偶発あるいは手抜かりに起因する罪のための贖いをした。これは新約時代において、イエスによって完全な贖罪として実行されたが、その完成は終末的なものとなっている。つまり、真の大祭司であるキリストは唯一の完全な犠牲の血を携えて天のまことの聖所にお入りになったが、ご自分の民の所に戻ってこられる(再臨)という約束はまだ成就していないからである(ヘブル9:24-28)。 第15-21日に守られる仮庵の祭りは、収穫の完了を意味する一年最後の会合であり、一年の内で最も喜ばしい時である。イスラエルがエジプトから脱出した時に、最初に停泊した地は、スコテと呼ばれ(出エジプト12:37)、スコテは、ヘブル語で「仮小屋」を意味する。ユダヤ人にはそのような歴史的な神の御業に与った出来事を記念する祭りであるが、今日のキリスト者には、罪から救い出されて、今はこの地上に仮住まいであることを覚える時と言うべきだろう。人間はいずれ皆死を迎える。それは、神が整えてくださった天の都に帰っていくことを意味する。今の地上は仮住まいなのであり、天の都の希望に生きていることを覚えるべきことを伝える。私たちは、この地上に生活しながらも、この地上のことのみで終わるわけではない。やがて来る、神の都に入る真の希望に生きるように召されている。神の望みといのちに生きる歩みをさせていただこう。

レビ記22章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日は、祭司が、祭司のために聖別されたものをどう取り扱うか、が語られていますが、それは、私たちが聖別された聖餐にどう与るかに通じる内容を持ちます。また聖別されるべきものは、どうあるのか、についても、私たちの心が探られるところでしょう。主に私たちの魂が引き上げていただけるように。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

22章も続けて祭司に対する戒めであるが、21章で語られたことは、祭司自身が、神のパンを扱うその職務の故に聖さを保つべきことであった。22章では、祭司のために、聖別し、分かち合われたものを慎重に扱う、ということである。著者は言う。「イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である」(2節)。三つの点から、祭司のために聖別されて分け与えられたものを慎重に扱うことが教えられる。
1.聖別されたものを受けるために(22:1-9)
 第一に、祭司の汚れによって、聖なるものを汚すことがあってはいけない、ということである(1-9)。どのような時に祭司は汚れているのか。4節以降、具体的に、神との交わりを断つ種々のケースが語られる。それらはすでにこれまで見てきたものであるが、ツァラアトに冒された場合(13章)、漏出のある場合、精をもらした場合(15章)、そのような場合は、聖別されたものを自由に食べることができない。まして祭司は、自然に死んだものや裂き殺されたものを決して食べてはいけない(17章)と教えられる聖別されたものは聖別された心で受けることが重要なのである。
確かに今日、万人祭司である聖徒が、神の聖別されたものに与ることを具体的に考えると、それは聖餐に与ることを考えさせてくれる。聖餐のパンもぶどう酒も聖別されたものであり、それを受ける時には、私たちは自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲むように勧められている(2コリント11:27-31)。そして聖別されたものに、ふさわしく整えられているというのは、美しくも氷のような聖さに立つことではなく、何よりも自分自身では自分を何一つ聖めえず、ただ、イエスの十字架にある罪の赦しを切に祈り、イエスの罪の赦しを心に受ける他なし、とイエスと共に神の前に立つ心を持つことである。聖別されたものを受けるに必要なのは、主に聖別していただくことである。
2.聖別されたものを受ける範囲(22:10-16)
 第二に、聖なるものを分かち合う範囲を間違えることによって、聖なるものを汚してはならない、と語られる(10-16)。祭司は、聖なるささげものを食べることができた。祭司の家族もそれに与ることができた。しかし、祭司の同居人にはそれができなかった。祭司の娘が家を出たなら食べてはならない。しかし、離婚されて子どももなく家に戻ることになれば、それは問題がない。これは、今日で言えば聖餐の範囲について語っていると考えることができる。聖餐の意味は、罪の赦しの確証、神の愛の確認であるとすれば、神の愛をまだ知らない者、神の愛を認めて、イエスの十字架にある罪の赦しを受け入れる告白をしていない者は、これに与ることは難しいということだろう。それらは聖別された者であり、キリストにある罪の赦しを受け、新生し、神の子とされた者らが受けるにふさわしいものである。聖餐はキリスト者のみの特権である。そのようなものとして聖餐の時を過ごさねばならない。
興味深いことは、あやまって食べた時に、その償いの方法が教えられていることだ。あやまって食べてはいけないのであるが、それで終わりではない。神の法則は常に愛に基づく。聖であることを語りながら、それが愛によって実行されることを語っている。
3.聖別されるべきささげ物(22:17-33)
 最後に、聖別されるべきささげ物について語られる。それらは、欠けのあるものであってはいけない、という。私たちは神に対して最善のものをささげなくてはならない。神は私たちに、ご自身の最愛の御子イエス・キリストをささげてくださったことを忘れてはならない。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです(2コリント8:9)。」
とパウロは語ったが、神は私たちに最善をなしてくださっているのに、私たちは、あまりもの、二の次のものをささげている、ことがあるだろう。
献金の原則は喜んでささげられるものをささげることである。それは心を見られる神の前に、嫌々ながらささげてもしょうがないからである。しかし、喜んでというのは楽にということではない。この程度だったら楽にささげられるというものではない。それは、時間のささげ方にしても同じである。今は余裕がないから、と個人で祈る祈りの時間も、礼拝に出席する時も後回しにしてしまう、これがまさに自己流の自己肥大の信仰生活なので会って、このように神を二の次にする人生は、神に最善のものをささげて生きていることにはならない。神に最善のものをささげて生きることには、神の国と義を第一にする人生である。それは、栄光の主を認め、そのために心遣いをし、よくよく選び抜かれたもの準備されたものをおささげしていくことを意味する。
 なお、犠牲動物の母親とその子を同じ日に殺してはならないという定めは、むやみな残酷行為を禁止する(28節)。たとえ犠牲に供せられる下等動物であれそこに愛情を忘れない。それが神の民としての法である。神にささげることにおいて、最善を尽くす、そして愛情を忘れない。大切な原則である。それによって、人々は神がどのような方であるかを理解するからである。理性的にはわかっても、何か違う、人を認めていないと思うようなあり方は、違うのである。わたしたちがいかにささげるか、それ自体が、神の栄光を人々に示すことになる。

レビ記21章

レビ記21章 祭司の聖別
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。キリスト者は聖であることを求められても、聖別するのは主であることを覚えなくてはなりません。自ら聖さを意識するあまりに神の与えられる聖さとおおよそ違う、自己満足的な聖に陥ってはならないのでしょう。主の聖さに与る生涯へと導かれたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.祭司の定め
これまでは、一般的にイスラエルの民が、神の民として、個人生活においても共同体生活においても聖でなければならない、と語られてきた。ここでは、祭司の場合、なぜ彼らが聖でなければならないか、が語られる。それは、祭司の主要な職務が、主への食物のささげもの、神のパンを献げることにあるからだ(6節)。その理由は、繰り返されている(8節、21節)。神の前に出て、民のとりなしをするのであるから、その働きのゆえに、聖でなければならない、身を汚してはならない、という。
「主への食物のささげ物、香ばしい香り」(9、13、17節)については、すでに2章で解説したが、古代においては、神に崇敬の念を示すために、ささげ物において神に食物が提供されるという考え方があった。しかしイスラエルにおける主への食物は、そのような物質的な意味ではない(詩篇50:8-15)。あくまでもささげ物に象徴される霊的な意味こそが大事にされた。つまりささげ物を携える者の感謝の気持ち、信頼、献身、神への愛が、神に受け入れられる、神にとって香しいささげ物なのである。
ところで、21章、22章と呼んでいくと、繰りかえされるフレーズがあることに気づかされる。「聖別する主である」ということばであるが、8節、15節、23節、そして明日読む、次章22章の9節、16節、32節に6回出て来る。それが一つの意味段落を導いている。だから1-9節は、祭司の葬儀と結婚について、10-15節は大祭司の場合、16-24節は、祭司の身体的条件となる。
1.祭司の慶弔事(21:1-9)
そこで、祭司が弔事に関わる場合、まず死人と接触してはならないとされる(1-6)。というのも、死は罪の罰として人を汚すからである(民数19:11-13)。父、母、息子、娘、姉妹の場合は例外とされるが、妻の場合については何も言われていない。それは妻が、近親の者というよりも、一体の者という特殊な立場にあるためなのだろう。「頭をそってはならない、ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。」(5節)とある。旧約外典『エレミヤの手紙』(6:31)に、死を悲しむ異教の祭司の行為として描かれているが、そうした異教の習慣を真似てはいけない、とされる。
次に、祭司の祝い事、結婚についてであるが、祭司が結婚する場合は、貞淑な女性、離婚されたことのない女性でなければならない、とされる(7-8節)。その理由は、祭司が聖なる職務を務めるからであると二度繰り返されている。興味深いことは、8節、「あなたは」とあることだ。つまりこれはイスラエルの民のことで、民は、祭司の聖さを守るために協力しなくてはならない、という。今日でいえば、信徒は、牧師がその職務を全うできるように協力しなくてはならない、ということだろう。牧師の職務も牧師だけの努力で守られるわけではない。信徒の協力あってこそ成り立つものである。
2.大祭司について(10-15節)
10節からは、祭司は祭司でも、大祭司についての定めである。大祭司については、先に述べた祭司の定めよりもさらに厳しいものである。まず、大祭司は、人の死に際して、「髪の毛を乱したり、装束を引き裂いたりしてはいけない(10節)」つまり、悲しみの感情を外に出してはいけない、と戒められる。聖所から出て行ってはならない、という命令も(12節)死人に関連したものであり、死人に敬意を払おうとして聖所を離れてはいけない、ということである。つまり、総じてどのような死に接しても、その死に感情的にのめり込むことは許されなかった。また結婚に際しては、同民族の処女とでなければ結婚できないと制限が加えられる。
3.祭司の身体的条件(21:16-24)
17節以降、犠牲動物が無傷のものでなければならないのと同様に、それをささげる祭司も身に欠陥があってはならない、とされる。身体的欠陥とは、目や足が不自由であること、手足の長さに不釣り合いがある者、骨折した結果外観が正常ではない者、せむし、肺病などである。ユダヤ教では、サンヘドリンの議会が、祭司を検査し、任職後も定期的に検査を実施したという。ただ、このような人たちは、祭壇に仕えることはできなかったが、その聖なるいけにえの肉にあずかることは可能だとされた(レビ2:3、10)。彼らは神との交わりから排斥されるわけではない。特定の職務、祭司職には立つことができないとされる。これらは、一般の人には関係のないことであったが、民もこれらを理解して祭司を聖く保つ務めがあり、さらに祭司の資格審査には長老が加わる必要もあったので、すべてのイスラエル人にこうして、祭司の資格が告げられる結果になったのだろう。
後の時代、これらは、文字通りに厳格に守られたようである。実際イエスは、良きサマリヤ人への譬えの中で(ルカ10:31)、祭司とレビ人が、瀕死の人を見ながら、助けようとせず、道の反対側を通り過ぎて行ったことを語っている。しかし、イエスは、それを是としたわけではなく、むしろ、神の愛、憐れみ深さを実行していない人の例として語っている。となれば、これをどう読むべきなのか。私たちの模範、私たちへの主の期待として読むには、あまりにもハードルが高いばかりか、その実行は、人間性を失わせる、と思わされるところではないか。確かにイエスは、あわれみを犠牲にしてまで聖さを保つことには意義を唱えていた。大切なのは、繰り返される鍵語「あなたがたを聖別する主」ということばだろう。人間を聖別し、人間に聖さを与えるのは主であり、人間ではない。人間はどうしても杓子定規にルールを守り、自分の聖さを作り出そうとするものだろう。しかし、人間が自分の努力で生み出す聖は、せいぜい、あわれみを犠牲にした聖さであり、美しくも氷のように冷え切った聖さなのである。人間は悩むがゆえに人間なのであり、聖さと愛のバランスの中で悩みながら、愛に基づいて行動し、神に聖を着せていただく者ではないだろうか。そういう意味では、神のパンをささげるための完全な祭司、大祭司は、歴史上イエスを置いて他に存在したためしはなく、この方に、21章で要求されている完全な聖が実現されていたのだ、と読むべきなのだろう。つまりレビ記21章は律法的に読むのではなく、予型として、約束の救い主イエスにおいて実現し、イエスの十字架の故に実現している祭司としての条件である、と読んでいくのである。そして、今日万人祭司と言われる私たちも、神のパンをささげる、つまりとりなし手としての働きがあるのだから、当然、この箇所における聖さを追求するように求められているのであるが、神の期待に副おうとしても副いきれない、あるいは全く副っていない現実を覚えながら、しかしそのような弱く欠陥だらけの私たちをも、イエスの十字架にある罪の赦しをもって聖を着せてくださる、聖別してくださっている、ことを覚えて歩ませていただきたいものである。