エレミヤ書3章

偶像崇拝が、姦淫の罪に例えられている。かつてイスラエルは、シナイ山においてまことの神との契約を結んだ。それは真実な結婚のようなものであった。しかし、イスラエルは、背信の女、裏切りの女、つまり売春婦のように、まことの神から離れてしまった。偶像を拝み、これに仕え、まことの神を捨て去ってしまったからだ。イスラエルは恥知らずの悪い女に例えられている。

6節、「ヨシヤ王の時代」既に、イスラエルは滅びて、早一世紀が過ぎていた。イスラエルはアッシリヤの手に渡され、アッシリヤの地に捕虜として連れ去られていた(2列王17:6)。ここでイスラエルとユダは姉妹に例えられている。ユダはそうした姉の受けた処罰を見ても恐れず、イスラエルと同じことをしたという。9節、「彼女は、自分の淫行を軽く見て」と、ユダに対する神の裁きの目は厳しい。ヨシヤ王の18年目、律法の書が神殿から発見されている(2列王22、23章)。その結果ヨシヤは、宗教改革を進め、国内から偶像を一掃した。しかし、それは表面的なものであって、民の心から偶像は取り除かれず、真の悔い改めも起こらなかったのである。

神はそのような民の心を知り抜いた上で、警告を発せられる。「背信の子らよ。帰れ」と呼びかけられる。既に滅ぼされ、散らされたイスラエルに向かって語られたことばである。「わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう」(14節)は、イスラエルの全部が帰るのではなく、この招きに応じ、悔い改めた者が、一人、二人と帰って来る、ということだろう。神は常に、一人ひとりの魂と向かい合っておられる。一人ひとりを招き、一人ひとりに悔い改めを求め、主ご自身との絆を回復することを臨んでおられる。

この章は、そういう意味では、人間の理解を超えた関係を求める、あるいは許される神の存在を教えられるのであって、神の怒りの激しさよりも、神の愛の深さを感じるところである。神と私たちの関係は結婚生活に例えられ、それがたとえ人の非により破綻同然の関係になることがあっても、神ご自身は決してその関係を解消されようとはしない。むしろ、積極的に回復しようとされるのである。

15節、「私の心にかなった牧者たち」は、これまでの北王国の流れを意識したものだろう。ダビデの道に歩まない悪い王たちのもとにあって、北王国は災いにあった。しかしこの約束は、終末的なものとして読むことができる。既に滅びた北のイスラエルとユダの再統合は現実にはありえない。16節「その日」、17節「そのとき」は、終末的状況を語っている。大切なのは、「二度と悪いかたくな心のままに歩むことはない」と、終末における民の心の祝福が語られていることである。終末におけるイスラエルの改革と再興は、表面的なものではない。心から神の愛を認め、神に従い、神を中心とする世界の実現である。ゴールはそこにあることを覚え、常に主の愛に応える歩みをさせていただこう。

 

 

エレミヤ書2章

2節、「あなたの若かったころ」「荒野の種も蒔かれていない地」でのこと、これは出エジプトから、シナイ契約締結までの期間を指している。その時、イスラエルはその貧しさや困難の中にあって誠実であり従順であった、と神はイスラエルの愛を認めている。が、今は違う。イスラエルは、新婚時代の愛と純潔を保つことなく、主の恵みを忘れこれに背き(5節)、もはや神を求めようともしなかった(6節)。

エレミヤが7節で指導者の腐敗を指摘するのは、具体的に、彼らが神に信頼すべき時に、アッシリヤやエジプトとの外交政策によって国の安全を保つことが出来る、と考え、神を捨て去ったことを意識している。それは、指導者のみならず民衆の姿勢にも影響した。彼らもまた真の神に背き、ましてまがい物の神を求める、偶像礼拝の罪を重ねる(13節)。

今あなた方がみじめな状況にあるのは、その結果である、という(14節)。エレミヤは求められるべき神とイスラエルの関係を、新婚時代の夫婦の関係に例える。これは後に、シナイ契約に代わる新しい契約を語る伏線になっているように思われるが、ここで使われる表現はホセアのメッセージと重っている。つまり、イスラエルは、姦淫の女に例えられている(25節)。「他国の男たち」はバアルの神々のことであり、イスラエルは、夫である主を捨てて、他国の男たちを追いかける女のように、宗教的に不誠実な状況にある、という。

なるほどイスラエルはそうだったのか、ではない。私たちの現実についても考えさせられるところであろう。私たちの信仰の始めは本当に純粋であったかもしれない。それは、どんな貧しさも苦難も共に乗り越えようとする深い愛に満ちたものであったことだろう。けれども今の信仰は形ばかりであって、情熱のあるものではない。礼拝も、祈りも、聖書朗読も、常に後回し、自分の都合が最優先ということがあるものではないか。

実際、聖書を読むこと一つとりあげても、それが神とよき時を過ごす時間として持たれているのかどうか。ただ知的満足を求めるだけの時間であったり、情緒的安定を求めるみ言葉探しの時間であったりするなら、それは神とよき時を過ごすこととは別物である。礼拝をささげることについても、本来、神あっての自分という意識であれば、それは、欠かせないものであり、いつでも期待をもって集い、これを何物の時間にも変えてはならない、となるはずだが。そして奉仕をすることについても、やはり自分がやりたいことをやるだけのことにはならないはずだ。つまり新婚の愛の関係にある時は、何か自分のやることに、一工夫、愛のエッセンスを加えることがあるものだろう。「愛は多くの背きの罪を覆おう」とあるが、愛は、私たちの奉仕に豊かさと彩を与えるのである。

そのように考えてみれば、神を神として認めず、目に見える権力や偶像礼拝に走ったイスラエルと自分も五十歩百歩というところはあるのではないか。神は、私たちと共に貧しさを分かち合った、荒野の40年という時代があった、と語る。神ご自身が神殿ではない、幕屋で、ご自分の栄光の現れを満足された時代があった。もし、私たちが今豊かさの中にあるのなら、その豊かさを持って神に感謝と栄光を帰す思いがあってもおかしくはない。連れ合いである神への思いと献身を益々深める者でありたいものである。