エレミヤ書4章

エレミヤは、エルサレムの民に悔い改めを求めている。それは何を意味するのか。第一に、「忌むべき物を除く」(1節)ことである。悔い改めは具体的に行動する。忌むべき物があればそれを捨て去る。そして第二に、「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」(3節)と命じられる。それは、新しい行動を起こすことである。生活を改革し、私たちがあるべき場で、自分の人生を耕す努力を開始することである。また、イエスが、種蒔きのたとえをされているように、「道ばた」でも「岩地」でも「いばらの中」でもなく、耕されたよい土地にしっかり神の御言葉の種を蒔くことだ。具体的に言えば、まず、素直に従う心を持って神のことばに専心することが大切で、いつでも後回しになりがちな聖書と祈りの時間を、自分の最優先事項としなくてはならない。また悔い改めは「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除」く(4節)。当時のユダヤ人は、割礼という外的なしるしに、自分たちの救いや神との関係の確かさを覚える傾向にあった。しかし大切なのは、内的なしるし、心の割礼を受けていることである。宗教的典礼は単なる形式ではない。その形式には守るべき精神がある。割礼は、心の献身を表すものとしてなされる。同様に、バプテスマも、心からの決断と信仰を持って成されるのでなければ、意味をなさない。

5節からは、北からの災い、来るべき裁きの警告が語られる。ヒゼキヤの時代アッシリヤのセナケリブが侵略して以来、北からの侵略は途絶えていた。エルサレムの住民は平穏な生活に慣れ、エルサレム滅亡の危機については全く考えも及ばない状態であった。この箇所は、明快に当時の時代の人々に語られたものとして読むならば、その切迫感が伝わって来る。ユダの町々が陥落するので、最も堅固な要塞都市エルサレムに避難するようにと勧められる(6節)。10節は、神のことばとは別に、偽預言者が、「あなたがたには平和が来る」と、エルサレム侵略の危機をエレミヤの戯言としようとした状況があることを教えている。しかし、既に北のイスラエルが滅びたように、南のユダも破壊の危機にあった。11節から18節は、激しく押し寄せてくる敵の大軍が不気味に描かれている。

大切なのは、預言書すべてにおいて言えることであるが、こうした裁きは、神の契約に対する違反として起こっていることである。「あなたの行いと、あなたのわざが、あなたの身にこれを招いたのだ」(18節)。神は、ご自身の民と契約を交わされ、主のみことばに従うのなら祝福を、従わないのならのろいを約束された(レビ記26章)。そのことが起こっている。イスラエルは契約の民である。私たちも本質的には同じであることを覚えなくてはならない。23節以降は、ユダ滅亡の預言となる。

私たちも「愚か者でわたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない」(22節)と言われるようではいけない。悔い改めは、成長である。悟って、新たな歩みをすることに他ならない。私たちは、子どものような単純な信仰を持たなくてはならないが、考え方は大人になり、常に成長を目指すことが大切である。