ヨハネの黙示録19章

黙示録は、神の厳しい裁きを語りながら、その合間合間に、正しい者の前途にある望みについて語り掛けてくる。19章は、大バビロンに対する裁きが語られた後の、子羊の勝利を語るものである。2節、原文では、「ホティ」なぜなら、という言葉がある。それは理由を示す接続詞で、19章を受け、神のさばきが真実で正しいから、大淫婦が裁かれたから、と続き、天上の神礼拝の光景が続く。万物の支配者である神が王として崇められている。
7節からは婚姻のイメージである。まさに、パウロが、「しみや、しわや、そのような者の何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を立たせる」(エペソ5:27)と言ったキリストと教会の婚姻が実現するところである。
 11節からは王と天の軍勢による勝利。12節「多くの王冠」は、ギリシャ語でディアディマ、勝利の冠ではなく、王の冠を意味する。いわゆる主権が神にあることを示している。「名が書かれていた」つまり名前をつけることも支配権を意味している(創世記2:19)。13節、「 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」ヨハネの福音書でも、イエスは神のことばと表現されている(1:1)。また、イエスご自身裁きのために来たと語る(9:39)。御子は神のことばであり、鋭い両刃の剣によって人々を統治されるお方であり、同時にまた神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる、いわゆる裁きの執行者である。
 17節、「中天を飛ぶ」は、共同訳では、「空高くを飛んでいる」となっている。すべてを見通すことができる、ということ。その鳥に命じられることは、徹底した殺戮である。先にハルマゲドンへの言及があった(16:16)。そこで起こる戦闘の記録がこの箇所なのだろう。ただ詳しい説明はない。大事なポイントは、神の力によって悪の勢力が一掃される、と繰り返し述べられていることである。
黙示録は、人類がまだ経験していないことを書いている。いわゆる人類の歴史が終わった後の事まで語っている。だから、現代人の知性では把握できないことが書かれている。となれば、わからないところはわからないままに受け止めておくだけでよい。私たちの理解を超えた何かがある、と押さえておくだけでよい。そして黙示録の記事には、それなりの読み方がある。第一に、黙示録の記事は、科学的な思考に慣れた現代人とは無縁の、紀元1世紀の著者の感覚で書かれている。そうした理解で読むことだ。第二に、ユダヤ的な背景を踏まえて書かれている。だから、当時の人々がどういう読み方をしたのか、どういう知識的な前提を持って読んだのかが押さえられなければ、想像たくましくこれを読み込み、カルト的な行動に出る危険性も生じる。そもそも旧約聖書を読まないキリスト者には注意が必要だろう。聖書通読の重要性は、こういうところにある。第三に、たとえ話は、全体を通じて、一つのメッセージを掴むことが大切だ。黙示文学も同じで、一つの絵画的なイメージで何が伝えられているのかを掴むべきで、いちいち細かい部分までわからなくてもよい。だから24人の長老は何か、四つの生き物は何か、第一の生き物はどういうものか、そういうことは特定できなくてもよい。むしろ、これらの象徴で描かれた一つの劇画的なイメージで何が伝えられているかをしっかり理解することだ。19章では、ローマ帝国の迫害(6-16章)とその享楽の誘惑(17,18章)において、信仰的に戦い、耐え抜いたクリスチャンが、地上の生涯を終えて天に迎えられ、四つの生き物や長老たち、そして御使いたちとともに勝利の歓声をあげているイメージを掴むことだ。白い馬にのり、「神のことば」(13節)と呼ばれ「王の、主の主」(16節)とされたイエスご自身が完全な勝利をおさめたイメージを掴むことだ。つまり19章は、一つの結論を述べている。これらは神の真実なことばである、と(9節)。やがて来る戦勝の喜びを思う一日とさせていただこう。

ヨハネの黙示録18章

御使いが登場するたびに、一種の場面転換がある。ここからまた新しい場面に入ると考えてよい(1節)。バビロンに対する裁きがくだされた(2節)。「倒れた。大バビロンは倒れた」と。聖書ではしばしば偶像礼拝が姦淫の罪にたとえられる。神の選びの民である教会は、キリストの花嫁。それ以外のものを拝むことは姦淫の罪であると。神の定められた正しい結婚関係は相互の責任を伴う。しかし、不品行、姦淫は、相互の責任を負わず、単なる快楽の追求を求めていく。そのようなことに巻き込まれないように、距離を置きなさいとヨハネは言う(4節)。 
アメリカニズム的キリスト教、あるいは繁栄の神学という用語がある。つまり、アメリカには、独特のサクセスストーリーの文化があり、目に見える豊かさに価値を見いだし、そこを中心にして生きる考え方がある。それは、アメリカのキリスト教信仰の中に浸透しているものである。あるいは、繁栄が、キリスト教信仰に不可欠であるとする考え方があり、それらが、日本のキリスト者にも影響を与えている。けれども、それは、よく考えてみれば、世俗的な新興宗教が語るものと何も変わらない。そのようなことのために、何もキリスト教を信じるまでもない。
 聖書はもっと違った価値観を教えている。そのような物質主義的な生活の結末は、逆に滅びであると明確に語っている。先の17章で、ヨハネは、大淫婦が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血によっているのを見て非常に驚いた、と語っている(17:6)。そんなヨハネに、御使いは、「いのちの書に名が書き記されていない者たちは、驚くだろう」(17:8)と語りかけている。永遠の視野からすれば、そんなことは驚くことではない。世の中の終末的な出来事として当然起こってくることだ、しかし、キリスト者は、そのような地上の出来事に心を奪われていてはいけない。目を覚まして、私たちがどこに向かっているかにより注意を注ぐべきなのである。だからパウロは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根である(1テモテ6:10)」と、また「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です(6:6)」と語っている。あるもので事足りるとする生き方、なければないなりに感謝しつつ生き、必要以上のものが与えられたならば、神のみこころに従って用いるように生きていくべきである。より大切なことは、神の御前に立つ備えをいよいよしっかり行うことである。
この世の中では、成功を求め、富を求め、繁栄を求めるところがあっても、キリスト者は、そのような生き方にとらわれていてはいけない。物欲にとらわれない生き方、もっと人間として成熟した生き方を志せることだ。
これは今もイエス・キリストを救い主とする者にとって大切な教えである。あるものからは悪影響を受けないために分離する、離れることが必要。実際、私たちは値をもって買い取られた者であり、身をもって主人である神の栄光を現すように生きる者である。だからもう古い姦淫の人生からは決別すべきなのだ。
12節の商品のリストについて多くの注解者は、生活必需品ではない贅沢品であるという。つまりこれらのどれがなくても十分幸せに生きていけるものだ。「奴隷、また人のいのち」とあるが、ローマ帝国の繁栄は奴隷制度によって支えられている。当時ローマ帝国全体に6000万人の奴隷がいたとされる。しかしそれだけの奴隷を動かしたということは奴隷売買によって巨大な富を得たということ。奴隷商人はそれほど古い話ではない。現代でも形は違うがある話ではないか。普通に生活しているとあまりそういう感覚はないが、不法滞在の背景にそういう人身売買があるとも聞く。奴隷や人のいのちが商品化されているそのような現実がある。
ともあれ、こうしたあらゆる矛盾と腐敗を含む、大バビロンが、徹底的に裁かれるのである(16節)。「聞かれることはない」ということばが繰り返される。それは、生活音が消失してしまうほどに無に帰す徹底した滅びである(22節)。ローマは結局、繁栄の頂点にあったときに、贅沢のために滅んでいった。今も先進国と言われる国々が同じような生き方に倣っている。徳川幕府が倒れた原因の一つに、それまで権力と富を握っていた武士階級から富が、商人に移っていったことにある、と言われる。武士が没落し、お金を握った商人が地上の権力者になっていき、幕府が倒れていく。それとよく似ている。現代は、世界人口の20%の人々が世界の資源の80%を消費していると言われる。どれだけ少数の金持ちが自分のためにだけお金を使っているか、ということであるが、神はそうした自己目的を追求する富を見過ごされることはない、富に堕落し、奢る者は裁かれるのである。確かなことは、地上の富はやがて消え去る。消え去る世の富と享楽に心を奪われ命を落としつつあるキリスト者に対する警告がある。18章は、17章の結論として読むべきところだろう。それは淫婦に貢ぐ生活だ、大事なものを見極めよ、と言う。

ヨハネの黙示録17章

旧約聖書では、神の選びの民とされたイスラエルが、その契約を破って偶像礼拝をすることは、しばしば姦淫と表現されている。それはイスラエルこそが神の花嫁であるからだ。一方異邦人は神の花嫁ではないので、彼らの偶像礼拝は、無節操な遊女の淫行、あるいは不品行と表現される。だから2節、地の王たちは、イスラエルではなく、異邦人たちのことを言っている。彼らは、この女と不品行のぶどう酒に酔っていた。つまり、まことの神に背いて、偶像を拝み、あるいはそれぞれの偶像を造り上げ、罪と快楽の生活に耽っていたという。
 その大淫婦は、緋色の獣に乗っている。イザヤは、罪を緋色(イザヤ書1:18)に例えている。神に反逆する性格が現されているのだろう。実際紫や緋色は、その染料が高価であったから、贅沢を象徴する。つまり富みにおごり高ぶっていることを象徴する。ヨハネは、この女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている姿に驚いている。滅亡を期待したのに、裁かれることもなく思うままに振る舞っていたからなのだろう(6節)。御使いは、ヨハネに驚くに値しない、と語りかける。というのもそれは、神を信じる者にとっては、あらかじめよく理解されていることではないか、というわけである。この世の権力の盛衰とは別に、享楽主義はいつの時代も人の心を支配してきた。神に逆らう権力者たちは、富を巡って争いを続け、自ら内部分裂を起こし、利害に対立し、崩壊してきたのである。彼らは昔はいたが、今はいない、けれども、また自然発生的に、女にまとわりつきながら共に起こってくる存在である。その権力者たちは、子羊に戦いを挑むが、子羊に勝つことはできない、という(14節)。獣と女は、滅ぶ定めにあるということだろう(16節)。ヨハネの時代には、ローマが世界の征服者であった。その支配下にはローマに従属する国々とそれぞれの王たちがいた。この大帝国もその内部分裂から滅びていった。それ以降の歴史も、世界を制覇した支配者たちが、出現しまた消え去る事の繰り返しであった。こうして、さらに詳しくバビロン滅亡の状況が18章に続いて語られる。
さて6~16章までは、封印、ラッパ、鉢という三つのイメージで繰り返し語られる、恐ろしい災いのたとえ話によって、終末へ向かう人類の歴史と裁きが要約されていた。その中で迫害の試練に会い、苦しむクリスチャンへの励ましと希望が描かれていた。この17章からは、同じ終末的状況であっても、別のテーマ、つまり、苦難とは別の形の試練にさらされるクリスチャンに対する警告が描かれている。つまり、ローマ帝国の富と豊かさに与り、その平和と豊かさの中で、信仰的にぼけてしまったクリスチャンに対する警告である。終末状況ですべてのクリスチャンが苦しむわけではない。ある者たちは、安逸をむさぼっていた。サルデスやラオディキアの教会がそうであったように(3章)。ヨハネはローマ帝国を旧約時代に栄えたバビロンのイメージでとらえ、まさに売春婦が真面目な青年の心の隙や弱さにつけこみ、その生活や家庭を破壊してゆくように、ローマ帝国に蔓延した享楽に毒されていくクリスチャンに対する警告を発しているのである。富と放縦の「大淫婦」と例えられたローマもバビロンのごとく破局を迎えるというのが17-19章の要点である。
人間の心には、もっとしゃれた家に住みたい、おしゃれをしたい、あるいは高学歴を身につけて、よい地位を得たいという気持ちがある。それは汚い欲望かというと、そうでもなくて、人間を向上させる大切な欲求でもある。けれども、人間には、神様が与えてくださったもの以上に、それを求め出す弱さがある。向上心をどん欲な欲望に変えてしまう罪の心がある。楽しむだけではなく、虜にされてしまう弱さがある。そういう弱さに、サタンはつけ込んでくる。
 つまり神様が与えてくださったものを楽しむのはよいのだが、それを手放せなくなる、世の富や豊かさというものが、神様となり、支配されることが問題。すべてを与えてくださるのは神であることを決して忘れてはいけないのである。そしてこれは、ローマ帝国内に平穏に住むクリスチャンたちだけではなく、現代の私たちの問題でもある。すべては、神に与えられて生きている。すべてを与えてくださる神をこそ、大事にし、崇めて歩む者であろう。

ヨハネの黙示録16章

 災いの第三サイクルが描かれている。これは先の二つのサイクル、解かれた封印、吹き鳴らされたラッパのそれと同じことを言っているが、内容はより激しくなっている。たとえば、先の災いは、地の3分の1に対する限定的なものであったが(8:10)、最後の七つの鉢の災害はすべての者に及ぶ。それは、一時的な懲らしめではなく、これまでにない最終的なもので、悔い改めの呼びかけが何度も要求されるのである(9節、11節、21節)。
 しかもこの鉢はどこから来たものか?5:8香に満ちた、金の鉢、香は「聖徒たちの祈り」とされる。その鉢が、神の怒りの鉢としてぶちまけられたと取るべきだろう。私たちの祈りは決して無駄にはならない。こうしてすべて積まれた祈りは、最終的には、精算される、というべきであろうか。しかも興味深いことは、ローマ12:20で、パウロは「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」と言っているが、復讐するは我にありとあるように、こうして長らく果たされないと思われていた、全ての復讐も成し遂げられるのである。「燃える炭火が彼らの上に降りかかりますように。彼らが火の中に深い淵に落とされ立ち上がれないようにしてください。」という祈りは(詩篇140:10)応えられるのである。
さて人が死ぬことについては、誰も異論がない。誰も死を経験したものはいないにもかかわらず、他人の死を見て、生ある者は必ず死ぬと理解する。しかし、裁きについては意見が別れる。信じない人は多い。しかし裁きがないなら、この世における裁きは、あまりにも不幸である。詩篇や箴言では、悪者が栄える事に対して、やりきれない思いが非常に率直に表現されている。有名なイマヌエル・カントという哲学者は、もし神と来生の希望がなければ、道徳的な理念は、どんなに立派なことを言っても、人々はそれに同意と賛嘆は示すけれども、だから自分もそう生きようという意図と実行の動機にはなり得ない、という言い方をした。裁きがなければ、道徳そのものの基盤は実際にはないというわけである。神の正しい裁きがあるという聖書の教えに立って初めて、今の私たちの生き方のもとになる道徳的な規範が成立する。7節、神の裁きは勝手な独断的な思惑によるものではなく、正義の現れである、と強調される。
さて、16節。「彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた。」この場所がどこをさすか、何を意味するか、色々な説があるだけで確定しがたい。ハルマゲドン、一般的にはメギドの山と、理解する人が多い。ハルは、ヘブル語で山、マゲドンは、ヘブル語のメギドの音訳。そこからハルマゲドンはメギドの山を指すとされるからだ。ところが、メギドの山は実在しない。だからこれを少し読み替えて、イルマゲドンとする解釈がある。イルになると、メギドの町になる。メギドの町はあるからだ。パレスチナの内陸からフェニキヤに至る道と、エジプトからシリヤメソポタミヤに至る道が交差する通商や軍事の重要な拠点でもある。旧約聖書の時代には大きな戦いが繰り返された。ここで起こる世界の最終戦争を預言している考えられた時代があった。しかしここに、戦闘場面は描かれていない。そこでハルマゲドンは象徴的に理解するのがよいのだろう。つまり、それは大きな戦争を象徴しているが、具体的に核戦争を始めるといった、目に見える最終戦争ではなく、目に見えない世界で繰り広げられる最終戦争であるという理解である。この地上の戦争ではなくて、霊的な世界での戦い。つまり、悪魔ともサタンとも呼ばれる悪の勢力が、生き残りをかけて、最終的な抵抗をする戦いと読むわけである(20:7-10)。確かに、悲しみも苦しみもない、素晴らしい祝福の天が来る前に、悪魔ともサタンとも呼ばれる存在は、終末において、宇宙とともに、跡形もなく滅ぼされてしまう。20節は、ラストシーンを描いている。だから悪魔ともサタンとも呼ばれる存在は生き残りをかけて、神に抵抗し戦いを挑む、それがハルマゲドンだ、というわけである。
聖書の世界観は、二元的である。普通の人は、一元的に世界を見ている。目に見える世界がすべてだと考えている。しかし、聖書は、目に見える世界だけではなく、もう一つの目に見えない神がおられて、悪魔やサタンという存在がいて、死んだ人々も眠った霊として存在する二元的な世界観で語られている。今の目に見える世界は、やがて滅びるものであるが、神がおられる世界は、永遠に残る。しかも、その世界からサタンとも、悪魔とも呼ばれる存在は永遠に追放されて、ただ、イエスの十字架によって、罪赦され、十字架の愛に生きることを学んだ者のみが招かれ、永遠の安息の時を享受する時が来ると言っている。ただ世は終わるのではない、滅びるのではない、滅びを超えてその日、すべての人間に神の正義がもたらされる日が来る、安息の恵みの日がもたらされる時が来る。神にお会いする備えが求められている。

ヨハネの黙示録15章

これまで、七つの封印(6-7章)、七つのラッパ(8-15章)、と二つの災いのサイクルが描かれてきた。ここで、7人の御使いが、最後の災害を携えて登場する。しかし2節、ここでは、13章で激しく迫害を受けた信仰者が、解放され、勝利の歌を歌っている姿が描かれている。「彼らは、神のしもべモーセの歌と子羊の歌とを歌っている。モーセの歌は、かつてイスラエルの民が紅海を渡ってエジプトを脱出した時に(出エジプト15章)歌った歌である。
出エジプト記14章30節には「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」とある。エジプトから脱出したイスラエル人たちは、紅海の対岸に辿り着いていた。そして15章1節、モーセとイスラエル人は主に向かって、この歌を歌ったとある。一方、黙示録15章2節、勝利したクリスチャンたちが「ガラスの海のほとりに立っていた」とある。このガラスの海は、4:6にあるように、神様の御座の前、天の都にある。そこに、クリスチャンたちが立っている。そして彼らは、モーセの歌と子羊の歌を歌っている。明らかに、黙示録の光景は出エジプト記のものを背景として描かれており、歌われている歌も替え歌になっている。
出エジプトのモーセの歌では、神様が苦しみから解放してくださった、神様は悪い者を裁いてくださった、ことが具体的に歌われている。そして何度か繰り返して読むと分かるが、褒め称えられている神は、あくまでもユダヤ人の神は素晴らしいという調子である。しかし、黙示録の替え歌は、もっと積極的である。苦しみから解放してくださった神様は素晴らしい、偉大であると言う。けれどもその言い方は、比較ではなく絶対的である。ただあなただけが聖なる方です(4節)。聖なる方、これはヘブル語ではカドーシュ。区別されたという意味が原意。つまり、「あなただけが区別され、抜きんでた唯一の神です」という意味になる。そして「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します」とある。
また、黙示録の歌は、子羊の歌であるとされる。それは、旧約の出エジプトと黙示録の新しい出エジプトの性格の違いから来る。旧約ではイスラエル人たちは、エジプトで奴隷状態にあり、彼らは虐げられ苦しんでいた。そして神様がその呻き、叫びを聞いてくださって、解放してくださった。それで、彼らは神様の正しい裁きをたたえ、感謝する歌を歌う。一方、黙示録では、クリスチャンたちは、同じようにローマ帝国の迫害の中で虐げられ苦しんでいるが、その苦しみと積極的に戦っている。キリスト者として生きることが難しい社会状況の中にありながら、キリスト者として生きることに血を流している。最後までキリスト者として生き抜ぬいて、勝利を勝ち取っているのである。彼らは、ただ苦しみから解放されただけではない、勝利したのである。だからこそ子羊の歌を歌っている。実際イエスも、十字架の苦しみに勝利し、神の右の座にお着きになったのだ。
神は私たちに勝利を約束してくださっている。そこで、自身を神に対する最高のささげ物として日々ささげて生きていきなさい、というメッセージも出てくる。11章には証人のイメージが示された。クリスチャンとして生き抜くことを証しする者のイメージである。12章では、一人の女と赤い竜のイメージで、証人が迫害され蹂躙される様が語られている。13章も同様、ローマ帝国で強制された皇帝礼拝に伴う迫害が「海の獣」「地の獣」のイメージに重ねて語られる。14章は、その迫害下で信仰を守り抜き、戦い抜いたクリスチャンたちが天に凱旋しているイメージが描かれている。15章は完全なる勝利の歌を、神の御前で歌い上げている。
 一連のドラマをとおして苦しめられる者への慰めのメッセージが、語られている。簡単に言えば、苦しめられる者には、新しい出エジプトがあり、十字架の勝利がある。だから、勇気を持とうというわけである。神への信頼と希望を持つ一日としたい。