エレミヤ書6章

神は、エルサレムを容赦なく裁かれる。それは、エルサレムに一人も神の心を動かす正しい人がいなかったからである。6章は、強情なイスラエルの民の滅亡が切迫していることを伝える。ベニヤミンは、エレミヤの出身部族である。だからこれは、自分の部族への呼び掛けになる。「テコア」「ベテ・ハケレム」は、いずれもエルサレムの南にある町。敵は北から侵略してくるのだから、これらの町は、エルサレムの住民の避難先となるのだから、その受け入れ準備をせよ、というのだろう。

北の敵は、非常に強く、たとえ昼間の攻撃に失敗しても、夜には確実に勝利を収めるという(5節)。当時の戦争は、通常朝から始められ夕方には終わるものであったから、夜の間に上り、攻め入るのは裏切りに等しく異例である。ともあれ彼らは、「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう」と、執拗にエルサレムを責め、エルサレムを荒廃させることになるだろう。かつてアッシリヤに北のイスラエルが滅ぼし尽くされたように、南のユダも猛攻撃を受け、滅亡する。北からの敵は、「残忍であわれみがない」徹底的にエルサレムを叩き潰すだけである。

問題は、「わたしがこの国の住民に手を伸ばすからだ」(12節)と神の裁きの結果としてこれらが実現することなのだろう。悪を裁く正義の神。私たちは単純に物事を考えやすいが、これほど明確に語られるのは、それが、神と契約を交わしたイスラエルの民との間のことだからである。今日の社会も、神の前に不正であるという事実に、これが、このままで終わるわけがない。神の裁きを受けるであろうことは想像に難くないが、それをエレミヤのように断言することはできないだろう。

預言書を読む重要な観点は、それを、現代にそのまま当てはめることではなく、当時の人々がいかに受け止めたかをまず理解することである。神はイスラエルとの契約が破られたことへの裁きを下しているのである。

27節「わたしはあなたを、わたしの民の中で試す者とし、試みる者とした」は、エレミヤに対することばだろう。29節、「鉛は溶けた。溶けたが、むだだった。悪い者は除かれなかった」。神は、エレミヤを通して鉄くずのようなユダの人々の中に、貴重な金属があるかどうかを探そうとした。しかしエレミヤの鉄くずを精錬するかのような激しいことばに、応じる者は誰もいなかった。そこには、残念なことに、純化された民ではなくて捨て去るべき廃物しかなかったという。

20節にあるように、ユダの民は決して、神へのいけにえ、神へのささげ物をないがしろにしていたわけではない。しかしそれは形ばかりであり、日常性に結びついたものではなかった。正義の神を信じるなら、正義に生きなくてはならない。聖い神を信じるなら聖さに生きるのが本当だろう。これは私たちにも言えることである。聖日礼拝を終え、教会を出たその瞬間から私たちの信仰と歩みが、礼拝通りであるかどうかを問われるのである。