エレミヤ書7章

エレミヤは主の神殿に立って語る。時は、大祭の頃であったようで、多くの民衆がエレミヤの声を耳にした。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言っている偽りのことばを信頼してはならない。」(4節)エルサレムの住民は、主の宮がある限り、自分たちは安全であると考えていた。神がご自身の宮を壊されるだろうか、というわけである。しかし、神は人間が造り上げた神殿を惜しむだろうか。あるいは神殿は神聖にして不可侵と拘るようなお方であろうか。そんなことはない。神は人間ではなく、人間が惜しむようなものを惜しまないし、また人間が造った宮に鎮座されるようなお方でもない。神は人間が造った宮よりも、ご自身がお造りになった人にこそ深い関心を抱いておられる。そして、いつも人が悪い思いと行いを捨てて、公平な態度をとり、貧しい者、立場の弱い者を食い物にすることがなければ、とこしえまでの祝福を注ぐことを、心がけておられるお方である(5-7節)。

しかし、実際のところ、イスラエルの人々は神の期待に沿う歩みはしなかった。だから、神は、「あなたがたの頼みとするこの家、わたしの名がつけられているこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に、わたしはシロにしたのと同様なことを行おう」(14節)という。つまり、北イスラエルが崩壊したように、南ユダも滅ぼそうという。

年代はBC608年、エホヤキムが王に即位した直後のことである。その時代、異教的なカナンの儀式がユダの祭儀に取り入れられ始めていた。社会的な不正が横行し、人々の堕落は激しかった。そして偶像礼拝が深く浸透していた。イシュタルは愛と肥沃の神であり、また戦いの神でもある。アッシリヤ・バビロン人の女神として崇拝されていた。また「自分の息子、娘を火で焼くために、べん・ヒノムの谷にあるトフェテに高きところを築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ」(31節)という。つまり、モーセ律法では厳しく禁じられていた(レビ18:21、20:2-5)人心供養をするモレク礼拝の儀式も行われていた。イスラエルには、広く当時の文化宗教の影響があり、唯一まことの神に対する信仰はことごとく汚染されていたのである。

そういう意味で、私たちは、イシュタルを礼拝することもないし、モレク礼拝のような儀式をすることもない。けれども、唯一まことの神に対する信仰は純粋に守られているのであろうか。日本人の宗教的特徴はごちゃ混ぜ主義である。仏壇もあれば神棚もある、迷信的な信仰も一緒くたに、ありとあらゆる宗教を身近に置きながら御利益を願うところがある。つまりその信仰の本質は、幸福主義と現世主義で、現世で幸福になることを追求するものであり、神はなんでもよいわけである。そういう意味では、キリスト教信仰を持ったとは言っても、唯一まことの神に対する信仰と献身の思いを持ったキリスト者はわずかであるのかもしれない。32節からはそのようなごちゃまぜ信仰の者に対するさばきのことばである。宗教心の問題ではない、まことの神を認めていく信仰が求められているのである。