エレミヤ書9章

「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。」(1節)。今や避けることのできない、エルサレムの滅亡に対し、預言者エレミヤの嘆きが語られる。それは遠い将来ではなく、差し迫った危機である。その惨状は「死が、私たちの窓によりじのぼり、私たちの高殿にはいって来、道ばたで子どもを、広場で若い男を断ち滅ぼすからだ。語れ。主の御告げはこうだ。人間のしかばねは、畑の肥やしのように、刈り入れ人のあとの、集める者もない束のように、横たわる」(22節)という。実に、侵略者に踏みにじられ、いのちを絶やされ、ただしかばねの山となるエルサレムの惨状がイメージされる。
どうしてこんなことになったのか。「主は仰せられる。「彼らは、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず~」(13節)エルサレムの惨状は、バビロンの帝国主義的な野望によって生じたものではない。ユダが神を捨て去ったことへの裁きであるという。「これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。~このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか。」(9節)とあるように、彼らの裁かれるべき状況に注目すべきだ。というのも、「これら」と神が指摘することは、私たちの日常性にも通じる内容だからである(3-6節)。民の中に、人としての真実さ、誠実さが失われる。主を認め、恐れようとしない、それが神の怒りの原因なのである。
12節「知恵があって、これを悟ることができる者はだれか」エルサレムが神の裁きを受けて廃墟になることは「知恵ある人」には理解できるはずである。ホセアも同じような問いを発している(14:9)。しかしその答えは得られない。だからその滅亡は避けられない。13節「主は仰せられる」、17節「万軍の主はこう仰せられる」22節「主の御告げはこうだ」ねんごろにお語りになる主がいる。主はただ裁きを告げているだけではない。幾度も言葉を尽くして語り掛けている。確かにそうだろう。もし、愛する子が迷いの道を進んでいるのなら、語らざるを得ない。言葉を尽くして語るのが親の愛情でもある。また兄弟があればそれぞれに語るのが親の目配り、心配りだろう。23、24節は、どうも、エルサレムの住民ではなく、傷心にあるエレミヤに語っているようである。「知恵ある者はだれか」と語り掛けるエレミヤに「知恵ある者は自分の知恵を誇るな」と語る。むしろ、主を知り、主が恵みと公義と正義を行う者であることを誇れ、という。これは、傷心のエレミヤに対することばであるから戒めではなく慰めであろう。今ある知恵も力も、富みも無に帰せられる。それは神が恵みと公儀と正義を行われるからだ。神は私たちに喜びと希望をもたらすお方である。その方をこそ誇らねばならない。
26節に出てくる国々は、エジプトを中心に反バビロン同盟を結んだ国々である。「こめかみを借り上げている」は、アラビヤ人の風習であり、律法では禁じられていた(レビ19:27)。イスラエルもまた彼らと一緒に神の裁きを受けるという。というのも、選ばれたイスラエルと近隣諸国の住民とその心に差はないからである。心の割礼こそ求められるものである。