エレミヤ書13章

13章は、神の御前に悔い改めようとしないユダの頑なさに対する警告の続きとなる。エレミヤは二つの実物教育をもって、これをわからせようとする。

一つは、ユーフラテス川に隠した新しい帯を腐らせるものだ。地理がわからないと何気に読み流してしまいがちなところであるが、ユーフラテス川は遠い。実際にエレミヤはそこまで二度も足を運ぶのは考えられないとして、これを近隣の小さな川、ベラース川と考える説もある(新英訳)。けれども、エレミヤの約50年に渡る長い預言活動からすれば、遠くまで出かける余裕はあったと考えてもおかしくはない。ともあれこの実物教育の要点は、9-11節の主ご自身の解説にあり、神がユダとエルサレムを腰の帯のように自分の腰に巻き付けたが、もはやそのようにはできなくなったことにある。心打つのは、神が、ただユダの滅びを語るのではなく、ユダあっての自分も失われると言っている点である(11節)。失われるのは、ユダの名、栄誉、栄ではなく、ユダと共にある神の名、栄誉、栄えである。

続くもう一つの行動預言は、酒で壺を満たすものである(12-14節)。引用された諺は、酒がふんだんに振舞われる祭りの際に、酒好きのユダヤ人が自分を酒壺に例えて「すべての酒壺に酒が満たされる」と語る戯言である。神はこの戯言を取り上げ、すべての全住民に神の怒りの強い酒を満たし、それによって互いに争い事が起こるようにし、自滅させるようにする、という。これらの行動預言の意図は、このような決定的な裁きがなされる前に、つまり具体的にバビロン捕囚が起こる前に、悔い改めを求めることである。

そういうわけで、15節からはユダに対する警告となっているが、記述は詩文形式となっている。「王と王母」(18節)は、具体的に、エホヤキン王とその母ネフシュタを指すのだろう。エホヤキンは18歳で王位に就いたが、わずか3か月で母ネフシェタと共に、バビロニヤに人質として連れ去れた悲劇の王である(2列王24:8-15)。「ネゲブの町々が閉ざされる」とは、南への退路を断たれることを意味する。敵は「北」から攻めてくるのである。結局、北のアッシリヤに対抗するために、同じ北の勢力であるバビロニヤと友好関係を結んだのが誤算であった。アッシリヤに代わってバビロニヤが攻めてくるのだから(21節)。

なぜこんなことが起こったのか、それはユダが悔改めないためであるという(22節)。ただここで指摘されているのは、人間の心の頑なさである。そうやすやすとは悔い改めることができない人間の罪の深さである。それはまさに、「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができない」ようなものであって、ある意味で不可能に等しい事柄である。人の人格と性格は、そんなに簡単に変えることができない。それなのに、なぜ神は悔改めを要求されるのか。人間に不可能なことを求め、その罪の責任を問うのかとも思われる。しかし、そうではない。神は、罪の責任を問うと同時に、悔い改めるものに、恵みを注ぎ、罪から立ち直る道を備えてくださる。神は責めるだけではない、人間を我が子のように愛し助けてくださるのだ。それは十字架による罪の赦しと癒しがあるのと同じである。神に心を開き、根深い罪を取り扱っていただき、真の悔い改めに導かれ、新しい人生へと歩ませていただこう。