エレミヤ書14章

神はエレミヤに国家が日照りに襲われることを警告する(1-6節)。パレスチナはしばしば干ばつに襲われることがあったが、それは、神の呪いの契約の一部である、とする。ただ今回の日照りは、貧しい者のみならず、貴人たちにも、そして国土全体に及ぶ、極めて危機的な状況である。民の嘆きの激しさに、エレミヤは、神の民としてのイスラエルを見捨てないようにと願うのである(7-9節)。

7節の主語は、「私たち」である。普通なら、民の祈りと受け止めるべきところであるが、これは実際に民が神殿で祈った祈りを収録したというよりは、エレミヤが民に代わって祈っている、と理解すべきなのだろう。民の苦境の激しさを思い、敢えてエレミヤは神に訴えるのである。しかし神はこのとりなしの祈りを拒否された。神の怒りは激しく、イスラエルのためにとりなすエレミヤに対して、「彼らのために幸いを祈ってはならない」(11節)と語り、神の報復が、日照りに加えて「剣とききんと疫病」であることを明言される(10-12節)。そこへ執拗にエレミヤが食い下がり、民の赦しのためにとりなしていく。

預言者たちは、平安と祝福を約束しているではないかと。しかし神は、彼らが偽預言者であり、遣わしたこともないし、自分が語るように命じたことを語ったわけではないのだ、という。確かに、日照りの災いに対して、雨が降れば万事が解決するわけではない。神が求めておられるのは、関係の回復であって、取引ではない。しかし人はいつも取引を考えている。神がしてくださることに関心があるだけで、神が良くして下さってもそれを忘れてしまうものである。人は神を愛するのではなく、神の富を愛しているのである。  17、18節は、エレミヤの涙の哀願となっている。しかしこれは、「幸いを祈ってはならない」と命じた神がエレミヤに、こう哀願せよと教えたものである。17、18節を読み味わう時に、なぜ幸いを祈ってはならないのか、なぜ神がとりなしの祈りを拒否されたのか、神の積み重ねられた深い痛みを教えられるところである。ただ神が痛みを感じているのは、民に対する愛の故である。神はその本質において愛であり、暖かい。エレミヤは再び、この神の愛に感じ、自らのことばでとりなしをする(19-22節)

創世記のアブラハムのとりなしの祈りを(18:19-33)思い出させるところである。とりなす、とはよく言われることであるが、日々の祈りの中に、どれほど、主にある兄弟姉妹の霊性のために祈ることがあるだろうか。祈りはしても、真にとりなすことの乏しさがあるものだろう。とりなしもただ人の幸いを願うとりなしではなく、神の痛みを覚えながら、神の側に立ってとりなすことを学びたいものである。ただ、神に何かをねだるだけの信仰からは卒業したいものだ。神を友とし、イエスを兄と呼ぶ、神の家族の一員として行動する在り方がある。祈りにおいて、神と心を重ねる時がある。神の沈黙のもとに、静かに神の応答を待ち望む時がある。神も人格なれば、しばし心を交わしあう時が必要である。神の人格を認めた祈り、交わり、期待が寄せられる。