ダニエル書12章

ダニエルの幻は、その当時の時代的背景から生まれ、さらに未来の歴史的な出来事について語るものであったが、12章では、一挙に、終末の出来事を語っている。その時にはまず、かつてない苦難がある。神はご自分のしもべにも、同じような苦難があることを否定されない。しかし、その苦難の中で、神が守りと救いがあることが約束される(1節)。またその時、眠っている者、つまり死人は復活し、永遠のいのちに入れられる、という(2節)。
このあたりの書き方は、まさに、黙示録12章に対応する。ヨハネは、ひとりの女と竜の戦いについて語っているが、それは、メシヤを産んだマリヤとも、また、マリヤによって生まれ御子によって贖われた神の民、教会と竜の戦いとも理解される部分である。「女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。」(黙示録12:6)、また、「女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった」(12:14)とあるが、数値的な誤差はあるにしても、三年半という区切り、そのものにメッセージがある。つまり、苦難や試練には区切りがある。それはいつまでも続くものではない。必ず終わるものなのである。
だからそのことをよく理解し、神にあってみこころを悟る「思慮深い人々」は、「大空の輝きのように輝く」(3節)、つまり神の栄光を証する者となる、という。これはダニエル自身の経験を思い起こさせる。ダニエルは、苦難にあって、いつも通りに主に祈り、いつも通り主に従う信仰の歩みを続け、神の栄光を証した。ダニエルのみならず三人の友も、苦難を通らされ、主を証した。ダニエル書の前半、苦難にあって、いかにダニエルが思慮深く行動し、悟りを得、その時を乗り切ったか、またその思慮深さによって、神の栄光を代々の王たちに証することになったかが示されていることを思い返したい。
そこで大切なのは、苦難がどのようなものであるかはわからないが、苦難をどのように生き延びていくか、苦難に振り回されるのではなくて、苦難にあって、思慮深く、先を見越して歩むことなのだろう。苦難には限りがある。ただ、人生は、一つの苦難が去ればそれで終わりなのではない。泣きっ面に蜂ということがある。すでに経験した苦難を思い返して、かつての苦難は、若く、気力も体力もあったからこそ乗り越えられたが、今度の苦難はとうてい無理である、「わが主よ、この終わりはどうなるのでしょう」(8節)と思わされるようなこともあるだろう。しかし、そこで「三年半」と心得、思慮深くあり、「忍んで待つ」(12節)者は幸いなのである。すべては神の御手の中で起こっていることなのだから。
「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」(13節)。具体的な詳細はわからないが、最後には必ず勝利があることが明言される。神は歴史を支配しておられる。そして神は、ご自分の計画を歴史において成し遂げられる。その神に信頼し、物事にも、自らの感情にも振り回されることなく、思慮深く今日の一日を導いていただくことにしよう。