ホセア書2章

ホセアは、妻の不貞の経緯を語り(1章)、その罪を告訴し、判決を下している(2章)。ホセアの家族の問題は、すっかり、神とイスラエルの関係の問題に置き換えられており、ここでイスラエルの三つの罪が告発される。一つはゴメルが本来追うべきでない者に夢中になったこと(2-7節)、また無知であったこと(8-12節)、そして、主を忘れたことだ(13-15節)。ホセアは言う。「彼女は私の妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」(2節)それは、神のイスラエルに対する怒りと憤りを代弁している。イスラエルは、まことの神を捨て、表面的な祝福を期待して偶像に夢中となった。宣告される神の裁きは厳しい(6-13節)。

しかしなぜ、人はまことの神を覚えようとしないのか。それは、「彼女に穀物と新しいぶどう酒と油とを与えた者、また、バアルのために使った銀と金とを多く与えた者が、わたしであるのを、彼女は知らなかった」(8節)からである。今自分が守られてあるのは、神ある故であることを知らない、神の愛に対する無知が問題であると。

確かに人は愛されても、その愛を感じることができないでいる。自分が思う通りの愛され方以外では、愛されているとは感じないことがある。ゴメルは具体的な物の豊かさに愛情を感じた。しかしそれらを備えてくれる神の配慮には愛を感じることが出来ないでいた。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」(詩篇127:1)のに、家を建ててくださる神ではなく家そのものを喜ぶ、霊的な暗さが私たちにはある。神のあわれみ深さ、恵み深さを感じることができない、霊的な無知と健忘が私たちの災いである。

だが、そのような霊的な愚かさにある者に、神は言う。「それゆえ、見よ。わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。わたしはそのところを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。」(14、15節)。後半は、ゴメル的なイスラエルに対する、神の変わらぬ愛による回復が語られる。霊的瀕死の状況であればこそ、必要とされるのは、神の深い介護である。神の変わらぬ熱い愛である。「アコル」は、わざわい、悩みを意味し、そこは、イスラエル人にとっては、悲劇的に記憶された場所である。荒野から約束の地へ入る時に、神のものを盗んで、裁かれたアカンの出来事は、ヨシュア記7章に詳しい。そこは誰も触れたくない、思い出したくもない場所であった。しかし神は、そこを望みの門にしようという。私たちにとって思い出したくもない出来事、場所を、望みの門とされる。新しい出発の場所とされる、という。

「わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう」(20節)人間が望むものは、変わらぬ愛だろう。神は罪に対して怒られるが、罪人を永遠に変わらぬ愛をもって愛される。神は人間の不真実さや不誠実さに振り回されるようなお方ではない。19、20節、「契りを結ぶ」が三度繰り返されるのは、その確かさを物語っている。神こそが天の祝福の門を開かれるお方である。この神こそが天に応答し、天は地に雨を降らせ、地は作物を出すように応答し、「イズレエル」が「イスラエル」と言われるようにしてくださる(21、22節)。いつまでも空しい心を抱えていてはならない。この神に立ち返り、「あなたは私の神」とはっきりと告白して歩ませていただこう。