ホセア書3章

世間の夫婦関係は、ギブ&テイクで成り立っている。どんなに愛し合っているように見えても、ただ与えるだけのギブ&ギブで成り立つ関係はありえない。ギブ&テイクのバランスが崩れ、それが長びけば、永遠の契りを交わしたはずの結婚関係も崩壊してしまう。それが、「人の愛」ではないか。

しかし、ホセアは、自らの体験を通して、「人の愛」に優る神の愛について語る。つまり、ギブ&ギブの愛であり、姦淫の妻を赦し、愛し続ける愛である。それがどれほど難しい注文であるかは明らかであるが、実際にホセアは、そのような行動を取るように命じられる。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。(1節)」当時「干しぶどうの菓子」は偶像崇拝アシェラの祭儀に使われた。だからまさに偶像崇拝に熱中しているイスラエルを、なおも神は愛しておられるように、というわけである。

神の愛に諭されて2節、ホセアは「銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。」「銀15シェケルと大麦1ホメル半」というのは、当時の奴隷一人の値段であったとされる。恐らく、ゴメルは、姦淫の罪を重ねる内に、奴隷にされてしまったのだろう。何の値打ちもなくなってしまったどころか、一層深い犠牲を払うことになっても、ホセアは妻を連れ戻した。「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」単に、形ばかり元の鞘に収まるというのではない。帰ってきたらとりあえず同居人となろう、というのでもない。愛の応答を得る、愛し愛される妻としてともに暮らそうという。

4節以降は、そのホセアの象徴的な行動を解釈する、イスラエルに対する神の愛についての解説になる。「王もなく、首長もなく」というのは、イスラエルが国家としての主権を失ったことを意味する。また、「いけにえも、石の柱も……なく」は、イスラエルが礼拝の祭儀を失ったことを意味する。「エポデも、テラフィムもなく」は、イスラエルが神の意志を確かめる手段を失ったことを意味する。つまり、ゴメルが奴隷とされたように、イスラエルがその不真実の故に、国と神殿を失い捕囚の民とさせられてしまうことを預言している。

しかしたとえ、そのように、イスラエルが無価値なものとなり、あたかも神に捨て置かれるような者になろうとも、「その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。」(5節)とあるように、神はこれを回復させられる。自らの不信仰がもたらした苦難にもかかわらず、イスラエルが自分の無力さを悟って、恐れおののきながら主の恵みを慕い求める時に、神はその愛によってこれを建て直す、という。

神の愛は深い。神の愛は、与え尽くし、変わらず真実である。大切なのは、その愛から迷い出ないことである。本当に自分を愛してくださる方を、見間違わないことである。ただひたすら私たちを愛してくださる神のもとに安らぎ、いつもその神の愛に応答する歩むをさせていただくこととしよう。