ホセア書4章

ホセアの悲劇的な家族の例話は、3章で終わる。4章からは、これまでホセアの家族を通して象徴的に語られたイスラエル北王国の宗教的な姦淫の現実が、直接的な言い方で語られていく。「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもない」(1節)「ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。」(2節)。「のろい」は神の名によって隣人をのろう第3戒への違反で、「欺き」「人殺し」「盗み」「姦通」は第9、6、8、7戒への違反である。つまり、十戒が破られた罪の現実が、地とその生き物にも影響を与えているという。人間の罪の現実は、生態系の破壊と決して無縁ではない。

神はこの問題は、宗教的指導者である祭司の責任にあると断罪する(4節)。だから「わたしの民は知識がない」(6節)。祭司が神の教えを軽んじたから、民も同じである、という。また祭司の務めは、律法を教えることにあるが(レビ記10:11)、神の教えを自ら否定する行いをしている祭司は、結果偶像に仕える祭司である。そうした祭司が増加するのは災いだ。導き手である祭司が、結局民と同じ偶像崇拝者となっていく。そこに神の否がある。

一見、旧約聖書時代における、祭司の任務は生け贄を献げること、とりなすことにあったように思われる。しかし、それは、神の律法を教えることとセットだったのだ。実際神の戒めがあればこそ違反に気づき、生け贄を献げる意義や神の恵みの深さも理解しうるのである。祭司は神のことばを教えなくてはならなかった。それは、現代の牧者も同じである。神を知ることについては、神のことばを受ける側の問題もある。しかし、牧師の務めは、信徒が神の言葉に生き、生かされるようになるまで、民と共に歩むことである。説教をして聖書の正しい理解を伝えるというのではなくて、聖書そのものが信徒に語り掛け、信徒が聖書から自らの魂にいのちを与えることばを見出すようにする、それが役目である。

ともあれ、11節以降、まことの神を捨てたその結果が挙げられる。一つは、霊的な判断力の喪失と正しい思考の停止である(11節)。彼らは自分の何が問題なのかもわからない。また、「木」と「杖」つまり偶像に神託を求める(12節)。真の神を捨てるならば、偶像を拝する他はない(13節)。神はこのような愚かな者たちを裁かないではおられないのである(14節)。

ホセアの警告が続く。15節以降は、イスラエルの先例に倣い、ユダが身の破滅を招くことのないように、という警告になる。偶像崇拝に加担したイスラエルが一体どんなものであったか。どんな末路を通ったのか、そこから南のユダは悟りを得なければならなかった。私たちも悟らなくてはならない。ヘブルの著者は言う。「神のみことばをあなた方に話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」(13:7)。悪い結果ばかりではない、良い結果にも目を留めて、悟ることだ。

目に見える偶像の神ではなく、目に見える頼りではなく、目には見えないが、真に私たちを支配し、私たちの歩みを導いておられる神に対する信仰持っていくことが大切である。神が真に私たちに大切なものを見分け、理解し、従う心を与えてくださるように祈ることとしよう。