ホセア書5章

神に反逆する祭司、王、民に対して、神は裁きを告げ知らされる。たとえアッシリヤの大王(13節)に助けを求めても、彼らは神のさばきから逃れることはできない、と。
イスラエルとエフライム。どう違うのだろうか。エフライムは、創世記41:52でヨセフが息子につけた名であるが、それは、「実る」というヘブル語パーラーに,地方を表すアイムという語がついて、「実り豊かな地」を意味することばである。ヨシュア記でエフライム部族に割り当てられた地域は、北はミクメタテ、南はベテ・ホロン、ゲゼルにおよぶ中央パレスチナの丘陵地帯であり(ヨシュア16:3、6)果樹が栽培され、ぶどう、オリーブ、ざくろ等がとれる、パレスチナ中最も豊かな地域の一つである。パレスチナの中央部に位置しているためか、あるいは、北王国の王ヤロブアム1世がエフライム人であったことによるものか(1列11:26)、約BC745年頃から、エフライムは北王国イスラエルと同義で用いられるようになった(イザ7: 2、5、8-9、エレ31:18、ホセ5:3以下)。そういう流れを理解すると、5章の後半は、エフライムがほとんどイスラエルの言い換えとして用いられているとわかる。
ともあれ、神はイスラエルがひたむきに神を求める時まで、イスラエルを捨て置くという。神の裁きは、神がご自身の身を引き、祝福を取り除かれることによってなれる(6節)。そして自ら蒔いたものを刈り取るようになされるのである。「エフライムにはしみのように、ユダには腐れのようになる」(12節)は、その神の裁きが徐々に、気づいた時にはとりかえしのつかないもののようになっている、ということなのだろう。
しかし大変なことである。物事がうまくいっている時には、神仏は頼まないものであるし、自分の能力も、才能も、どれほど頼りない結果しか生まないという現実には思い至らない。神に捨て置かれた時に、私たちはそのことを痛切に思い知らされることになる。しかし大切なのは、そのように羞恥に捨て去られたと思う時に、素直な心で、自分の非を認め、神を求めて行くことが出来るかどうかだ。
神は、私たちが、切に再び求めるまでは、戻っては来られないという(15節)。それは裏返せば、私たちが求めるならば、神は、私たちに対して喜んで心を開かれることだ。主を拒んだので、主は彼らを見捨てられる。しかし実際には主は共におられてご自分の民を見守っておられる。民が苦しみの中で自分たちの罪を認め、悔い改めて立ち返るのを待っておられるのだ。私たちがいざ求めた時には、神はもう「絶対赦さない」というお方ではない。あるいは、「お前の悔い改めは本当なのか」と距離を置かれるお方でもない。人間はそうであっても、神はそうではない。私たちがいかに過ちを重ね、反逆を重ね、神を拒もうとも、自らの罪を悔い改め、神に立ち返るならば、神は振り返って、私たちを受け入れてくださる。
そこに神の愛があり、私たちにも、立ち返る希望がある。神に自らを向けていこう。神の民として、神に愛されている者として歩ませていただこう。