ホセア8章

「角笛を口に当てよ」(1節)差し迫った危機を意味する。「鷲のように敵は主の宮を襲う」つまりアッシリヤがイスラエルを攻撃してくることを語っている。アッシリヤの大群から逃れる者はいない。しかし、それは、「彼らがわたしの契約を破り、わたしのおしえにそむいたからだ」。つまりアッシリヤ単独の行動ではなく、アッシリヤの背後に神がおられる。神がアッシリヤを用いてイスラエルを裁こうとしている。

2節、イスラエルの民は、神を知っているというが、彼らの実際の行いは、彼らのことばを否定している(2、3節)。神を知っていると言いながら、実際には神を知らない者のように生きている。それが彼らに神の裁きを招いた原因である。

では実際、どのように、神を知らない者のように歩んでいたのか。第一に、イスラエルは、自分たちの国を建て上げるために、誰を王とするか、そこに神のみこころを祈り求めなかった(4節)。第二に、「彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った」(4節)。彼らは目に見えないまことの神を信頼して歩むのではなく、自分たちの神々を別に祭った(4-6節)。具体的には子牛礼拝のことであろう。第三に、彼らは「風を蒔いてつむじ風を刈り取る」。つまり虚しい外国の勢力により頼み、その外国の力によって打ち砕かれる、という(7-10節)。「ひとりぼっちの野ろば」というのは、神をより頼まず、アッシリヤを当てにする頑固で愚かなイスラエルを象徴している。最後に、イスラエルは、形式的で的外れな礼拝をささげていることが糾弾される(11-14節)。

神の御心を求めない政治、偶像礼拝、外交、心のない礼拝、こういうことは、人の世には常にありがちなことである。偶像礼拝は言うまでもないが、心の無い礼拝もあるものだろう。形ばかりの礼拝で、まことの神と心から向かい合いその恵みも力も受けずに終わってしまう礼拝はある。また、政治や外交という大きな事柄ではなくても、日々の生活の中で、神のみこころを求めることもなく歩んでいることはあるものだ。実際入学、就職、結婚、そういう大きな決断を要する機会であっても、神に祈り、神の御心を探り、これが神の御心であると喜びと心得を持って歩みだす者も少ないことだろう。

だから神は言う。「サマリヤよ。わたしはあなたの子牛をはねつける。サマリヤの子牛は粉々に砕かれる。」(6節)イスラエルが神として拝んだものは、ことごとく粉砕され、それが何の役にも立たなくなると警告されている。真により頼むべきものを見極めないことの損失は大きい。「イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。」(14節)イスラエルは、自分を守るために、異教の神々を祭りあげることに熱心であった。その点ユダは、理性的で、要塞を増やすことに熱心であった。しかしいずれも、まことに自分たちを守る方が誰であるかを忘れている。真に私たちの人生を導き、私たちの人生を意味あるものとしてくださるのは、まことの神のみである。どんな偶像も、どんな技術も、経済も、私たちを真に助けるものにはならない。私たちを真に助けるものを見分け、その方をのみを頼り、日々安らかに守られて歩むことができるように祈らせていただこう。

9章 イスラエルの悲惨な運命